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「身の程を知れ」と婚約破棄されたので身の程を知った結果、私の身の程は公爵夫人でした

作者: 四宮 あおい
掲載日:2026/02/27

 秋の大夜会は、王都で最も華やかな社交の場である。

 王宮の大広間には数百本の蝋燭が灯り、磨き上げられた大理石の床に貴族たちの宝石が星のように反射している。楽団の奏でる優雅な旋律。行き交うドレスの裾が絹擦れの音を立て、グラスの触れ合う澄んだ音が途切れることなく続いていた。

 王国の貴族にとって、この夜会に招かれること自体がひとつの格である。招待状の届かない家は、翌年の社交に影を落とすとまで言われていた。


 エレノア・ロシェは、婚約者アルベール・ラヴァルの半歩後ろを歩きながら、頭の中で数字を転がしていた。

 淡い藤色のドレスに、控えめな銀の耳飾り。亜麻色の巻き毛をひとつに束ね、薄化粧の下の琥珀色の瞳はどこか遠くを見ている。養家の体面を保つため、派手すぎず地味すぎない装いを選ぶのはいつものことだった。


 (来月の提案書、税制改正第十五案の損益分岐点をもう一度見直すべきかしら。北部三州の人口流出データを反映すると、分岐点が約八パーセント下方修正になる。でも季節労働者の流入を加味すれば……)


 「エレノア、聞いているのか」


 アルベールの声で我に返った。金髪碧眼の端正な横顔が、不機嫌そうにこちらを見下ろしている。


 「ええ、もちろん。今夜のワインは南部産の良い年のものですわね」


 適当に相槌を打つ。三年の婚約期間で身についた技術だった。アルベールが話していたのがワインの話題かどうかは定かではないが、彼は大抵、自分の話を聞いてほしいだけなので中身はあまり関係がない。


 「まったく、お前は本当に愛想がない。子爵家の嫡男の婚約者としての自覚が足りないぞ」


 (あなたの婚約者として自覚すべきことが何かあるとすれば、それはあなたの領地の帳簿が破綻寸前だという事実くらいですわ)


 心の中の毒舌は、三年で随分と切れ味が増していた。


 夜会が半ばに差しかかった頃だった。

 アルベールが突然、エレノアの手首を掴んだ。


 「来い」


 有無を言わさず広間の中央へ引っ張り出される。周囲の視線が集まるのが分かった。エレノアの背中に冷たいものが走る。


 (何、この嫌な予感――)


 アルベールは広間の中央で足を止め、大きく息を吸い込んだ。まるで舞台に立つ役者のように。


 「皆様、お聞きいただきたい!」


 楽団の音が途絶えた。数十の目がこちらを向く。


 「エレノア・ロシェ。今宵をもって、我々の婚約を解消する」


 広間がざわめいた。グラスを落としかけた婦人がいた。扇の陰で囁き合う声が波紋のように広がる。


 アルベールの背後から、一人の令嬢が現れた。蜂蜜色の髪に大きな碧い瞳。小動物のように怯えた表情で――しかし、計算し尽くされた角度でアルベールの腕にすがりつく。


 マリエル・ヴァルニエ。没落した男爵家の令嬢だと、エレノアの記憶が告げた。


 「俺は――真実の愛に出会ってしまったのだ」


 アルベールの声は広間によく通った。いっそ清々しいほどに芝居がかっていた。


 「マリエルと出会い、初めて心から人を愛するとはどういうことか知った。この気持ちに嘘はつけない」


 マリエルが「アルベール様……」と涙ぐむ。完璧な演出だった。恐らくは二人で打ち合わせたのだろう。少なくともマリエルの涙は、まつげの先に留まるよう精密に制御されていた。


 アルベールはエレノアに向き直った。その顔には、奇妙な優越感が浮かんでいた。


 「身の程を知れ、エレノア。平民上がりの養女が、子爵家の嫡男に釣り合うと――本気で思っていたのか?」


 会場が静まり返った。

 同情の視線。嘲笑。好奇の目。哀れみ。さまざまな感情が入り混じった沈黙が、エレノアを包む。


 エレノアは――一瞬だけ目を閉じた。


 三年間が走馬灯のように過ぎる。アルベールの顔を立てるために抑えた言葉。「俺より賢い女は困る」と言われて飲み込んだ反論。夜更けに一人で書き続けた提案書。自分の名前を消して「E.R.」とだけ署名した夜。

 全部、この人のために我慢していた。この人に捨てられないように、この人の隣にいられるように。

 

 ……なんて馬鹿なことをしていたのだろう。


 目を開けた。

 琥珀の瞳に、もう迷いはなかった。


 「かしこまりました」


 エレノアは微笑んだ。この三年間で最も自然な笑顔だった。


 「では――身の程を知ることにいたしますわ」


 深く、優雅に一礼。誰の目にも完璧な淑女の所作だった。

 背筋を伸ばし、視線を真っ直ぐ前に据え、一度も振り返ることなく広間を横切る。ドレスの裾が大理石の上を滑る音だけが、静寂の中に響いた。


 人々は、去りゆくその背中を「哀れな養女」として見送った。


 ――しかし。


 控えの間を抜け、回廊に出たところで、待ち構えていた人影がエレノアの腕を掴んだ。


 「泣かないの?」


 赤みがかった茶髪のショートカット。そばかすだらけの顔に浮かぶ、怒りと心配が入り混じった表情。幼馴染のリュシー・メニエだった。


 エレノアは、リュシーの手を軽く叩いて微笑んだ。


 「泣くわけないでしょう」


 「でも、三年も――」


 「三年間、あの人の顔を立てるために自分を殺していたの。『俺より賢い女は困る』。『目立つな』。『余計なことをするな』。――やっと鎖が外れたのよ、リュシー」


 馬車に乗り込むエレノアの横顔は、晴れやかだった。

 泣き崩れてもおかしくない場面で、この親友が浮かべる表情ではないとリュシーは思った。しかし同時に、これが本来のエレノア・ロシェなのだとも理解していた。


 「ねえ、リュシー」


 馬車が走り出し、王宮の灯りが遠ざかっていく中で、エレノアが言った。


 「身の程を知れ、って言われたでしょう?」


 「……うん」


 「知ることにするわ。――本気で」


 窓の外を流れる夜景に、エレノアの琥珀色の瞳が映っていた。

 その目はもう、アルベールのことなど映していなかった。



 ~~~ 



 婚約破棄から三日後。

 ロシェ男爵家の、エレノアに与えられた小さな自室。

 窓際の机の上には、紐で束ねられた書類の山が積み上がっていた。


 エレノアは椅子に座り、三年分の提案書の控えを一枚一枚捲っていた。

 税制改正案。港湾関税の最適化モデル。北部三州の農業補助金の再配分計画。人口動態に基づく中期財政予測――。

 どれも、差出人の欄には「E.R.」としか書かれていない。


 (全部で四十七通。我ながらよく書いたものだわ)


 エレノアが王宮に匿名の提案書を送り始めたのは三年前、十九歳の時だった。

 数字に対する天賦の感覚は、物心ついた頃から彼女の中にあった。商人だった亡父の血かもしれない。帳簿を見れば矛盾が浮かび上がり、数字の羅列が物語のように意味を持って見える。


 十二歳の時、養家のロシェ男爵家が破産寸前であることに気づいた。家計簿を密かに分析し、養父に「この支出を削ってこちらに回せば三年で黒字になります」と進言した。

 養父は驚き、そして――困惑した。


 「エレノア、ありがたいが……女の子がそういうことをするのは、ちょっと……」


 養母シモーヌはもっと直接的だった。


 「帳簿を弄るなんて見栄えが悪いわ。あなたには淑女としての教養を身につけてほしいの」


 悪気はなかった。ただ、ロシェ男爵家にとってエレノアは「体面のよい養女」であり、それ以上でもそれ以下でもなかったのだ。


 それでもエレノアは密かに家計の改善案を実行し、三年後には本当に男爵家を黒字に戻した。もちろん、誰にも気づかれないように。


 婚約者のアルベールに至っては、さらに厄介だった。


 『俺より賢い女は困る。男を立てるのが婚約者の務めだろう?』


 あの言葉を聞いた夜、エレノアは初めて泣いた。才能を認めてほしいという甘い願いではなく、この人の隣にいる限り自分を殺し続けなければならないという事実に、だ。


 それでもアルベールを嫌いにはなれなかった。あの頃は。

 だから才能を隠し、代わりに匿名で王宮へ提案書を送るようになった。せめて自分の能力が、どこかで誰かの役に立てばいい。そう思って。


 ――しかし、もう遠慮する理由はない。


 エレノアは机の上の便箋を引き寄せ、ペンを取った。


『王宮財務局 御中

 三年来、E.R.の署名にてお送りしておりました提案書の件につき、ご連絡申し上げます。

 E.R.は私、エレノア・ロシェです。直接お話しする用意がございます。

 ご検討いただければ幸いです。

 エレノア・ロシェ』


 リュシーに頼んで、翌朝一番に王宮の文書受付に届けてもらった。


 返事は、驚くべき速さで届いた。

 その日の夕刻。日没前である。


 しかも返書の差出人は、財務局の一般職員ではなかった。筆頭監査官にして公爵家当主――ルートヴィヒ・ノルトグラーフの直筆だった。


 エレノアは封蝋を割り、中の便箋を広げた。

 そこには、几帳面でありながらどこか切迫した筆跡で、たった二行だけ書かれていた。


『明日、財務局本庁舎へ来られたし。

 時間は不問。待つ。』


 「……お役所仕事にしては異例の速度ね」


 リュシーが横から覗き込み、目を丸くした。


 「ノルトグラーフ公爵って、あの『氷の公爵』でしょ? 王宮で最も愛想がないって有名な。怖くない?」


 エレノアは首を傾げた。


 「怖い? 帳簿の話ができる相手がいるなんて、生まれて初めてよ。楽しみだわ」


 「……あんたの感覚、たまに本気で心配になる」


 翌日。

 王宮財務局本庁舎は、王宮の東翼に位置する重厚な石造りの建物だった。

 正面入口から入り、受付で名を告げると、職員が驚いた顔をして奥へ走っていった。程なくして戻ってきた彼は、まだ驚いた顔のまま「最上階へどうぞ」とエレノアを案内した。


 (最上階。筆頭監査官の執務室ね)


 長い廊下を歩き、重い樫の扉の前に立つ。職員が扉を叩き、中から低い声が「入れ」と応じた。


 扉が開いた瞬間、エレノアの目に飛び込んできたのは――書類だった。


 執務室の広さは十分にあるはずなのに、机の上は書類の山で占領されていた。しかもただ積み上がっているのではない。三十以上の山が、それぞれ異なる色の付箋で整然と分類されている。赤、青、緑、黄色、紫――。


 その書類の山の向こうに、男が座っていた。


 銀灰色の髪。氷のように澄んだ青い瞳。長身痩躯の身体は、質素だが仕立ての良い執務服に包まれている。貴族にしては日に焼けた手。表情は――無い。まるで精巧な彫像のように、顔の筋肉が一切動いていなかった。


 ルートヴィヒ・ノルトグラーフ。

 「氷の公爵」の異名を持つ、王国財務局の頂点に立つ男。


 しかし、エレノアが最初に感じたのは威圧感ではなかった。


 (この人、付箋の色分け体系が私と同じだ)


 赤は最優先。青は検討中。緑は承認済み。黄色は保留。紫は要調査。十二歳の頃から自分が使ってきた分類法と、ほぼ同一のシステムが目の前にあった。


 (――気が合いそう)


 およそこの場面にふさわしくない第一印象だった。


 ルートヴィヒはエレノアの顔を見た。二秒ほど観察するような視線を向けた後、挨拶の代わりに机の引き出しを開けた。


 取り出されたのは、分厚いファイルだった。


 ルートヴィヒがそれを机の上に置く。表紙には、几帳面な字で「E.R. 提案書綴 全四十七件」と書かれていた。


 エレノアは息を呑んだ。


 ファイルを開くと、自分が三年間送り続けた提案書の全てが、一通の欠落もなく綴じられていた。しかもそれだけではない。余白という余白に、赤インクで書き込みがびっしりと入っている。


 『第七案の損益分岐点算出において、北部三州の季節変動を考慮すべきではないか?』

 『第十二案の減価償却モデルは秀逸。ただし初年度の移行コストを過小評価している可能性あり。筆者に確認したい』

 『第二十案の人口動態予測は画期的。この精度で中期予測を出せる人材を、なぜ我々は確保できていないのか』


 質問、補足、感嘆、疑問――。三年分の赤インクは、提案書を読んだ者の真剣さをこれ以上なく物語っていた。


 (この人は――私の書いたものを、本気で読んでくれていた)


 胸の奥が、じわりと熱くなった。


 ルートヴィヒが口を開いた。


 「税制改正第七案の損益分岐点の算出根拠を聞きたい」


 挨拶はなかった。自己紹介もなかった。天気の話も、婚約破棄への同情も、世間話の類は一切なかった。

 ただ純粋に、数字の話がしたい――その一心が、短い言葉から伝わってきた。


 エレノアは、思わず笑みを浮かべた。


 「第七案ですね。北部三州の人口流出データを基礎としていますが、季節労働者の流入を加味すると分岐点は約八パーセント下方修正が必要です。ただし――」


 「ただし、南部の港湾関税改正と連動させれば、差分は三パーセント以内に収まる。そうだな?」


 「ええ。第九案で提案した港湾関税モデルと組み合わせれば、実質的には――」


 「プラスに転じる。俺も同じ結論に至った」


 ルートヴィヒの目が、わずかに――ほんの少しだけ――輝いた。

 それは表情が変わったというほどのものではなかった。氷の彫像にわずかに光が差したような、注意していなければ見逃すほどの変化。しかしエレノアはそれを見逃さなかった。


 質疑応答が始まった。

 第七案から始まり、第十二案の減価償却モデル、第二十案の人口動態予測、第三十三案の農業補助金再配分――。ルートヴィヒの質問は的確で、一切の無駄がなく、そしてどれもがエレノアの提案の核心を正確に突いていた。


 エレノアは答えながら、奇妙な感覚に包まれていた。


 (この人は、私の考えを理解している。言葉にする前に、次の展開が見えている)


 まるで、三年間の文通相手と初めて対面したような――いや、それ以上だった。同じ言語を話す者同士が、初めて出会った感覚だった。


 二時間が経った。

 質疑が終わり、執務室に沈黙が降りた。窓から差し込む午後の光が、書類の山に長い影を落としている。


 ルートヴィヒは椅子の背にもたれ、エレノアを見つめた。無表情のまま――しかし、その沈黙には明らかに何かが充填されていた。


 口を開いた。閉じた。また開いた。


 「三年間探していた」


 低い声は、執務室に静かに響いた。


 「――君が《匿名の賢者》か」


 その言葉の重みに、エレノアは一瞬言葉を失った。

 三年間、誰にも名前を明かさず送り続けた提案書。反応があるかどうかさえ分からなかった。それを、この人はずっと読み続け、書き込みを重ね、差出人を探していた。


 感慨に浸る間もなく、ルートヴィヒは間髪入れずに続けた。


 「私の補佐官になれ」


 一拍の間。


 「――いや、妻になれ。その方が話が早い」


 エレノアの背後で、茶を運んできた側近がカップを取り落とした。陶器が砕ける音が執務室に響き渡ったが、ルートヴィヒは眉一つ動かさなかった。


 エレノアは固まった。二秒ほど瞬きを忘れた後、真顔で返した。


 「……プロポーズが業務効率化の一環なのはどうかと思います」


 「効率は褒め言葉だ」


 「なるほど。では非効率な質問をさせていただきますが――それは求婚ですか、それとも人事異動の内示ですか」


 ルートヴィヒが黙り込んだ。

 三秒。五秒。十秒。

 側近たちが扉の隙間から息を詰めて見守っている。


 「……両方ではだめか」


 エレノアはゆっくりと息を吐いた。


 「補佐官の件は前向きに検討させていただきます。結婚の件は――保留で」


 「合理的だ」


 ルートヴィヒは即座に頷いた。その背後で、割れたカップの欠片を拾っていた側近が同僚にそっと耳打ちした。


 「……閣下が人間と十五分以上会話したのは、在任中初めてです」


 「二時間だ。二時間喋った。しかもプロポーズまでした」


 「歴史的事件だ……」


 側近たちの小声の動揺を背に、エレノアは財務局を後にした。


 帰り道。リュシーが迎えの馬車の中で待っていた。


 「どうだった?」


 「プロポーズされた」


 「は?」


 「初対面で」


 「はああ?」


 「業務効率化のためと、人事異動を兼ねてるらしいわ」


 リュシーは五秒ほど絶句した後、深いため息をついた。


 「……あんたたち、お似合いかもしれない」


 こうして、エレノア・ロシェは王宮財務局の非常勤補佐官として働くことになった。

 彼女が「身の程」を知る旅は、まだ始まったばかりだった。



 ~~~ 



 王宮財務局の朝は早い。

 夜明けとともに庁舎の門が開き、職員たちが三々五々と出勤してくる。その中をエレノアは足早に歩いていた。出勤初日からもう一ヶ月。すっかり見慣れた廊下、見慣れた石畳、見慣れた書類の匂い。


 「おはようございます、ロシェ補佐官」


 すれ違う職員が頭を下げる。一ヶ月前は「何だあの小娘は」という顔をしていた連中が、今では自発的に挨拶を寄越すようになっていた。


 理由は単純だった。エレノアが旧制度の無駄を次々と指摘し、具体的な代替案まで添えて改善したからだ。


 最初の一週間で、税務申告の処理手順を三工程短縮した。二週目には、三年間放置されていた補助金の二重支給問題を発見し、是正策を提出した。三週目には中期財政予測の精度を大幅に向上させる新しい統計モデルを組み上げ、局内の財務官僚たちの度肝を抜いた。


 「平民上がりだろうと何だろうと、あの数字は本物だ」


 局内でそう囁かれるようになるまで、一ヶ月もかからなかった。


 しかし、エレノアにとって何よりも心地よかったのは、ルートヴィヒ・ノルトグラーフとの仕事だった。


 ルートヴィヒが方針を示す。エレノアが数字で裏づける。二人で制度設計を詰める。

 その工程に、一切の無駄がなかった。ルートヴィヒの思考は速く、エレノアの分析は正確で、互いの弱点を互いの強みが自然に補完する。まるで二つの歯車が噛み合うように――否、歯車というより、一台の精密時計の中の二つの針のように、二人の仕事は連動していた。


 問題があるとすれば。

 ルートヴィヒ・ノルトグラーフという男の、感情のラベリング能力が壊滅的であることだった。


 異変は、エレノアの出勤三日目から始まった。


 「お茶が冷めたわ」


 エレノアが独り言を呟いた翌日、執務室に常時保温式のティーポットが設置された。しかも二種類。エレノアが好む山吹茶と、午後に飲む薄荷茶が、それぞれ専用のポットで常に適温に保たれている。


 「閣下、これは?」

 「業務環境の整備だ。補佐官が冷めた茶で集中力を欠くのは非効率的だ」


 なるほど。一理ある――ような気もした。


 翌週。

 「この椅子、少し硬いわね……」


 何気なく呟いた独り言だった。しかし翌日出勤すると、エレノアの席にはクッション付きの特注椅子が鎮座していた。座面は柔らかく、背もたれの角度は人間工学に基づいた設計で、肘掛けの高さはエレノアの体格に合わせて調整されていた。


 「閣下」

 「椅子が身体に合わないと姿勢が崩れ、長時間の作業効率が低下する。投資対効果は十分だ」


 エレノアは椅子に座った。確かに極上の座り心地だった。


 (……まあ、仕事の効率化と考えれば、筋は通る……のかしら)


 さらに翌週。

 エレノアが深夜まで残業し、書類の山に突っ伏して寝落ちしてしまった夜のこと。


 目を覚ますと、肩にルートヴィヒの上着がかかっていた。上質な羊毛の裏地から、微かにインクと紙の匂いがする。そして机の上にはメモが一枚。


 『明日午前の定例会議は午後に変更した。――L.N.』


 翌朝、側近に確認すると、ルートヴィヒは直々に「補佐官の睡眠は業務効率に直結する。午前の会議を午後に回せ」と指示を出したのだという。


 「閣下。会議の予定を私一人の睡眠のために変更するのは、さすがにやりすぎでは」

 「根拠がある。睡眠不足の人間の判断精度は平均三十七パーセント低下する」

 「その数字の出典はどちらですか?」

 「……体感だ」

 「体感は数字とは言いません、閣下」

 「では今度、論文を探しておく」


 この一連のやりとりを、局内の側近たちは固唾を飲んで見守っていた。


 「なあ……閣下がやっていることは、客観的に見て業務環境の整備か?」


 側近筆頭のオリヴィエが、同僚にそっと問いかけた。


 「違う。あれは嫁の世話だ」


 「だよな」


 「閣下本人は気づいていないのか?」


 「完全に気づいていない。本気で業務効率化だと思っている」


 「……言うか?」


 「命が惜しい」


 「同感だ」


 側近たちの間では「閣下の業務環境整備リスト」なる文書が密かに回覧されていた。項目は日々増え続け、一ヶ月で二十三項目に達していた。


 エレノア本人も、薄々気づいてはいた。

 いた、のだが――


 (いえ。これは業務上の信頼よ。閣下は合理的な方だもの。補佐官が快適に働ける環境を整えるのは、組織の長として当然の判断だわ)


 心の中で必死に合理化する。だが、リュシーは容赦がなかった。


 「ねえエレノア」


 昼食の時間。庁舎の中庭で、リュシーがサンドイッチを頬張りながら言った。


 「あんた最近、帳簿の話するときより公爵の話するときの方が早口よ」


 「気のせいよ」


 「気のせいじゃない。昨日なんて『閣下の赤インクの書き込みが的確で』って語り始めてから五分間ノンストップだった。帳簿の話では三分が限度なのに」


 「……それは、閣下の分析が特筆に値するからであって――」


 「はいはい。業務上の信頼ね」


 リュシーがにやりと笑った。エレノアは顔が熱くなるのを感じ、サンドイッチを口に押し込んで話を打ち切った。


 ある夜のこと。

 エレノアが執務室で遅くまで残業していると、隣の机に人の気配がした。


 顔を上げると、ルートヴィヒが何の前触れもなく座っていた。無表情のまま書類を広げ、赤インクのペンを走らせている。


 「……閣下。ご自分の執務室があるのでは?」


 「こちらの方が集中できる」


 「閣下の執務室の方が広くて、調度品も立派ですが」


 「広さは集中と無関係だ」


 「では何が関係しているのですか?」


 ルートヴィヒのペンが止まった。二秒ほど考え込むような間があった。


 「……照明だ。こちらの部屋の照明の方が目に優しい」


 「同じ照明ですよ」


 「……では、空調だ。こちらの方が温度が適切だ」


 「同じ建物の同じ階です。空調に差はありません」


 ルートヴィヒが黙り込んだ。

 五秒。十秒。

 ペンを持つ手が、かすかに――本当にかすかに――所在なさげに動いた。


 エレノアはそれ以上追及しなかった。

 追及すると、自分も照れるということに気づいてしまったからだ。


 「……お茶、淹れましょうか」


 「……頼む」


 二人の間に、書類を捲る音と、茶を注ぐ音だけが流れた。

 それは驚くほど、心地よい沈黙だった。




 一方その頃。

 王都の反対側、ラヴァル子爵邸では、全く異なる種類の沈黙が支配していた。


 アルベール・ラヴァルは、執務室の机に向かっていた。

 目の前には帳簿が広がっている。数字の羅列。しかし、その数字が何を意味しているのか、アルベールにはほとんど理解できなかった。


 (おかしい。こんなはずでは――)


 ラヴァル子爵領の経営が、急速に悪化していた。

 今期の税収見込みは、前年比で四割減。商人たちとの取引条件は軒並み悪化し、領民からの陳情は山積みになっている。


 アルベールには理由が分からなかった。自分は以前と同じように領地を治めているはずだ。同じように判断し、同じように指示を出している。なのに、なぜ全てが上手くいかないのか。


 彼は知らなかった。

 これまで「同じように」上手くいっていた理由は、エレノアが裏で全てを支えていたからだということを。


 税務申告書の下書き。商人との取引交渉の準備資料。領民への告知文の草稿。農地の輪作計画。備蓄食料の管理表。それらの全てが、エレノアの手によって――アルベールの名前で――作られていた。


 エレノアがいなくなった途端、歯車は回転を止めた。いや、歯車があったことにすら、アルベールは気づいていなかったのだ。


 「アルベール様ぁ」


 甘えた声とともに、マリエルが執務室に入ってきた。蜂蜜色の髪を揺らし、大きな碧い瞳を潤ませて。


 「ねえ、今度の夜会に着ていくドレスなんですけど……この仕立て屋さんのがとっても素敵で……」


 マリエルが差し出した見積書を見て、アルベールの顔が引きつった。ドレス一着の値段が、領地の月収の三分の一に相当する額だった。


 「り、マリエル。今は少し、出費を控えた方が――」


 「えっ……」


 マリエルの瞳がみるみる潤んだ。唇が震え、今にも泣き出しそうな顔になる。


 「やっぱり、私じゃ駄目なんですね……。エレノアさんなら、こんなこと言わなかったのかしら……」


 「ち、違う! そういうことじゃない! 分かった、買おう。好きなものを選んでくれ」


 マリエルの顔がぱっと明るくなった。「ありがとうございます、アルベール様!」と弾む声で去っていく。


 アルベールは机に突っ伏した。


 (……なんとかなる。なんとかするさ)


 なんとかなる根拠は、どこにもなかった。


 社交界でも、風向きは完全に変わっていた。


 あの秋の大夜会でアルベールが行った公開婚約破棄は、時間が経つにつれて評判を落としていた。当初は「平民上がりの養女だから仕方ない」と見る向きもあったが、エレノアが王宮財務局で目覚ましい実績を上げているという噂が広まるにつれ、世間の評価は反転した。


 「あのラヴァルの息子、とんでもない女を捨てたらしいぞ」

 「《匿名の賢者》がロシェ家の養女だったとは。それを見抜けないどころか、公衆の面前で辱めたのだから、見る目がないにも程がある」

 「身の程を知れ、と言ったそうだが――身の程を知るべきはどちらだったのかね」


 夜会の招待状は目に見えて減っていった。アルベールが出席しても、以前のように人が集まらない。話しかけてくる者が減り、代わりに背後でひそひそと囁く声が増えた。


 それでもアルベールは認められなかった。


 「あいつは所詮、俺の婚約者だったから注目されているだけだ。時間が経てば忘れられる」


 鏡に向かってそう呟く。しかし、その声に以前の自信はなかった。



 ~~~ 



 エレノアが財務局で働き始めて三ヶ月。

 彼女の名は、もはや王宮の隅々にまで知れ渡っていた。


 「E.R.」――《匿名の賢者》。その正体が婚約破棄された養女だったという事実は、宮中で格好の話題になった。しかし話題の中心はすぐに出自の物珍しさから実務能力の確かさへと移り変わり、今やエレノアは「ノルトグラーフ公爵の右腕」として、門閥主義の保守派ですら無視できない存在になっていた。


 そしてその日は、唐突にやって来た。


 午後の執務時間。ルートヴィヒがエレノアを自室に呼んだ。

 いつもの通り、扉を開けると書類の山。いつもの通り、ルートヴィヒは無表情で椅子に座っている。


 「座ってくれ」


 いつもの通り――ではなかった。

 ルートヴィヒの声は平静を装っていたが、エレノアの耳はわずかな緊張を聞き取った。赤インクのペンが、いつもの位置ではなく、少しずれた場所に置かれている。書類の山の配置が微妙に違う。まるで何度も手を伸ばしては引っ込めたような痕跡。


 (……何か、いつもと違う)


 エレノアが対面の椅子に腰を下ろすと、ルートヴィヒは一つ呼吸を置いてから口を開いた。


 「以前の申し出を繰り返す」


 (来た)


 「妻になってほしい」


 エレノアは予感していた。していたが、心臓は正直だった。一拍だけ、大きく跳ねた。


 しかし表面上は冷静を保ち、いつもの調子で返す。


 「また業務効率化ですか?」


 ルートヴィヒが言葉に詰まった。

 無表情のまま――しかし、声だけがわずかに震えた。


 「……違う」


 間。


 「効率の問題ではない。……たぶん」


 エレノアは黙って待った。

 ルートヴィヒは長い沈黙の後、まるで決算報告書を読み上げるような――しかし、その硬い口調の奥に、今まで聞いたことのない切実さを滲ませて――語り始めた。


 「君がいない日の執務室は、業務に支障はない」


 「はい」


 「書類も回る。会議も進む。数字の上では、何一つ問題がない」


 「……ええ」


 「――なのに、まったく駄目なのだ」


 エレノアの心臓が、また一つ跳ねた。


 「……駄目、とは」


 「分からない」


 ルートヴィヒの眉間に、深い皺が寄った。氷の公爵と呼ばれる男が、初めて見せる――困惑、としか言いようのない表情だった。


 「数値化できない。だが――君の椅子が空いていると、俺は三回はそちらを見る。茶を淹れて、二人分用意してから気づく。報告書の赤入れをしながら、君ならどう読むかを考えている。これは――」


 言葉が途切れた。

 感情にラベルをつけられない人間が、必死にラベルを探している。そんな顔だった。


 「――業務上の問題ではない。君個人の問題だ。俺の中の、君にしか該当しない問題だ」


 沈黙。

 窓の外で鳥が鳴いている。遠くで馬車の轍が石畳を叩く音がする。


 エレノアは――思わず吹き出した。

 笑い声が、こらえきれずに唇から漏れた。同時に、目の奥がじわりと熱くなった。


 「……閣下」


 滲みそうになる涙を、笑顔で押し留めて。


 「今のは、世間一般では『好き』と言います」


 ルートヴィヒが瞬きをした。


 「……そうか」


 一拍。


 「では、そうだ」


 「もう少し情緒を込めて言い直していただけますか」


 「…………」


 ルートヴィヒの沈黙は長かった。三秒。五秒。

 唇が動きかけて止まり、もう一度動く。

 氷の公爵は、感情の言語化において明らかに苦戦していた。


 やがて、絞り出すように――しかし確かに、彼の口から言葉がこぼれた。


 「……好きだ。たぶん、かなり」


 「『たぶん』は余計です」


 「好きだ。かなり」


 「『かなり』も微妙ですが、まあ良しとしましょう」


 「…………好きだ。確定事項だ」


 エレノアは少し俯いた。

 笑っているのか泣いているのか、自分でもよく分からなかった。ただ胸の奥が、帳簿の数字のようにきっちりと――けれど数字では絶対に表せないもので――満たされていくのを感じた。


 顔を上げた。


 「――お受けします。ただし条件があります」


 「言え」


 「対等な仕事仲間として。補佐官としての立場は変えないでください」


 「当然だ。使えない人間を隣に置く趣味はない」


 「それは愛の言葉なのか人事評価なのか判断に迷いますわね」


 「どちらでもある」


 「両方なんですね、相変わらず」


 エレノアが笑うと、ルートヴィヒの口元がほんのわずかに――本当に微かに――緩んだ。

 扉の向こう側で、側近のオリヴィエが同僚と小さくガッツポーズを交わしていた。




 婚約の報せは、翌日にはもう社交界を駆け巡っていた。


 「公爵夫人ですって!? あの婚約破棄された養女が!?」

 「信じられないわ。子爵家にすら不釣り合いだと捨てられた娘が、公爵夫人?」

 「いえ、逆よ。公爵が見初めるほどの人物を、子爵家が見抜けなかっただけ」


 社交界の評価は明確に二分された。そして時間が経つにつれ、後者の見方が圧倒的多数を占めるようになった。


 この報せが最も大きな衝撃を与えたのは、言うまでもなくアルベール・ラヴァルだった。


 その頃、彼の状況は壊滅的と言って差し支えなかった。


 領地の赤字は膨張の一途をたどっていた。エレノアが裏で支えていた経営基盤は完全に崩壊し、アルベール自身の判断――場当たり的な投資、根拠のない楽観、帳簿の放置――が次々と裏目に出ていた。商人たちからの信用は失われ、取引条件は悪化の一途。借金は雪だるま式に膨れ上がっていた。


 そして――マリエルの仮面が、ついに剥がれた。


 「アルベール様。お話があるの」


 ある夕刻。マリエルはいつもの甘えた声で切り出した。しかし、その目には今まで見せたことのない冷たい光が宿っていた。


 「実は、別の方からお話をいただいているの。伯爵家の方なの。ずっと悩んでいたのだけれど……」


 アルベールの顔が蒼白になった。


 「待ってくれマリエル。お前は――真実の愛はどうなった? あの夜会で、俺たちは――」


 「真実の愛?」


 マリエルは微笑んだ。甘い、いつもの微笑み。しかしその奥にある感情が、今までとは全く異なっていた。


 「ええ、素敵な言葉よね。大好きだったわ、その言葉」


 声のトーンが変わった。舌足らずの甘さが消え、乾いた本音が剥き出しになる。


 「でもね、アルベール様。真実の愛ではドレスは買えないの。借金も返せないし、招待状も届かない。夜会で誰も話しかけてくれない男の隣に立ち続けるには、真実の愛だけでは全然足りないのよ」


 アルベールは言葉を失った。


 マリエルは最後に、止めの一言を放った。


 「私を責めないでね、アルベール様。だって――貴方も同じことをしたでしょう?」


 「……何?」


 「エレノアさんの能力が必要だったから婚約していた。いらなくなったから捨てた。――私は同じことをしているだけよ。貴方に教わったの」


 にっこりと微笑んで、マリエルは部屋を出ていった。

 アルベールは一人残された執務室で、長い間動けなかった。マリエルの言葉が、残酷なまでに正確だったからだ。




 追い詰められたアルベールは、最後の手段に出た。


 王宮財務局。午後の執務時間。

 エレノアが自席で報告書の赤入れをしていると、取り次ぎの官吏が困惑した顔で来客を告げた。


 「あの……ロシェ補佐官。ラヴァル子爵家のアルベール様がお見えです。面会を希望されています」


 エレノアの手が一瞬だけ止まった。

 それから、何事もなかったようにペンを置き、「お通しして」と答えた。


 アルベールは青い顔をしていた。

 三ヶ月前の夜会で見た自信満々の貴公子の面影はなく、頬はこけ、目の下に濃い隈が刻まれている。仕立ての良い服は同じだが、どこか皺が目立ち、手入れが行き届いていなかった。


 エレノアの前に立ったアルベールは、声を震わせて切り出した。


 「エレノア……頼む。ラヴァル領の経営を、もう一度助けてくれないか」


 一拍の間。


 「君の力が必要なんだ。君がいなくなってから、全てが――全てが上手くいかない。帳簿も、商人との取引も、領民への対応も。俺一人では――」


 彼の声は途中から掠れた。

 プライドを飲み込んで頭を下げるということが、この男にとってどれほどの苦痛であるか、エレノアには分かった。分かった上で――何も感じなかった。


 エレノアは書類から顔を上げ、アルベールを見た。


 怒りは、なかった。

 軽蔑も、なかった。

 ましてや同情など、欠片もなかった。


 ただ、完全に――何の感慨もない、他人を見る目だった。


 三年間、この人の隣で自分を殺してきた。この人に認められたくて、この人に必要とされたくて、才能を隠し、名前を消し、影に徹した。それがどれほど苦しかったか、アルベールは知らない。知ろうともしなかった。


 そして今、都合が悪くなったから助けを求めに来た。あの夜会で自分を切り捨てたのと同じ口で、「力が必要だ」と言う。


 その無自覚さに怒る気力すら、もうなかった。

 ただ――終わったのだ。とっくに。


 「アルベール様」


 エレノアの声は穏やかだった。穏やかで、平坦で、そして完璧に事務的だった。


 「あの夜、身の程を知れと仰いましたよね?」


 「あ、あれは――」


 「おかげさまで知りました」


 にこりと微笑む。社交界で通用する、非の打ちどころのない淑女の笑顔。


 「私の身の程は、どうやら貴方よりだいぶ上だったようです」


 アルベールの顔から血の気が引いた。

 しかしエレノアは感情を挟まず、事務的に続けた。


 「それから、ひとつ誤解を正させてください。『もう一度助ける』と仰いましたが――もう一度、ではありません」


 「……何?」


 「私が送っていた提案書は、ラヴァル領のためではなく、王国のために書いたものです。貴方の領地がその恩恵を受けていたのは、たまたまです」


 アルベールの目が見開かれた。


 「そして今の私は王宮の財務局に仕える身。一子爵家の私的な経営相談をお受けする立場にはございません」


 完璧な敬語。完璧な笑顔。

 そして――完璧な拒絶。


 エレノアは言葉の一つ一つに、怒りも恨みも込めなかった。込める必要がなかった。事実を述べただけだ。事実は、それだけで十分に鋭い。


 「ご自分の身の程は、ご自分でお確かめになるとよろしいかと」


 ペンを手に取り、書類に視線を戻す。


 「――忙しいので、お引き取りください」


 アルベールの唇が震えた。何か言いたそうに口を開き――しかし、何の言葉も出てこなかった。

 彼は背を丸め、幽鬼のような足取りで執務室を出ていった。


 アルベールの足音が廊下の向こうに消えた後。

 隣室との扉がわずかに開き、銀灰色の髪が覗いた。


 「聞いてましたね」


 「壁が薄い」


 「石造りの厚さ三十センチの壁ですが」


 「……窓が開いていた」


 「閉まっています」


 ルートヴィヒが執務室に入ってきた。無表情のまま――しかし、こちらに向ける視線に、普段とは違う柔らかさがあった。


 「…………格好よかった」


 「盗み聞きの感想を述べるのは格好悪いですよ、閣下」


 「次からは堂々と聞く」


 「それはそれで問題です」


 言い合いながら、エレノアはふと気づいた。

 手が震えていた。

 アルベールの前では完璧に平静を保ったが、終わってみれば感情がどっと押し寄せてきた。怒りでも悲しみでもない。ただ――三年間の重荷をようやく下ろした、その反動だった。


 ルートヴィヒは何も言わず、自分の席に戻った。赤インクのペンを取り、書類に向かう。

 しかしそのペンは動いていなかった。ただ、エレノアが落ち着くまで――黙って、同じ部屋にいてくれた。


 (……ああ、この人はこういう人だ)


 エレノアは小さく息を吐き、自分も書類に向き直った。

 二人の間に流れる沈黙は、いつもと同じ――穏やかで、心地よいものだった。




 アルベールが去って数日後、今度は養母シモーヌがエレノアのもとを訪ねてきた。


 待ち合わせの茶房に現れた養母は、以前より痩せて見えた。品の良いドレスに身を包んでいるが、その目は落ち着かなげに揺れている。


 「エレノア。久しぶりね」


 「ええ、お母様。お元気でしたか」


 穏やかに茶を勧め、当たり障りのない話題で場を温めた後、シモーヌは本題を切り出した。


 「あなたが公爵様と婚約なさったと聞いて。……本当に、立派になったわね」


 声が震えていた。


 「あなたはやっぱり、私たちの自慢の娘よ。ずっと、ずっと応援していたの。あの夜会のことも……本当に心を痛めていて……」


 エレノアは茶杯を手に、養母の言葉を静かに聞いていた。


 心を痛めていた。応援していた。――きっと、嘘ではないのだろう。シモーヌなりに、それなりの感情はあったのだと思う。


 しかし、あの夜会で。アルベールが広間の中央でエレノアを辱めたあの瞬間。養父母は何をしていたか。


 何もしなかった。


 騒動を知って駆けつけることもなく、事後に抗議の声を上げることもなく、ただ「仕方なかったわね」の一言で済ませた。


 仕方なかった。――養女の体面より、子爵家との関係の方が大事だった。ただそれだけのことだ。


 エレノアは微笑んだ。穏やかに、しかし明確に。


 「お母様。感謝はしています。引き取ってくださったこと、育ててくださったこと。それは本当です」


 「ええ、ええ。分かっているわ、エレノア」


 「でも――私は、貴方がたの『体面のいい養女』として生きることは、もうやめました」


 シモーヌの表情が凍った。


 「これからは自分の名前で生きます。エレノア・ロシェとして。誰かの添え物ではなく」


 「エレノア、そんな……。私たちは、あなたのことを――」


 「分かっています。愛情がなかったとは思っていません。ただ、それは――私を一人の人間として見てくれた愛情ではなかったでしょう?」


 シモーヌが目を伏せた。反論しなかった。できなかった。


 エレノアは優しく言葉を継いだ。


 「縁を切るとは言っていません。ただ、対等な関係で付き合いたいのです。養女としてではなく、一人の大人として」


 シモーヌの目から涙がこぼれた。それは多分、初めてエレノアに対して流した、本当の涙だった。


 「……ごめんなさいね。もっと、ちゃんとしてあげればよかったわね」


 エレノアは何も言わず、養母の手にそっと自分の手を重ねた。



 ~~~ 



 婚約から半年後。

 冬の終わり、春の気配が王都の空気をほんのりと温め始めた頃。

 ルートヴィヒ・ノルトグラーフとエレノア・ロシェの結婚式が執り行われた。


 場所は、王宮の大広間。


 あの秋の大夜会と同じ場所だった。数百本の蝋燭が灯り、大理石の床に光が踊っている。同じ広間。同じ天井画。同じ楽団の旋律。


 違うのは、エレノアの隣に立つ男と――エレノア自身だった。


 式の直前。大広間に隣接する控え室で、リュシーがエレノアのドレスの裾を整えていた。純白のドレスは、エレノアの小柄な体躯を包みながら、不思議な存在感を放っている。亜麻色の巻き毛は丁寧に結い上げられ、琥珀色の瞳が蝋燭の光を映してきらめいていた。


 「ねえ、緊張してる?」


 リュシーが顔を上げて聞いた。


 「少しだけ」


 エレノアは鏡の中の自分を見つめた。


 「……数字なら絶対に間違えないのに。こういうのは計算できないから」


 「それでいいのよ」


 リュシーが、少しだけ湿った声で笑った。


 「計算できないことを楽しめるようになったんだから、あんたは」


 エレノアはリュシーを見た。幼い頃からずっと隣にいてくれた友。才能を隠していた時代も、匿名の提案書を送り続けた日々も、あの夜会の夜も。


 「リュシー」


 「ん?」


 「ありがとう。ずっと」


 リュシーは一瞬だけ目を潤ませ、それからいつもの調子で「はいはい、湿っぽいのは禁止。化粧が崩れる」と手を振った。


 大広間の扉が開いた。

 処狭しと並んだ招待客たちの間を、白い絨毯が祭壇まで一直線に伸びている。


 その祭壇の前に、ルートヴィヒが立っていた。


 銀灰色の髪を整え、式典用の白い礼装に身を包んだ姿は、彫像のように端整だった。表情はいつも通りの無表情――に見えた。


 しかし、エレノアには分かった。


 耳の先が赤い。

 そして、組んだ手が微かに震えていた。


 (この人、無表情のまま緊張で壊れかけてる)


 思わず口元が綻んだ。


 エレノアが絨毯の上を歩き始める。一歩、また一歩。招待客たちの視線が集まるが、エレノアの目にはルートヴィヒしか映っていなかった。


 祭壇の前に並んで立つ。

 司祭が祝詞を読み上げ、互いの手を取り、誓いの言葉が交わされた。


 「健やかなるときも病めるときも、富めるときも貧しきときも、これを愛し、これを敬い――」


 ルートヴィヒの声は低く、落ち着いていた。しかし、エレノアの手を握る力だけが、わずかに強かった。


 誓いの言葉が終わった。

 司祭が穏やかに微笑み、告げた。


 「では――誓いの口づけを」


 ルートヴィヒが固まった。


 完全に、固まった。


 氷の彫像が文字通り氷になったかのように、一切の動きを停止した。


 一秒。二秒。三秒。

 会場がざわつき始めた。

 五秒。側近のオリヴィエが青ざめた。

 七秒。招待客の間に困惑が広がる。

 十秒――。


 エレノアが小声で囁いた。


 「閣下。フリーズしています」


 「……手順書がない」


 「愛に手順書はありません」


 「…………そうか」


 ルートヴィヒの手がぎこちなく動いた。エレノアの肩に――いや、頬に――いや、結局、額に手を添えた。


 そして、そっと――不器用に、ぎこちなく、しかし確かに――額に口づけた。


 予定調和とはかけ離れていた。優雅でもなければ、ロマンチックでもない。しかし、その不器用さの中にある誠実さを、会場の誰もが感じ取った。


 静かな拍手が起こり、やがてそれは大きな祝福の波となって広間を満たした。


 エレノアは頬が熱くなるのを感じながら、隣のルートヴィヒを見上げた。


 氷の公爵の耳は、先端まで真っ赤だった。




 結婚式から数ヶ月後。


 ラヴァル子爵家に、王宮財務局から監査通知が届いた。

 定期監査――年に一度、全爵位保有家に対して実施される、通常の手続きである。


 エレノアは、この監査に際して特別なことは何もしなかった。

 容赦もしなければ、配慮もしない。手加減も、逆に重点的な調査も行わない。ただ通常通りの監査を、通常通りの基準で、通常通りに執行した。


 それだけで――ラヴァル子爵家は崩壊した。


 監査の結果、税の長期未納、帳簿の重大な虚偽記載、補助金の不正受給が次々と発覚した。どれもエレノアが去った後、アルベールの杜撰な管理の下で積み重なったものだった。


 王宮は迅速に処分を下した。

 爵位剥奪。領地没収。ラヴァル家は一夜にして、貴族の座から転落した。


 アルベール・ラヴァルは平民となった。

 かつて「身の程を知れ」と告げた大広間に、もう二度と足を踏み入れることはできない。


 マリエル・ヴァルニエは、アルベールを見捨てた後、別の貴族に接近を試みた。しかし、アルベールを使い捨てた経緯は社交界に知れ渡っていた。


 「真実の愛で婚約者を奪い、金の切れ目で男を捨てた女」――その評判が付いて回る限り、彼女に手を差し伸べる家はなかった。


 「真実の愛」を道具として振りかざした者たちの末路は、驚くほど静かだった。誰も手を下す必要がなかった。ただ自分たちの選択の結果が、時間をかけて追いついてきただけだった。




 養母シモーヌとは、月に一度食事をする関係になった。

 最初は互いにぎこちなかったが、回を重ねるうちに、少しずつ――本当に少しずつ――変わっていった。


 「今日のこのお店、エレノアが選んだの? 素敵ね」

 「ええ。お母様、甘いものがお好きでしょう」

 「覚えていてくれたのね」

 「忘れたことはありませんよ」


 以前より、ずっと誠実な距離感だった。


 リュシーは財務局で正式に昇進した。エレノアの右腕として文書管理の責任者になり、持ち前の口の悪さと事務能力の高さで局内に確固たる地位を築いていた。


 「あんたのせいで仕事が三倍に増えたわ」

 「能力に見合った仕事量よ。感謝なさい」

 「感謝の仕方を間違えてると思うの、あんた」


 そう言いながらも、リュシーは嬉しそうだった。




 春の午後。

 ノルトグラーフ公爵邸の東翼、執務室。


 公爵夫人となったエレノアは、ルートヴィヒと並んで机に向かっていた。

 書類の山。赤インクのペン。付箋の色分け。保温式のティーポットから立ち上る湯気。窓から差し込む柔らかな日差しが、二人の手元を照らしている。


 傍から見れば、味気ない新婚生活だろう。

 しかし二人にとって、これ以上の幸福はなかった。


 ふと、ルートヴィヒが顔を上げた。


 「エレノア」


 「はい?」


 「君の身の程は、公爵夫人どころではないな」


 唐突な発言に、エレノアはペンを止めた。


 「……と言いますと?」


 「このまま改革が進めば、君はこの国の財政の礎になる。歴史に名を残す」


 「大げさですわ」


 「数字は嘘をつかない。君もだ」


 エレノアはくすりと笑った。


 この人は相変わらず、褒め言葉が業績評価に聞こえる。でも、その不器用さがこの人らしくて――好きだと、素直に思えるようになった。


 少しだけ考えた。


 自分の身の程。

 平民上がりの養女。「身の程を知れ」と衆目の前で捨てられた女。それが半年前の自分だった。


 でも今は――


 「そうですわね。でも今のところ、私の身の程は――」


 穏やかに隣を見る。書類に視線を戻しかけていたルートヴィヒが、その視線に気づいて不思議そうにこちらを見た。

 氷青の瞳。無表情の――けれどエレノアにだけは見える、その奥に灯る温かな光。


 「――貴方の隣で、十分ですわ。閣下」


 ルートヴィヒが一瞬だけ目を細めた。

 口元が微かに――本当に微かに――緩む。

 それはエレノアだけが知っている、ルートヴィヒ・ノルトグラーフの笑顔だった。


 「……そうか」


 低い声が、静かな執務室に響いた。


 「……俺も、そう思う」


 それだけ言って、ルートヴィヒは書類に視線を戻した。

 エレノアも、自分の書類に向き直った。


 赤インクのペンが動く音。紙を捲る音。保温ポットから注がれる茶の音。

 穏やかで、静謐で、二人だけの――完璧な日常。


 そこへ、ノックもなしにリュシーが茶菓子の盆を持って入ってきた。


 二人の様子を一目見て、呆れたようにため息をつく。


 「……新婚なのに、もうちょっとこう、あるでしょ。甘い雰囲気とか。見つめ合うとか」


 エレノアとルートヴィヒは、書類から顔を上げずに同時に答えた。


 「「これが最善だ(ですわ)」」


 声が揃った。

 リュシーは天を仰いだ。


 「……本当に、お似合いよ。あんたたち」


 窓の外では、春風が王都の花を揺らしていた。




 最後まで読んでくれた皆様、本当にありがとうございます!


 他にもいくつか短編を掲載しています。私のユーザページから見れるので、読んでもらえればとても嬉しいです! 感想、リアクションもお待ちしています。よろしくお願いします!

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