「ナマハゲ」VS「くま」
子供の頃、『ナマハゲ』は恐怖の象徴だった。
自身の何倍もある巨体が馬鹿でかい包丁を振り回しているのだ。
直近の悪事を何故か知っている、問答無用で抱き抱えられて、私の抵抗も及ばず泣くしかなかった。
冬はサンタさんに期待して「良い子」にするよりも、『ナマハゲ』に怯え「悪事をしない」が大事だった。
あれから何年経つだろう。
火斑ができるほど、ぬくだまっていると
娘が秋田に住む祖母と電話した後に唐突に言った。
「秋田は、『ナマハゲ』も『熊』もいて大変だねぇ」
「『ナマハゲ』に『熊』をやっつけてもらえば良いのに」
『ナマハゲ』は今でも私には恐怖でしかない。
雪が降りはじめると、大人たちは決まって同じことを言い出す。
「悪い子はいねが。泣ぐ子はいねが。
ナマハゲさ来られるぞ」
ユウキは、そのたびに「制度としてどうなんだろう」と思った。
まだ三つになったばかりの幼児にとって、「ナマハゲ」は実在するのか、抑止力としての虚構なのか、あるいは地域限定のセキュリティ・プログラムなのか。考えれば考えるほど、答えは出ない。ただひとつ言えるのは、「本当に来るかもしれない存在」として扱われていることだけであった。
その「本当に来るかもしれない」は、ユウキにとってはほとんど「既に来ている」も同然だった。
大人たちは笑いながら言うが、ユウキの頭の中では、赤い面とギラギラした目と、あの馬鹿でかい包丁だけが、いつまでもはっきりと残っていた。
さらにややこしいことに、この冬はもう一種の脅威が山のほうから降りてきていた。
「またクマが出たらしいぞ」
「今年は雪が遅えからなあ。腹減ってんだべ」
夕食の席で、父親と母親がそう話していた。テレビからは、ぼんやりしたクマの映像と、「山に入らないでください」というテロップが流れている。
ユウキはスプーンを握りしめたまま、ひとつの結論にたどり着いた。
(山からはクマが来て、家の中にはナマハゲが来る。
この家は安全地帯でもなんでもないじゃないか)
彼は論理的に怯える子どもだった。
◇
その夜は、風がやけに強かった。窓ガラスが鳴り、古い家がきしむ。母親に布団をかけられたあと、ユウキはしばらく天井を見つめていた。耳を澄ますと、遠くで犬が吠えている。もう少し遠くで、ショベルカーのエンジンのような、くぐもった唸りが聞こえた気がした。
(あれは……クマの咆哮かもしれない。あるいは除雪車)
どちらであっても、彼にとっては脅威か、睡眠妨害である。
さらに悪いことに、廊下の方からは、大人たちの笑い混じりの声が微かに聞こえる。
「今年も来るかな、ナマハゲ」
「ユウキ、泣くかなあ」
(やはり家の中も安全とは言いがたい)
彼は静かに布団を抜け出した。三歳児にして、リスク分散を図ろうという試みであった。障子をそっと開け、廊下を抜け、縁側に出る。サッシの向こうは、ほの暗い雪明かりだ。
戸を少しだけ開けると、冷気が頬を刺した。ユウキはひくっと息を呑む。だが彼は、知的好奇心という別の業火にも焼かれていた。
(ナマハゲもクマも怖い。
しかし、どれくらい怖いのか、実物を見ておくべきではないか)
理屈としては破綻しているが、本人は真剣である。
「ちょっと、みるだけ……」
彼は短い足で雪の上に降り立った。庭の木々は白く膨らみ、空は灰色に固まっている。風が吹くたび、遠くの竹やぶがざわりと鳴った。
そのとき、山の方角から、低く長い叫び声が響いた。
「ウォオオオオオ……」
ユウキは、その場で硬直した。
(クマだ。
説明不要でクマの音質だ)
クマの「音質」という概念は、三歳児の語彙にはないはずだが、彼の思考は既に大人である。
震える膝をどうにか支えながら、彼は塀の隙間から山裾の方をうかがった。雪煙の向こう、黒い影がいくつか揺れている。二つ、三つ、いや、四つかもしれない。
(複数頭。これは統計的にみてもよろしくない)
退却するべきだ、と頭のどこかが警鐘を鳴らしたそのとき、別の方向から、今度は人の声が重なった。
「悪いクマはいねがあああ!」
ユウキは、思考を一瞬停止させた。
(ナマハゲも、いる……?)
山の斜面の中腹、雪を蹴り上げながら、藁のようなものをまとった巨大な影が降りてきていた。全身から湯気のような白い息を立ちのぼらせ、赤い面の目の穴だけが、灯りもないのにぎらぎらと光っている。その手に握られた包丁は、刃先に雪をこすった跡が光り、冷たさと錆びた匂いを想像させた。
その前方には、さきほどのクマたちがいる。
ナマハゲとクマが、同じ画面に収まっていた。
(某ホラー映画で、やばいもの同士が同じ画面に映るみたいだ)
ユウキは、自分の比喩が適切に怖いことを理解し、さらに怖くなった。
あれが家の中に来るだけでも十分なのに、今日は山の怪物とセット販売である。割引の利かない悪夢だ。
◇
「なにしてる!? この怠け者どもが!」
ナマハゲは、腰にぶら下げた出刃包丁のようなもの(もちろん儀礼用であると信じたい)を振り回しながら、クマたちに怒鳴りつけていた。声は低く太く、胸の奥に石を投げ込まれたように響く。
クマたちは、雪の上に丸くなり、穴を掘ろうとしていたところだった。体を揺らし、やがてそのまま寝入ろう、という自然な動きである。
(いや、これから寝るところなんだが……)
一頭のクマは、心の中でそう反論したが、口に出したところで話が通じる相手には見えない。
「今年はまだ雪が浅いど! 今から寝るとは、なまけにも程がある!」
ナマハゲはクマの肩を、ばしん、と叩いた。クマはびくりと体を震わせる。
(叩くな。脂肪の下は普通に神経がある)
「おおお……?」
事情が飲み込めない、といった顔でクマがナマハゲを見る。ナマハゲは鼻息荒く、さらに続けた。
「人間だって、夜通し働いておる。店も工場もコンビニも光っとる。おめえらだけ、冬は寝て過ごすだと? そんなやつはナマハゲが許さん!」
(知らん。コンビニを基準にされても困る)
クマたちは、互いに目を見合わせた。
彼らの生態系には「コンビニ」という概念は存在しない。比喩も説明も不足している。そもそも、冬は寝る生き物である、という自負がある。
一頭が、意を決したように、どしん、と立ち上がった。毛並みには雪が積もり、白と黒のまだら模様になっている。
「グルルル……」
(冬眠を否定される筋合いはない、と申し上げたい)
威嚇とも抗議ともつかない声をあげる。その声に対し、ナマハゲは、まるで聞き分けのない子どもを叱るように、さらに声を張り上げた。
「文句があるなら、人間さ言え! 『冬眠は生物としての正当な権利です』てな! ほら、立て立て! 山の中で丸くなってるヒマあったら、里まで下りて社会参加せ! 働け! 吠えろ! 走れ!」
(わざわざ権利を主張しに行けと? こっちは静かに寝てるだけなんだが)
それは教育なのかテロなのか判然としない指導方針だった。
クマたちは、完全に混乱していた。だが、ナマハゲがあまりにもうるさいので、とりあえず言われるままに山を下りはじめた。怒鳴られながら眠ることは、彼らの睡眠衛生に明らかに悪い。
(これが「ブラック環境」というやつかもしれない)
クマはもちろんそんな用語を知らないが、感覚的には近いものを理解していた。
「よし、その調子だ。ほら、あっちに明かりが見えるべ。あそこが里だ。人間いっぱいいる。吠えがいもある」
ナマハゲが指さした先は、ユウキの家を含む小さな集落だった。
◇
(これはまずい)
縁側の影からその一部始終を見ていたユウキは、状況を冷静に評価した。
山の中にクマがいるのも怖いが、それをやる気満々に人里へ誘導してくるナマハゲは、行動として質が悪い。
ナマハゲ本来の職務は「怠け者の人間を叱る」ことであって、「野生動物の労働参加を促す」ことではないはずだ。ジョブディスクリプションの逸脱である。
それに、近くで見るナマハゲは、ただの仮装にしては、目の奥が妙に静かで怖かった。表情は荒々しいのに、動きだけが一定のリズムを刻んでいる。包丁を振り上げるたび、刃先から落ちる雪の粒が、月明かりでもないのに白く光った。
(あれは、人間か? 人間だとして、私たちと同じカテゴリーで扱っていいのか?)
彼は三歳児なりに、哲学的な不安を抱いた。
とはいえ、彼に選択肢はなかった。ここで縁側から飛び出して「やめてください」と直談判すれば、ナマハゲにもクマにも同時に見つかる。逃げ場がない。
(優先順位を決めよう。
ナマハゲは、たぶん人間基準で行動する。
クマは、人間基準を知らない)
彼は三歳児なりに、リスク評価を行った。
(交渉可能性の観点からいえば、ナマハゲのほうがまだマシだ。
だが、いまはそのナマハゲが、交渉不能なクマを増やしているところだ)
そう結論づけると、ユウキは、そっと縁側の戸を閉めた。物理的な遮蔽がどれほどの意味を持つかは不明だが、心理的には重要である。
◇
クマの行列とナマハゲの一団(なぜか数人に増えていた)が村のはずれに到達したのは、それから十分ほどしてからであった。
「ウォオオオオ!」「グルルル!」
(吠えろと言われたから吠えているだけなんだが、これはこれで誤解を生みそうだ)
「ほら見ろ! 元気いっぱいだ! 冬眠なんてしてる場合じゃねえ!」
ナマハゲたちは上機嫌である。クマたちは半ばやけくそで吠えていた。
最初に悲鳴をあげたのは、用足しに外へ出ていた近所のじいさんだった。
「クマだあああ! ……とナマハゲだあああ!?」
村中の灯りが一斉に点いた。犬が吠え、サイレンが鳴り、どこかの家からは「通報したから家に入れ!」という叫び声が聞こえる。
ナマハゲは、それを聞いて満足げに頷いた。
「見ろ。社会が活性化してきただろう」
(こっちはただ寝たいだけなんだが)
クマたちは、そんなことはどうでもよかった。人間の騒ぎに驚き、雪を蹴って走り回る。そのたび、電柱に体当たりし、ゴミ箱をひっくり返し、物置の扉を壊した。
(あ、これは怒られるやつだ……)
村は一瞬で、冬眠どころか不眠症の集団のような騒ぎになった。
やがて、遠くから駆けつけた役場職員や猟友会の人間たちが、松明と爆竹とありったけの人間の知恵を使って、どうにかクマたちを山の方へ追い返しはじめた。
「ほら、おめえら、送ってもらえてよかったな。へばまんず!」
ナマハゲは、振り返りざまに里へ向かって手を振り、そう言い残すと、クマたちの背中をどん、と叩いて、再び山の闇の中へと消えていった。
雪煙の向こうで、赤い面だけが、ひと呼吸ぶん遅れてほの白く揺れた。
◇
ユウキの家の中も、当然のように混乱に巻き込まれていた。
「ユウキ! どこ行った!?」
「さっきまで布団に……」
母親が慌てて部屋中を探し回る。父親は玄関で長靴をつっかけながら、「外出ちゃだめだぞ!」と叫んでいる。
当のユウキは、そのころ、ちゃっかり自室の布団にもぐり込んでいた。縁側からの撤退に成功し、誰にも見つからずに帰還したのである。自己評価としては、なかなかの作戦遂行能力だと思っていた。
外からは、遠くで鳴るサイレンと、近くで響くナマハゲの声が聞こえる。
「怠けるなあああ! 走れえええ! 起きてえええ!」
(いや、もうみんな起きてると思う)
ユウキは、枕をぎゅっと抱きしめた。怖さと疲れとで、思考がふわふわしてくる。
(ナマハゲは、クマを冬眠させないために、里に連れてきたのか。
その結果、人間も全員、眠れなくなっている。
これは……効率がいいようで、まったくよくない)
そんなことを考えながら、彼の意識はゆっくりと沈んでいった。
やがて、外の騒ぎは少しずつ遠のき、村には本当の夜明けが近づいていた。
◇
翌朝、村の広報車がゆっくりと通りを走った。
「こちらは役場です。昨夜はクマおよび、クマを先導するナマハゲと思われる者の出没により、大変ご心配とご迷惑をおかけしました」
スピーカーから流れる声は妙に丁寧で、妙に他人事だった。
「現在、クマは山に戻ったとのことですが、しばらくの間、不要不急の外出はお控えください。また、野生動物への接近および、野生動物を鼓舞・扇動する行為はおやめください」
そこまで言うなら最初から止めてほしい、と村の何人かは思ったが、広報車は構わず続けた。
「なお、ナマハゲと見られる人物につきましては、毎年の行事であり、地域の伝統文化として尊重されておりますが、今回の件との関係は現在調査中です。皆さまにおかれましては、今後とも冷静な行動と、節度ある生活態度を心がけていただきますよう、お願い申し上げます」
その放送を布団のなかで聞きながら、ユウキは、まぶたを半分閉じたまま、心の中で小さくため息をついた。
(やっぱり、ナマハゲもクマも、両方やばい。
そして役場も、別の意味でやばい)
そのくせ、世界は今日も、何事もなかったような顔で雪を降らせている。
ユウキは、もう一度だけ、布団のなかで体を丸めた。
――冬眠というのは、案外合理的な行動なのかもしれない。
そう思いながら、彼は静かに二度寝を決めた。
ナマハゲに見つからないことを、心のどこかで祈りつつ。
◇
それからずっとあとになって、ニュースで「クマが人里に出没しました」と聞くたびに、ユウキ――そして、かつてナマハゲに抱きかかえられて泣くしかなかった「私」は、同じことをぼんやりと考えるようになった。
クマが山を下りる理由は、餌の不足か、環境の変化か、あるいは人間側の問題だと、専門家は真面目に解説している。
だが心のどこかでは、どうしても別の可能性が頭をよぎってしまう。
――ああ、またどこかでナマハゲが、
「怠けるな」とクマを冬眠させずに追い立てたのかもしれない。
現代においてクマが人里で目撃される原因の、1%くらいは、きっとあの赤い面と馬鹿でかい包丁のせいなのだろう、と。
※この作品はフィクションです。実際にナマハゲやクマに遭遇しても、決して近づかず、大人や関係機関の指示に従ってください。




