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幼児期健忘

「ナマハゲ」VS「くま」

掲載日:2025/11/19

 子供の頃、『ナマハゲ』は恐怖の象徴だった。

 自身の何倍もある巨体が馬鹿でかい包丁を振り回しているのだ。

直近の悪事を何故か知っている、問答無用で抱き抱えられて、私の抵抗も及ばず泣くしかなかった。


 冬はサンタさんに期待して「良い子」にするよりも、『ナマハゲ』に怯え「悪事をしない」が大事だった。


 あれから何年経つだろう。


 火斑ができるほど、ぬくだまっていると


 娘が秋田に住む祖母と電話した後に唐突に言った。

「秋田は、『ナマハゲ』も『熊』もいて大変だねぇ」

「『ナマハゲ』に『熊』をやっつけてもらえば良いのに」


 『ナマハゲ』は今でも私には恐怖でしかない。

 雪が降りはじめると、大人たちは決まって同じことを言い出す。


「悪い子はいねが。泣ぐ子はいねが。

 ナマハゲさ来られるぞ」


 ユウキは、そのたびに「制度としてどうなんだろう」と思った。


 まだ三つになったばかりの幼児にとって、「ナマハゲ」は実在するのか、抑止力としての虚構なのか、あるいは地域限定のセキュリティ・プログラムなのか。考えれば考えるほど、答えは出ない。ただひとつ言えるのは、「本当に来るかもしれない存在」として扱われていることだけであった。


 その「本当に来るかもしれない」は、ユウキにとってはほとんど「既に来ている」も同然だった。

 大人たちは笑いながら言うが、ユウキの頭の中では、赤い面とギラギラした目と、あの馬鹿でかい包丁だけが、いつまでもはっきりと残っていた。


 さらにややこしいことに、この冬はもう一種の脅威が山のほうから降りてきていた。


「またクマが出たらしいぞ」

「今年は雪が遅えからなあ。腹減ってんだべ」


 夕食の席で、父親と母親がそう話していた。テレビからは、ぼんやりしたクマの映像と、「山に入らないでください」というテロップが流れている。


 ユウキはスプーンを握りしめたまま、ひとつの結論にたどり着いた。


(山からはクマが来て、家の中にはナマハゲが来る。

 この家は安全地帯でもなんでもないじゃないか)


 彼は論理的に怯える子どもだった。


 ◇


 その夜は、風がやけに強かった。窓ガラスが鳴り、古い家がきしむ。母親に布団をかけられたあと、ユウキはしばらく天井を見つめていた。耳を澄ますと、遠くで犬が吠えている。もう少し遠くで、ショベルカーのエンジンのような、くぐもった唸りが聞こえた気がした。


(あれは……クマの咆哮かもしれない。あるいは除雪車)


 どちらであっても、彼にとっては脅威か、睡眠妨害である。


 さらに悪いことに、廊下の方からは、大人たちの笑い混じりの声が微かに聞こえる。


「今年も来るかな、ナマハゲ」

「ユウキ、泣くかなあ」


(やはり家の中も安全とは言いがたい)


 彼は静かに布団を抜け出した。三歳児にして、リスク分散を図ろうという試みであった。障子をそっと開け、廊下を抜け、縁側に出る。サッシの向こうは、ほの暗い雪明かりだ。


 戸を少しだけ開けると、冷気が頬を刺した。ユウキはひくっと息を呑む。だが彼は、知的好奇心という別の業火にも焼かれていた。


(ナマハゲもクマも怖い。

 しかし、どれくらい怖いのか、実物を見ておくべきではないか)


 理屈としては破綻しているが、本人は真剣である。


「ちょっと、みるだけ……」


 彼は短い足で雪の上に降り立った。庭の木々は白く膨らみ、空は灰色に固まっている。風が吹くたび、遠くの竹やぶがざわりと鳴った。


 そのとき、山の方角から、低く長い叫び声が響いた。


「ウォオオオオオ……」


 ユウキは、その場で硬直した。


(クマだ。

 説明不要でクマの音質だ)


 クマの「音質」という概念は、三歳児の語彙にはないはずだが、彼の思考は既に大人である。


 震える膝をどうにか支えながら、彼は塀の隙間から山裾の方をうかがった。雪煙の向こう、黒い影がいくつか揺れている。二つ、三つ、いや、四つかもしれない。


(複数頭。これは統計的にみてもよろしくない)


 退却するべきだ、と頭のどこかが警鐘を鳴らしたそのとき、別の方向から、今度は人の声が重なった。


「悪いクマはいねがあああ!」


 ユウキは、思考を一瞬停止させた。


(ナマハゲも、いる……?)


 山の斜面の中腹、雪を蹴り上げながら、藁のようなものをまとった巨大な影が降りてきていた。全身から湯気のような白い息を立ちのぼらせ、赤い面の目の穴だけが、灯りもないのにぎらぎらと光っている。その手に握られた包丁は、刃先に雪をこすった跡が光り、冷たさと錆びた匂いを想像させた。


 その前方には、さきほどのクマたちがいる。


 ナマハゲとクマが、同じ画面に収まっていた。


(某ホラー映画で、やばいもの同士が同じ画面に映るみたいだ)


 ユウキは、自分の比喩が適切に怖いことを理解し、さらに怖くなった。

 あれが家の中に来るだけでも十分なのに、今日は山の怪物とセット販売である。割引の利かない悪夢だ。


 ◇


「なにしてる!? この怠け者どもが!」


 ナマハゲは、腰にぶら下げた出刃包丁のようなもの(もちろん儀礼用であると信じたい)を振り回しながら、クマたちに怒鳴りつけていた。声は低く太く、胸の奥に石を投げ込まれたように響く。


 クマたちは、雪の上に丸くなり、穴を掘ろうとしていたところだった。体を揺らし、やがてそのまま寝入ろう、という自然な動きである。


(いや、これから寝るところなんだが……)


 一頭のクマは、心の中でそう反論したが、口に出したところで話が通じる相手には見えない。


「今年はまだ雪が浅いど! 今から寝るとは、なまけにも程がある!」


 ナマハゲはクマの肩を、ばしん、と叩いた。クマはびくりと体を震わせる。


(叩くな。脂肪の下は普通に神経がある)


「おおお……?」


 事情が飲み込めない、といった顔でクマがナマハゲを見る。ナマハゲは鼻息荒く、さらに続けた。


「人間だって、夜通し働いておる。店も工場もコンビニも光っとる。おめえらだけ、冬は寝て過ごすだと? そんなやつはナマハゲが許さん!」


(知らん。コンビニを基準にされても困る)


 クマたちは、互いに目を見合わせた。

 彼らの生態系には「コンビニ」という概念は存在しない。比喩も説明も不足している。そもそも、冬は寝る生き物である、という自負がある。


 一頭が、意を決したように、どしん、と立ち上がった。毛並みには雪が積もり、白と黒のまだら模様になっている。


「グルルル……」


(冬眠を否定される筋合いはない、と申し上げたい)


 威嚇とも抗議ともつかない声をあげる。その声に対し、ナマハゲは、まるで聞き分けのない子どもを叱るように、さらに声を張り上げた。


「文句があるなら、人間さ言え! 『冬眠は生物としての正当な権利です』てな! ほら、立て立て! 山の中で丸くなってるヒマあったら、里まで下りて社会参加せ! 働け! 吠えろ! 走れ!」


(わざわざ権利を主張しに行けと? こっちは静かに寝てるだけなんだが)


 それは教育なのかテロなのか判然としない指導方針だった。


 クマたちは、完全に混乱していた。だが、ナマハゲがあまりにもうるさいので、とりあえず言われるままに山を下りはじめた。怒鳴られながら眠ることは、彼らの睡眠衛生に明らかに悪い。


(これが「ブラック環境」というやつかもしれない)


 クマはもちろんそんな用語を知らないが、感覚的には近いものを理解していた。


「よし、その調子だ。ほら、あっちに明かりが見えるべ。あそこが里だ。人間いっぱいいる。吠えがいもある」


 ナマハゲが指さした先は、ユウキの家を含む小さな集落だった。


 ◇


(これはまずい)


 縁側の影からその一部始終を見ていたユウキは、状況を冷静に評価した。


 山の中にクマがいるのも怖いが、それをやる気満々に人里へ誘導してくるナマハゲは、行動として質が悪い。

 ナマハゲ本来の職務は「怠け者の人間を叱る」ことであって、「野生動物の労働参加を促す」ことではないはずだ。ジョブディスクリプションの逸脱である。


 それに、近くで見るナマハゲは、ただの仮装にしては、目の奥が妙に静かで怖かった。表情は荒々しいのに、動きだけが一定のリズムを刻んでいる。包丁を振り上げるたび、刃先から落ちる雪の粒が、月明かりでもないのに白く光った。


(あれは、人間か? 人間だとして、私たちと同じカテゴリーで扱っていいのか?)


 彼は三歳児なりに、哲学的な不安を抱いた。


 とはいえ、彼に選択肢はなかった。ここで縁側から飛び出して「やめてください」と直談判すれば、ナマハゲにもクマにも同時に見つかる。逃げ場がない。


(優先順位を決めよう。

 ナマハゲは、たぶん人間基準で行動する。

 クマは、人間基準を知らない)


 彼は三歳児なりに、リスク評価を行った。


(交渉可能性の観点からいえば、ナマハゲのほうがまだマシだ。

 だが、いまはそのナマハゲが、交渉不能なクマを増やしているところだ)


 そう結論づけると、ユウキは、そっと縁側の戸を閉めた。物理的な遮蔽がどれほどの意味を持つかは不明だが、心理的には重要である。


 ◇


 クマの行列とナマハゲの一団(なぜか数人に増えていた)が村のはずれに到達したのは、それから十分ほどしてからであった。


「ウォオオオオ!」「グルルル!」


(吠えろと言われたから吠えているだけなんだが、これはこれで誤解を生みそうだ)


「ほら見ろ! 元気いっぱいだ! 冬眠なんてしてる場合じゃねえ!」


 ナマハゲたちは上機嫌である。クマたちは半ばやけくそで吠えていた。


 最初に悲鳴をあげたのは、用足しに外へ出ていた近所のじいさんだった。


「クマだあああ! ……とナマハゲだあああ!?」


 村中の灯りが一斉に点いた。犬が吠え、サイレンが鳴り、どこかの家からは「通報したから家に入れ!」という叫び声が聞こえる。


 ナマハゲは、それを聞いて満足げに頷いた。


「見ろ。社会が活性化してきただろう」


(こっちはただ寝たいだけなんだが)


 クマたちは、そんなことはどうでもよかった。人間の騒ぎに驚き、雪を蹴って走り回る。そのたび、電柱に体当たりし、ゴミ箱をひっくり返し、物置の扉を壊した。


(あ、これは怒られるやつだ……)


 村は一瞬で、冬眠どころか不眠症の集団のような騒ぎになった。


 やがて、遠くから駆けつけた役場職員や猟友会の人間たちが、松明と爆竹とありったけの人間の知恵を使って、どうにかクマたちを山の方へ追い返しはじめた。


「ほら、おめえら、送ってもらえてよかったな。へばまんず!」


 ナマハゲは、振り返りざまに里へ向かって手を振り、そう言い残すと、クマたちの背中をどん、と叩いて、再び山の闇の中へと消えていった。

 雪煙の向こうで、赤い面だけが、ひと呼吸ぶん遅れてほの白く揺れた。


 ◇


 ユウキの家の中も、当然のように混乱に巻き込まれていた。


「ユウキ! どこ行った!?」

「さっきまで布団に……」


 母親が慌てて部屋中を探し回る。父親は玄関で長靴をつっかけながら、「外出ちゃだめだぞ!」と叫んでいる。


 当のユウキは、そのころ、ちゃっかり自室の布団にもぐり込んでいた。縁側からの撤退に成功し、誰にも見つからずに帰還したのである。自己評価としては、なかなかの作戦遂行能力だと思っていた。


 外からは、遠くで鳴るサイレンと、近くで響くナマハゲの声が聞こえる。


「怠けるなあああ! 走れえええ! 起きてえええ!」


(いや、もうみんな起きてると思う)


 ユウキは、枕をぎゅっと抱きしめた。怖さと疲れとで、思考がふわふわしてくる。


(ナマハゲは、クマを冬眠させないために、里に連れてきたのか。

 その結果、人間も全員、眠れなくなっている。

 これは……効率がいいようで、まったくよくない)


 そんなことを考えながら、彼の意識はゆっくりと沈んでいった。


 やがて、外の騒ぎは少しずつ遠のき、村には本当の夜明けが近づいていた。


 ◇


 翌朝、村の広報車がゆっくりと通りを走った。


「こちらは役場です。昨夜はクマおよび、クマを先導するナマハゲと思われる者の出没により、大変ご心配とご迷惑をおかけしました」


 スピーカーから流れる声は妙に丁寧で、妙に他人事だった。


「現在、クマは山に戻ったとのことですが、しばらくの間、不要不急の外出はお控えください。また、野生動物への接近および、野生動物を鼓舞・扇動する行為はおやめください」


 そこまで言うなら最初から止めてほしい、と村の何人かは思ったが、広報車は構わず続けた。


「なお、ナマハゲと見られる人物につきましては、毎年の行事であり、地域の伝統文化として尊重されておりますが、今回の件との関係は現在調査中です。皆さまにおかれましては、今後とも冷静な行動と、節度ある生活態度を心がけていただきますよう、お願い申し上げます」


 その放送を布団のなかで聞きながら、ユウキは、まぶたを半分閉じたまま、心の中で小さくため息をついた。


(やっぱり、ナマハゲもクマも、両方やばい。

 そして役場も、別の意味でやばい)


 そのくせ、世界は今日も、何事もなかったような顔で雪を降らせている。


 ユウキは、もう一度だけ、布団のなかで体を丸めた。


 ――冬眠というのは、案外合理的な行動なのかもしれない。

 そう思いながら、彼は静かに二度寝を決めた。


 ナマハゲに見つからないことを、心のどこかで祈りつつ。


 ◇


 それからずっとあとになって、ニュースで「クマが人里に出没しました」と聞くたびに、ユウキ――そして、かつてナマハゲに抱きかかえられて泣くしかなかった「私」は、同じことをぼんやりと考えるようになった。


 クマが山を下りる理由は、餌の不足か、環境の変化か、あるいは人間側の問題だと、専門家は真面目に解説している。

 だが心のどこかでは、どうしても別の可能性が頭をよぎってしまう。


 ――ああ、またどこかでナマハゲが、

  「怠けるな」とクマを冬眠させずに追い立てたのかもしれない。


 現代においてクマが人里で目撃される原因の、1%くらいは、きっとあの赤い面と馬鹿でかい包丁のせいなのだろう、と。



※この作品はフィクションです。実際にナマハゲやクマに遭遇しても、決して近づかず、大人や関係機関の指示に従ってください。



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