第1部:外交デビューと大国の駆け引き
第1章:好感度ゼロ?の婚約者
謁見の間。父である国王陛下の隣に立つ俺の心臓は、まるで早鐘のようにうるさく鳴っていた。国王陛下は温厚そうな人物だが、どこか頼りなげな印象を受ける(貢献度は【+50】。高くも低くもないが、王としてはどうなのだろう…)。その隣で、俺は背筋を伸ばし、硬い表情で正面の巨大な扉を見つめていた。これから現れるのは、俺の婚約者にして、この国で最も有能と謳われる天才令嬢、イザベラ・フォン・ヴァイスハルト。宰相の娘であり、すでに若くして父の補佐として国政に関わり、その辣腕ぶりは王宮内でも有名らしい。凡庸な俺とは、あまりにも釣り合わない。政略結婚とはいえ、相手にとっては迷惑な話だろう。
重々しい扉が、厳かに開かれた。
そこに現れた少女の姿に、俺は思わず息を呑んだ。
銀色の絹糸のような髪が、シャンデリアの光を反射してきらめいている。背筋は凛と伸び、その立ち姿には一切の隙がない。そして、冷静に室内を見渡す、紫水晶のような瞳。完璧という言葉を具現化したような美貌と、十代とは思えぬほどの威厳と知性が、彼女の全身から放たれていた。
(これが…イザベラ・フォン・ヴァイスハルト…!)
その圧倒的な存在感に気圧されながらも、俺は【貢献度可視化】スキルを発動させた。彼女の頭上に表示された数値は…
【+80】
(高い! さすがは宰相の娘、国への忠誠心、貢献意欲は本物だ!)
安堵しかけた俺だったが、次の瞬間、その期待は冷水を浴びせられたように消え去った。彼女の紫の瞳が、俺を真正面から捉えたのだ。その視線には、何の感情も読み取れない。ガラス玉のように冷たく、どこまでもフラット。まるで、道端に転がる石ころでも見るような…いや、それ以下か? 分析対象として値踏みされているような、無機質な視線だ。
(違う、これ絶対『国への』貢献度だ! 俺個人への評価はゼロ、いや、この視線は…むしろマイナスまであるだろコレ!)
数値は嘘をつかない。彼女は間違いなく国にとって有益な人物であり、貢献する意志も強い。だが、それはあくまで「国」に対して。この凡庸で病弱な王子…俺、レオンに対しては、おそらく「国の安定のための障害」「将来の不安要素」とすら認識しているのかもしれない。貢献度【+80】という高い数値が、逆に彼女の合理性と、俺への無関心(あるいは軽蔑)を際立たせているように感じられた。
「レオン王子におかれましては、ご健勝のこととお慶び申し上げます。イザベラ・フォン・ヴァイスハルトにございます」
鈴を転がすような、美しい声。しかし、そこには感情の温度というものが全く感じられない。完璧なカーテシー(貴族の礼)と共に、淀みなく紡がれる定型の挨拶。全てが洗練され、計算され尽くしている。まるで、精巧に作られた自動人形のようだ。
「あ、う…こ、こちらこそ、よろしく頼む、イザベラ嬢」
俺はどもりながら、なんとかそれだけを返すのが精一杯だった。冷や汗が止まらない。心臓が痛いほど脈打っている。この完璧超人の隣に立って、俺は本当にやっていけるのだろうか…? この婚約が、俺にとっても、彼女にとっても、そして国にとっても、不幸の始まりになるのではないか? そんな絶望的な予感すらした。
謁見は、その後も形式的な挨拶と、当たり障りのない会話(主に国王陛下と彼女の間で交わされた)だけで終わった。俺はほとんど口を開くこともできず、ただ冷や汗をかきながら、早くこの場が終わることだけを願っていた。
自室に戻った俺は、ベッドに倒れ込むように突っ伏し、深いため息をついた。
(絶望的だ…終わってる…)
イザベラのあの冷たく無機質な視線が、脳裏に焼き付いて離れない。貢献度【+80】という高い数値が、まるで俺の無能さを嘲笑っているかのようだった。彼女から見れば、俺は国の未来にとって、明らかにマイナス要因なのだ。
(どうすればいい…? このままじゃ、本当に廃嫡されるかもしれない…いや、その前に彼女の方から婚約破棄を言い出してくるかも…)
そうなれば、俺の立場はますます危うくなる。アルベルト叔父(貢献度-80)の思う壺だ。良くて辺境送り、悪ければ暗殺か…? 前世でトラックに轢かれたと思ったら、今度は異世界で社会的に(あるいは物理的に)殺されるなんて、冗談じゃない。
(…やはり、鍵はイザベラだ)
彼女の信頼を得る、とまではいかなくても、少なくとも「無能な邪魔者」ではないと認識させる必要がある。彼女は冷徹に見えるが、国への貢献度が【+80】もあるということは、それだけ国を思う気持ちが強いということだ。ならば、俺が国にとって少しでも「有益な存在」であると示せれば、彼女も俺を無下にはできないはずだ。政略的な意味合いだけでなく、実利的な観点からも。
(問題は、どうやって「有益」だと示すか…)
剣も魔法も学問もダメ。カリスマもない。持病持ちで体力もない。俺にあるのは、まだ使いこなせていない【貢献度可視化】スキルと、元社畜・佐々木健一のささやかな知識と経験だけ。
(…そうだ、知識と経験だ! 異世界だからと諦める必要はない!)
前世で培った業務改善のノウハウ。効率化の知識。データ分析や資料作成のスキル。部署間の調整役として培ったコミュニケーション能力(?)。これらは、分野は違えど、国政や組織運営にも応用できるはずだ。特に、あの書類の山に埋もれていたイザベラの執務室…あそこには、改善の余地が山ほどあった。
数日後、俺は意を決して、再びイザベラの執務室の扉を叩いた。宰相補佐として多忙を極める彼女の部屋は、相変わらず膨大な書類の山に埋もれていた。イザベラ自身も、わずかに眉間に皺を寄せ、ペンを走らせている。彼女の貢献度は【+80】のまま。俺への評価は変わっていないだろう。
(これだ…! ここが俺の最初の「貢献」の場だ!)
俺の目に、前世で嫌というほど見てきた「非効率」が見えた。ファイリングの方法、書類の分類、処理のフロー。彼女個人の能力は驚異的だが、それを支える「仕組み」自体が古く、改善の余地は大きい。
深呼吸一つ。俺は書類の山と格闘するイザベラに声をかけた。
「あの、イザベラ嬢。お忙しいところ申し訳ないのですが、少しだけ、よろしいでしょうか? その書類整理について、僭越ながらいくつか提案があるのですが…」
イザベラは顔を上げ、紫の瞳で俺を一瞥した。やはり冷たい視線だ。だが、前回のような完全な無関心ではなく、わずかに「何の用だ?」という怪訝な色が混じっている気がした。
「…必要ありません。王子はご自分の責務にお戻りください。お気遣いは無用です」
バッサリ。予想通りの反応だ。だが、ここで引き下がるわけにはいかない。俺のサバイバルがかかっているのだ。
「いえ、そうおっしゃらず! これは、あなたの業務効率を改善し、ひいては国政全体の効率化にも繋がる提案です! ほんの少しの工夫で、処理速度が格段に向上するはずです! 例えば、案件別の分類を重要度と緊急度でマトリクス化し、色分けで見出しをつける。完了済みの書類は参照頻度に応じて保管場所を変え、デジタル…いえ、索引目録を作成して検索性を高める。タスクの進捗状況を可視化する管理ボードを導入するなど…!」
俺は必死に食い下がった。前世で先輩に叩き込まれたファイリング術やタスク管理術(GTDとかカンバン方式とか)を、異世界で王子が熱弁するという、冷静に考えればかなりシュールな光景だ。イザベラは眉一つ動かさず聞いていたが、俺の具体的な説明が続き、その方法論に体系的な知識の裏付けがあることを感じ取ったのか、その紫の瞳に僅かながら興味の色が宿ったように見えた。
「…その方法の、具体的な効果と、導入に必要なリソース(時間、人員、物資)は?」
彼女は、俺の提案の実現可能性と費用対効果を冷静に問い返してきた。拒絶ではなく、検討のフェーズに入った証拠だ。
「は、はい! まず、目的の書類を探す時間が平均で30%短縮され、優先順位付けが明確になることで、重要案件への対応遅延リスクが低減します! 処理済みの案件の参照も迅速になり、過去の事例分析や報告書作成の効率も向上します! 結果的に、イザベラ嬢ご自身の作業時間を短縮し、より高度な分析や政策立案といった、本来注力すべき業務に集中できるようになるかと! 導入に必要なリソースは、色分け用のインクと分類棚、目録用の羊皮紙、管理ボード用の板と札程度で、最小限です!」
俺は、前世でプレゼン資料を作った時のように、具体的な数値とメリットを畳みかけた。
しばしの沈黙。イザベラは俺の顔と書類の山を交互に見比べ、やがて小さく息をついた。
「…論理的には、合理的ですね。導入の手間と効果を比較すれば、試してみる価値は、あるかもしれません。…分かりました。詳細を説明なさい、レオン王子」
(きたあああああっ!)
俺は内心で、渾身のガッツポーズをしながら、前世の知識を総動員して業務改善術をレクチャーした。イザベラは驚くほどの速さでそれを理解し、いくつかの手法を即座に書類整理に応用し始めた。最初は半信半疑だった彼女も、目に見えて作業効率が上がるのを実感したのだろう。無表情は崩さないが、ペンを走らせる速度が上がり、眉間の皺が少し和らいだように見えた。
「…確かに、これは効率的です。この方法、採用しましょう。他の部署にも応用できるか、検討の価値がありそうですね」
その声には、先ほどまでの冷たさが僅かに和らぎ、純粋な評価の色が混じっている気がした。そして、俺の視界の端で、彼女の頭上の数値が、確かに変わった。
【+80 → +81】
たった1ポイント。されど1ポイント。
これは、俺がこの世界で生き残り、そして「貢献」によって状況を変えていくための、小さく、しかし決定的な第一歩だった。冷徹な天才令嬢の評価を、ほんの少しだけ動かすことに成功したのだ。
(よっしゃ! まずは第一関門突破だ!)
俺は内心で、誰にも聞こえない勝利の雄叫びをあげた。凡庸王子レオンの、いや、元社畜・佐々木健一の、異世界サバイバルと「貢献度」革命が、今、静かに、しかし確かに動き始めた瞬間だった。
第2章:サポート役という活路
イザベラの執務室における業務改善提案。それは、ほんの小さな一歩だったが、俺にとっては大きな前進だった。彼女の貢献度が【+80】から【+81】へと僅かに上昇した事実は、暗闇の中に差し込んだ一筋の光のように、俺の心を照らした。
(いける…! この【貢献度可視化】スキルと、前世で培った知識や経験を組み合わせれば、この世界でも十分にやっていけるかもしれない!)
単純な俺は、すぐに僅かな成功に気を良くしていた。もちろん、イザベラ個人からの好感度が上がったわけではないことは百も承知だ。スキルが示すのはあくまで「貢献度」。今回の数値上昇は、俺の提案が「国益に資する(=彼女自身の業務効率化に繋がり、ひいては国政の効率化に貢献する)」と合理的に判断された結果だろう。だが、それでいい。今はまず、彼女に「無能なお飾り王子」ではない、「少なくとも、足を引っ張るだけの存在ではない」と認識させることが重要なんだ。
それからの数日間、俺は積極的にイザベラの執務室に入り浸った。もちろん、「国政を学ぶため」という大義名分を掲げ、彼女の邪魔にならないように細心の注意を払いながら。そして、彼女の仕事ぶりを観察し、【貢献度可視化】スキルで関連する部署や人物の反応(貢献度)を探りつつ、改善できそうな点や、俺がサポートできる点を探し続けた。
「イザベラ嬢、その各領地からの税収報告書の集計ですが、項目ごとに表形式でまとめ、前年比や予算比などを併記すれば、傾向分析や異常値の発見が容易になるかと。簡単な図表を用いれば、陛下や評議会への報告も、より視覚的に分かりやすくなります。こういうものです」
俺は羊皮紙に簡単な棒グラフや円グラフを描いて見せた。
「その定例会議の議事録ですが、決定事項、懸案事項(ToDo)、担当者、期限を明確に分けて記録するフォーマットを導入し、会議後に参加者全員に写しを配布すれば、認識の齟齬を防ぎ、タスクの進捗管理もしやすくなりますよ。前世の会社では必須でした」
「各地からの陳情書の受付フローですが、受付番号を付与し、担当部署、処理状況(未対応、対応中、完了など)、回答期限などを一覧化した台帳を作成・共有すれば、対応漏れや遅延を防ぎ、進捗状況も一元管理できるのでは…いわゆる、インシデント管理システムのようなものです」
次々と繰り出される俺の提案(という名の前世の業務知識の流用)に、イザベラは最初こそ訝しげな表情を見せていたが、そのどれもが具体的で、かつ実際に効率を上げ、リスク管理にも繋がるものだと分かると、次第に黙って耳を傾け、検討するようになった。
もちろん、俺の知識がそのまま通用するわけではない。この世界にはパソコンもExcelも、便利なグループウェアもない。俺は必死に頭を捻り、羊皮紙とインク、算盤のような計算具、そして伝書鳩や伝令といったこの世界のコミュニケーション手段で実現可能な形に落とし込んで説明する必要があった。時には、俺が自ら見本の帳票や管理ボードを作成して見せることもあった(前世でパワポ資料を作るのは得意だった)。
それが功を奏したのか、イザベラは時折、俺の説明に対して「その図表の縦軸と横軸の定義は?」「その管理台帳の更新頻度と責任者は誰にしますか?」「そのシステムを導入することによる、具体的な効果測定の指標は?」などと、非常に鋭く、本質を突いた質問を投げかけてくるようになった。それは、単なる拒絶や疑問ではなく、提案内容を深く理解し、より実効性のあるものにするための、建設的な問いかけだった。
そのたびに俺は冷や汗をかきながらも、必死に頭を回転させて答えた。時には前世の経験に基づいた具体例(「以前の職場では、これでクレーム対応の時間が半分になりました」とか)を挙げ、時には「それは今後の検討課題ですね…まずはスモールスタートで効果を見ては?」と提案し、時には「なるほど、その視点は抜けていました。修正案を考えます」と素直に認めることもあった。
そんなやり取りを繰り返すうちに、気づけばイザベラの貢献度は【+81】から【+83】へと、さらに【+85】へと、少しずつだが着実に上昇していた。数値の変化はわずかだが、彼女の俺に対する態度が、明らかに以前とは変わってきているのを肌で感じた。冷たい視線は和らぎ、会話も増え、時折、俺の提案に対して「悪くない発想ですね」「それは合理的です」といった肯定的な言葉も聞かれるようになった。
そして、俺自身の心境にも、大きな変化が訪れていた。
最初はただ「生き残るため」「評価されるため」だった。イザベラの貢献度を上げることだけが目的だった。だが、彼女の完璧な仕事ぶり、国を思う真摯な姿勢、そして俺の拙い提案にも真剣に向き合い、議論してくれる(ように見える)態度に触れるうちに、尊敬の念のようなものが芽生え始めていたのだ。
(すごいな、この人…本当に国のことを考えている。そして、とてつもなく有能だ)
見た目の美しさや家柄だけじゃない。頭脳明晰で、責任感が強く、そして何より努力家だ。膨大な仕事をこなしながら、常に最善を尽くそうとしている。その姿は、前世で俺がサポートしていたトップ営業マンたちにも通じるものがあった。
そこで、俺ははたと思い至った。
そうだ、俺は前世で、優秀な営業マンたちの「サポート役」として、彼らが最高のパフォーマンスを発揮できるよう、縁の下で支えることにやりがいを感じていたじゃないか。資料作成、データ分析、スケジュール管理、時には愚痴聞きやメンタルケアまで…。
(もしかしたら、俺の役割はそれなのかもしれない…? 王になるのではなく、最高の宰相候補であるイザベラを支えること。それが、今の俺にできる、最大の「貢献」であり、「革命」なのではないか?)
王太子として国を引っ張っていくカリスマはない。剣や魔法の才能もない。だが、イザベラのような有能な人物が、その能力を最大限に発揮できるように、環境を整え、負担を軽減し、時には精神的な支えになることなら、俺にもできるかもしれない。前世で培った「縁の下の力持ち」スキル…すなわち、高度な事務処理能力、分析力、調整力、そして気配りのスキルが、この異世界で活かせるのではないか?
そう思い至った途端、目の前が明るくなった気がした。無理に王になろうとするのではなく、俺にしかできない役割を見つけたのだ。目指す方向性が定まった気がした。
「よし!」
俺は小さく気合を入れ、新たな決意と共に、イザベラのサポートにさらに力を入れ始めた。
まずは、彼女の膨大な仕事の中から、俺でも対応可能な「雑務」を肩代わりすることからだ。
俺はクララ(貢献度+75、すっかり俺の協力者だ)に再び協力を頼み、イザベラの執務スケジュールや、彼女が抱えている案件の優先度リストを入手した。もちろん、王子という立場を最大限に利用して、だ。クララは「イザベラ様のためになるのなら」と、快く(?)協力してくれた。
リストを分析すると、イザベラの仕事がいかに多岐にわたり、かつ重要度の低い雑務にまで忙殺されているかが改めて分かった。外交文書の作成や法案の草案作りといった重要案件に混じって、王立図書館の蔵書整理に関する陳情、宮廷音楽家からの予算増額の嘆願、果ては庭師たちの間の縄張り争いの仲裁まで…。本来なら下級役人や侍従長あたりが処理すべき雑務が、なぜか宰相補佐である彼女まで上がってきてしまっている。おそらく、彼女の有能さと責任感の強さを見込んで、誰もが彼女に頼ってしまうのだろう。そして彼女は、それを断れない。
(これでは、本当に重要な仕事に集中できないはずだ…俺が、これらの雑務を引き受けよう)
俺は、イザベラに事前に相談することなく(相談すれば、遠慮するか、あるいは「王子がなさるべきことではない」と断られる可能性が高い)、これらの案件について独自に調査を開始した。関係部署の責任者(貢献度を確認しつつ)に話を聞き、問題の本質を把握し、具体的な解決策の案を練った。前世で部署間の調整役をやっていた経験が、ここでも役に立った。
そして、数日後。俺はいくつかの案件について、解決策をまとめた簡単な報告書と、必要であれば根回しまで済ませた上で、イザベラの元へ持っていった。
「イザベラ嬢、お忙しいところすみません。先日リストにあった案件のうち、こちらの図書館の件と庭師の件ですが、私の方で関係者と調整し、このように解決する方向で話を進めておきました。ご確認いただけますか?」
イザベラは、驚いたような、そして少し呆れたような顔で報告書を受け取った。彼女がそれに目を通す間、俺はやはり生きた心地がしなかった。「勝手なことを」と叱責されるのではないか、と。
しかし、彼女の反応は、またしても俺の予想を超えていた。
報告書を読み終えた彼女は、しばらくの間、黙って俺の顔を見つめていた。そして、静かに口を開いた。
「…レオン王子。あなたは…いつの間に、このような調整能力を身につけられたのですか? 関係部署からの反発もなく、実にスムーズに話がまとめられている…」
「え? ああ、いや、まあ…人と話すのは、それほど苦手ではないので」
俺はしどろもどろに答えた。前世の経験とは言えない。
「…そうですか。…分かりました。この件については、あなたの進めた方向で了とします。見事な手腕です。…感謝します」
驚くほどスムーズに、俺の「勝手な」行動が承認されたのだ。しかも、「見事な手腕」「感謝します」という、これまでにはなかった明確な称賛の言葉付きで。
「いえ、とんでもない! イザベラ嬢の負担が少しでも減ればと思って…あなたが、もっと重要な国政課題に集中できるように!」
俺が興奮気味に言うと、イザベラはほんの少しだけ、本当に僅かだが、柔らかな表情を見せたような気がした。
「…その気遣いにも、感謝します」
そして、彼女の頭上の数値。
【+85 → +88】
また上がった! しかも、今回は3ポイントも!
(やった…! 俺のサポート役としての方向性は、間違っていなかった!)
イザベラの負担を減らし、彼女が本来注力すべき重要な問題に集中できるように手伝うこと。それが、今の俺にできる最大の「貢献」であり、彼女からの評価を高める最善の方法なのかもしれない。
この日を境に、俺はイザベラの「非公式な筆頭秘書兼サポート役」のような役割を、半ば公然と担うようになった。彼女が公式に依頼したわけではないが、俺が処理した雑務や分析資料を報告すると、彼女はそれを当然のように受け入れ、的確な指示やフィードバックを与えてくれるようになった。それは、言葉はなくとも互いを理解し合う、一種の奇妙で、しかし心地よい共闘関係の始まりだったのかもしれない。
そして、俺はこの「サポート業務」を通して、彼女の仕事ぶりだけでなく、その人間的な側面…意外な素顔にも、少しずつ触れていくことになるのだった。
第3章:氷の令嬢の意外な素顔
イザベラの「非公式サポート役」として動き始めてから、俺はますます彼女の執務室に入り浸るようになった。もはや「国政を学ぶため」という建前も怪しくなってきたが、周囲も(特に宰相や国王陛下も)黙認している雰囲気なので、気にしないことにした。貴族や役人たちの俺への視線も、以前のような侮蔑や訝しげなものから、「イザベラ嬢の信頼を得た、侮れない王子」といった警戒や、中には「あの二人、実は…?」といった興味津々なものに変わりつつあった。貢献度がマイナスだった者がプラスに転じるケースも増えてきた。
俺は、イザベラに回ってくる雑多な案件(彼女が本来やるべきでないレベルのもの)を効率的に捌く傍ら、彼女自身の仕事ぶりを間近で観察し続けた。完璧に見える彼女にも、苦手なことや、人間らしい一面があるのではないか? スキルでは見えない部分を、自分の目で見て、感じ取りたいと思ったのだ。そして、もし何か弱点や悩みがあるなら、それをサポートすることで、さらに彼女の役に立てるかもしれない。
そんなある日、俺は彼女のささやかな「秘密」、あるいは「ギャップ」を発見した。
それは、とある友好国から献上された、珍しい愛玩動物(ふわふわした毛玉のような小動物だ)の飼育に関する報告書を確認していた時のことだった。専門的な記述が続く、どちらかといえば退屈な書類だ。イザベラはいつも通り、冷静な表情でそれに目を通していた…はずだった。
ふと、彼女の手元に視線を落とした俺は、思わず目を見開いた。彼女は報告書の隅に、無意識のうちなのだろう、非常に小さな、しかし驚くほど緻密で愛らしい、その小動物のデフォルメされた絵を描いていたのだ。しかも、生き生きとした表情で、見ているだけで癒されるようなタッチだった。
(え…? あのイザベラが、落書き…? しかも、こんなに可愛い絵を…!)
衝撃だった。常に冷静沈着、鉄の仮面を被っているかのような彼女が、こんな少女らしい(そして絵が上手いという)一面を持っていたとは。俺が凝視しているのに気づいたのか、イザベラはハッと我に返り、慌ててその部分を手で隠した。そして、俺をジロリと睨みつけた。その頬が、ほんの僅かに赤らんでいるように見えたのは、きっと気のせいではないだろう。
「…何か、問題でも?」
少し咎めるような口調で聞いてくる。
「い、いえ! 何でもありません! ただ、その動物、可愛いなと…」
俺は慌てて視線を逸らし、言葉を濁した。だが、心臓はドキドキと高鳴っていた。氷の令嬢の意外すぎるギャップ。これは…破壊力が高い。もしかしたら、彼女は可愛いものが好きなのかもしれない。
この一件以来、俺はイザベラの「可愛いもの好き」疑惑を検証すべく、密かに観察を続けた。すると、他にもいくつかそれらしい証拠が見つかった。彼女が使っている羽根ペンの軸には、よく見ると小さな花の模様が彫られていた。執務室の片隅に置かれた書類入れの金具は、よく見ると猫の形をしていた。そして、クララからの追加情報によれば、イザベラの私室には、ぬいぐるみや動物モチーフの小物がいくつか飾られているらしい(ただし、人目につかないように)。
(間違いない…この人、可愛いものが好きだ! けど、それを隠してる!)
おそらく、公爵令嬢としての体面や、「完璧で有能な才媛」という周囲からのイメージ、そして自分自身に課した厳しさから、その嗜好を表に出せないのだろう。そう思うと、なんだか愛おしさが込み上げてきた。同時に、彼女の人間らしい一面に触れられた気がして、嬉しくもあった。
俺はこの発見を、彼女との距離を縮めるきっかけにできないかと考えた。いやらしい下心というよりは、純粋に彼女の喜ぶ(かもしれない)顔が見てみたかった。そして、完璧な仮面の下にある素顔を、もっと知りたいと思った。
次の日、俺は市場にお忍びで出かけ(もちろんクララの手引きで!)、あるものを手に入れた。そして、それをさりげなくイザベラの執務室の机の隅に置いておいた。それは、最近城下で流行り始めているという、子猫の形をした小さな砂糖菓子だった。見た目も可愛らしく、味も良いと評判だ。
俺が執務室を訪れると、イザベラはいつも通り書類に向かっていたが、その傍らには例の砂糖菓子が…一つ減って置かれていた。そして、彼女のカップからは、ほんのりと甘い香りが漂っている。
(食べたな…! しかも、美味しいと思ってくれたか?)
俺は内心ほくそ笑んだ。イザベラはこちらを一瞥したが、「…これは?」とだけ尋ねてきた。表情はあまり変わらない。
「ああ、市場で見かけて、可愛かったので。イザベラ嬢も、たまには甘いものでもどうかと思って」
「…別に、甘いものが特別好きというわけでは…ですが、まあ、悪くはありませんでした。…お気遣い、どうも」
ふい、と彼女は視線を書類に戻したが、いつもより心なしか、その場の空気が和らいでいるような気がした。耳が少し赤いような気もする。
そして、彼女の頭上の数値。
【+88】
…変わらない。
可愛いお菓子作戦は、貢献度アップには直接繋がらなかったようだ。まあ、そうだろう。これは国益とは関係ない、個人的なアプローチだ。だが、それでいい。俺は、彼女の心を少しでも和ませられたかもしれない、という事実に満足感を覚えた。
俺は諦めなかった。貢献度を上げるためではなく、ただ彼女の素顔に触れたい、彼女に少しでも安らぎを与えたいという気持ちで、その後も時々、彼女の「ツボ」を刺激しそうなものを、さりげなくプレゼントしてみた。可愛い動物モチーフの文房具、美しい装丁の詩集、珍しい花の押し花など…。
そのたびに、イザベラは「不要です」「公私混同は慎みなさい、レオン王子」「仕事の邪魔です」と呆れたように、あるいは少し困ったように言う。しかし、俺がプレゼントした猫の形のペン立ては、いつの間にか彼女の机の隅で使われていたし、押し花は彼女の書類の栞代わりに使われているのを俺は目撃した。
(ツンデレ…いや、素直になれないだけか。可愛いところあるじゃないか!)
彼女の反応は、俺にとってますます興味深く、そして愛おしいものになっていった。貢献度は相変わらず【+88】のままだったが、俺たちの間の空気は、確実に変化し始めていた。以前のような、息が詰まるような緊張感は薄れ、他愛のない会話や、時には軽い冗談を交わすことすらあった。俺が彼女を「イザベラ」と呼び、彼女が俺を(まだ少しぎこちないが)「レオン」と呼ぶことも増えてきた。
しかし、そんな穏やかな変化を、快く思わない者がいた。
俺の存在感が増し、イザベラとの間に確かな信頼関係が築かれつつあることを、最も危険視していた人物…叔父のアルベルト公爵が、ついに本格的な妨害工作を開始したのだ。彼の貢献度(敵意度)は、じわじわと悪化し、【-90】にまで達していた。
ある日、俺が提案し、イザベラが承認して進めていた王宮庭園の改修計画に関する予算案が、貴族評議会で突然差し戻された。理由は「計画の杜撰さ」と「予算の不透明さ」。それは明らかに、俺と、俺を後押しし始めたイザベラへの当てつけだった。評議会の場で、アルベルト叔父は、これみよがしに俺たちを非難し、他の貴族たちを扇動した。
彼の鷹のような鋭い目が、俺を射抜く。その頭上には【-92】という、これまでで最も強い負の数値が、まるで黒い炎のように燃え上がって表示されていた。
(始まったか…本格的な妨害が。そして、これは単なる始まりに過ぎないのかもしれない…)
俺はゴクリと唾を飲み込んだ。これは、単なる嫌がらせや権力争いではない。もっと根深く、陰湿な…俺の存在そのものを否定し、排除しようという、明確な敵意の表れだ。そして、その背後には、俺ではまだ計り知れない、何か別の意図も隠されているような、嫌な予感がした。
隣に立つイザベラを見ると、彼女はいつものように冷静な表情を保っていた。だが、その握られた拳が微かに震えているのを、俺は見逃さなかった。
俺たちの、本当の戦いが始まろうとしていた。それは、単なる政治的な争いではなく、俺たちの絆と未来を賭けた戦いになるのかもしれない。