序章:凡庸王子の「貢献度」革命、始動
ガン、と鈍い痛みがこめかみを打った。まるで酷い二日酔いだ。いや、もっと重い。意識の底から引き上げられるような浮遊感と共に、ずしりとした頭痛が思考を鈍らせる。顔をしかめながら、俺――いや、この身体の持ち主であるレオンは、ゆっくりと目を開けた。
(…どこだ、ここ?)
瞬時に飛び込んできた光景に、俺は息を呑んだ。そこは見慣れた安アパートの、染みだらけで煤けた天井ではなかった。視界を覆うのは、精緻な彫刻が施された豪奢な天蓋。身体を包むのは、肌の上を滑るような、とろりとした感触の最高級シルクであろうシーツ。部屋を満たすのは、磨かれた調度品と、窓から差し込み床の分厚い絨毯に複雑な模様を描く柔らかな陽光。明らかに、俺――佐々木健一、三十路手前のしがない元営業事務――が住んでいた安アパートとは、次元が、いや、世界が違う。
混乱する頭で、必死に記憶を手繰り寄せようとする。そうだ、俺は確か…連日の深夜残業で疲労困憊の中、ふらつきながら歩いていた帰り道、けたたましいクラクションと共に、猛スピードで突っ込んできた信号無視のトラックに撥ねられて…。そこで、俺の意識は途切れたはずだ。
「うっ…!」
最後の記憶が鮮明に蘇った瞬間、まるでダムが決壊したかのように、全く別の記憶の奔流が頭の中に叩きつけられた。視界が明滅し、激しい頭痛と吐き気に襲われる。
――金色の髪に、空の色を映したような碧い瞳を持つ、美しい少年。
――レオン・フォン・アルクス。それが、この身体の名前。
――小国ながらも歴史あるアルクス王国の、第一王子。
――しかし、その実態は…剣術も魔術も学術も平凡以下。人前に出るのが苦手で、社交界では壁の花ならぬ「置物王子」。カリスマ性は皆無で、臣下や民からの人望も薄い。
――周囲からは「お飾り王子」「操り人形」と揶揄され、有力貴族である叔父、アルベルト公爵からは、露骨に廃嫡を画策されている。
――さらに、幼い頃に流行り病で生死の境をさまよった影響か、時折、原因不明の虚脱感や体調不良に見舞われるという、厄介な持病まで抱えている。
――まさに、八方塞がり。「詰んでる」としか言いようのない状況。
(嘘だろ…これがいわゆる、異世界転生ってやつか? よりにもよって、こんなハードモードすぎる役柄に…!)
冷や汗が背中を伝うのが分かった。慌ててベッドから転がり落ちるようにして、部屋の隅にある大きな姿見に駆け寄る。そこに映し出された姿を見て、俺は再び愕然とした。
プラチナブロンドの輝く髪、透き通るような白い肌、そして吸い込まれそうなほどに深い青い瞳。長い睫毛に縁どられたそれは、まるで宝石のようだ。我ながら、絵画から抜け出してきたかのような、非の打ちどころのない美少年。
だが、その完璧な造形とは裏腹に、表情には自信の欠片もなく、どこか怯え、周囲を窺うような頼りなげな色が浮かんでいる。これが、これからの俺…。元の世界の冴えない俺とは似ても似つかないが、この頼りなさは妙にシンクロする。
「…どうすりゃいいんだよ、これ…」
呆然と呟いた、その時だった。
「レオン王子、お目覚めでいらっしゃいますか?」
控えめなノックの音と共に、落ち着いた女性の声が響いた。慌てて表情を取り繕い、ベッドへと戻る。ややあって、扉が静かに開き、栗色の髪を上品なシニヨンにまとめた、二十代半ばほどの侍女が入室してきた。レオンの記憶によれば、彼女はクララ。俺が、いや、レオンが幼い頃から身の回りの世話をしてくれている、数少ない気心の知れた侍女だ。
「おはようございます、王子。よくお休みになれたご様子、安堵いたしました」
クララは穏やかに微笑み、優雅に一礼した。その所作は洗練されている。
「ああ、おはよう、クララ」
俺はぎこちなく返事をしながら、内心で冷や汗をかいていた。ボロが出ないようにしなければ。
「本日は、重要なご予定がございます。ヴァイスハルト公爵令嬢との、公式なご対面の日でございますよ」
クララは努めて明るい声で告げた。だが、その微笑みの奥に、俺には心配そうな、あるいは同情のような感情が透けて見える気がした。
(ヴァイスハルト公爵令嬢…ああ、確か、俺の婚約者だったか。宰相の娘で、とんでもない才媛だと聞いている…)
この凡庸で頼りない王子が、あの完璧と噂される公爵令嬢と並び立つことに対する、周囲の冷ややかな視線や嘲笑を、きっとクララも知っているのだろう。そして、俺がそのプレッシャーに押し潰されないか、心配してくれているのかもしれない。
(…ん?)
その時、俺は奇妙なものを見た。
クララの頭上に、ふわりと淡い光を放つ数字が浮かんでいたのだ。
【+75】
(なんだ…これ?)
思わず目を擦り、もう一度凝視する。数字は消えない。プラス75…? さっきから感じていた、クララの俺への気遣いや忠誠心のようなものが、数値化されている…?
まさか、これが俺の特殊能力? ゲームのステータス? いや、それにしてはシンプルすぎる。
俺は試しに、部屋の隅に控えている年配の侍従に意識を向けてみた。彼は寡黙だが、長年王家に仕えている実直な人物だ。すると、彼の頭上にも数字が現れた。
【+45】
クララよりは低いが、プラスだ。次に、窓の外で警備に立っている衛兵に意識を集中する。
【+20】
【+15】
数値はさらに低いが、やはりプラス。どうやら間違いなさそうだ。
俺には、他人が俺自身、あるいはこの国(王家)に対してどれだけ貢献しているか、その度合いを示す**【貢献度】**が、数値として見えるらしい。
(貢献度可視化…! いわゆるチート能力ってやつか!?)
一筋の光明が見えた気がした。これなら、誰が味方で誰が敵か、ある程度は判別できる!
プラス数値は貢献や忠誠、あるいは好意を示し、マイナス数値なら妨害や敵意を示すのだろう。数値の絶対値は、その影響力の大きさか、あるいは意志の強さか…。直感的にそう理解できた。
これなら、あの叔父アルベルト――頭の中で彼の顔を思い浮かべると、目の前に幻のように【-80】という強烈なマイナス数値が浮かび上がった――のような明確な敵の企みも、事前に察知できるかもしれない。クララの【+75】はかなり高い。彼女は心から俺や王家を心配し、支えようとしてくれているのだろう。長年仕えているという背景も、この数値に繋がっているのかもしれない。
しかし、同時に気づいてしまった。この能力の決定的な限界にも。
なぜその数値なのか、具体的な理由までは分からない。貢献の動機が、純粋な忠誠心なのか、義務感なのか、あるいは俺個人への同情なのか、それとも別の打算によるものなのかも判別できない。侍従の【+45】も、長年の勤めによる惰性なのかもしれないし、衛兵の【+20】や【+15】は、単に「給料分の仕事はしますよ」程度の意味かもしれない。数値だけでは、その人の内面や本心までは読み解けないのだ。
(…これ、使い方を間違えると、とんでもない誤解を生むな。過信は禁物だ)
数値はあくまで参考情報。最終的な判断は、俺自身の観察眼や対話で補っていく必要がある。それでも、何もないよりは遥かにマシだ。この【貢献度可視化】スキルを慎重に、そして最大限に活用して、なんとかこのハードモードな状況を生き抜くしかない。
「王子? やはり顔色が優れませんが…。本日のご対面、もしご気分が優れないようでしたら、陛下に申し上げて…」
クララが、俺の考え込んでいる様子を見て、さらに心配そうに声をかけてきた。
「あ、いや、大丈夫だ。心配ない。ありがとう、クララ」
俺は曖昧に笑って誤魔した。「それより、少し昔の話を聞かせてくれないか? 最近、少し記憶が曖昧なところがあってな…特に、ヴァイスハルト嬢のこととか」
まずは情報収集だ。これから対面する、おそらくは好感度ゼロであろう婚約者のこと、そしてこの国のこと、俺自身のことを、もっと深く知らなければならない。
クララは少し驚いた顔をしたが、すぐに優しく頷いてくれた。「もちろんです、王子。何なりとお尋ねください」
こうして、俺――元社畜・佐々木健一こと、凡庸王子レオンの、異世界サバイバルと「貢献度」革命が、静かに、そして波乱含みの幕を開けようとしていた。最初の試練は、貢献度【+80】(国に対して)だが、俺個人に対してはおそらくマイナス評価であろう、天才婚約者との対面だ。果たして、俺はこの難局を乗り越えることができるだろうか…?