(3-2)
コハルの生まれ故郷の思い出は、ほとんどない。
わずかに記憶に残っている景色は、夜一色だ。
いちめん真っ黒の空。ちらちらと瞬く無数の星。
コハルは、小さな舟の底に寝そべって、それを眺めている。
いちどだけ、首を持ち上げて、浜辺を見た。
オレンジ色の松明が、一列にぼんやり並んでいる。
低く歌うような、うねるような人たちの声。太鼓の音。
それが、故郷の最後の光景だ。
どこかの島の、まずしい海辺の村だった気がする。
ある日、なぜか自分が選ばれた。ななつの頃だったと思う。
ワダツミノリュウジンサマノハナヨメサマ。
ムラニアンネイヲモタラススクイノミコ。
何度も何度も呼びかけられる。
よくわからないうちに、真っ白な着物を着せられて、夜になっていた。
生まれてはじめて、お腹いっぱいごはんを食べさせてもらえて、うれしかったような記憶がある。
でも。それだけだ。もう、誰の顔も思い出さない。
思い出したくないのかもしれない。
舟は離れていく。
海の水が舟のへりを揺らす。
潮に流されていく。
自分は、しぬのかな。
そう思った。
しんだ子どもは、村で何人か見たことがある。
最後はうごかなくなる。それだけだ。
とても悲しい。でも、それだけだ。
コハルは目を閉じた。
目を閉じても、星が目に焼きついている。
泣き喚いても、誰も助けてくれない。
だから、なんの涙もなかった。
しねば、なれるのかな。
ワダツミノリュウジンサマノハナヨメサマ。
よくわからない。
静かだった。
淡々と、あきらめて、流された。
コハルは、そっと目を開けた。
夜の夢から解放されて、ほっと小さな吐息がもれる。
鉛筆を一心に走らせる青年が目に入る。精悍な顔を、やさしくやさしくほころばせて、何かを無心で描いている。
その顔に、見入ってしまう。
エイナルは、いつでもやさしい。やわらかい。
初めて会った時、低い声が包み込むように響いて、この人の言っていることを知りたいと思った。
その日から、言葉を覚えるのが楽しくてたのしくて。
コハルは毎日、うれしくてしかたない。
その分、あの日の夢が、ひんやり染みる。
子どもの頃の、故郷のあの夜。
今でも、ときどきぼんやり夢に見る。
確かに小舟で沖に流された。でも結局、気づいたら夜が明けていた。
また夜と朝がきた。朦朧として、完全に干からびる寸前で、漁師の夫婦が拾ってくれた。
大陸に連れて帰ってくれて、その家の子どもにしてくれたのだ。
なんて幸運なんだろう!
その時から、コハルに怖いものはない。
たぶん故郷のあれは、儀式のようなもの。いけにえになって、でも、しなずに、生きている。
一生分の大変な目にあった。新しい土地で、新しく命を拾った。
だからもう、あとは何が起きたって、大したことはない。故郷にとっては、きっとしにぞこないの、役立たずでも。
いつのまにか、そんな気持ちで生きている。
拾ってもらった村では、ずいぶん大切にしてもらった。
コハルは、なぜか、先の天気を感じられるようになっていたからだ。
海に流される前には、そんな力はなかった気がする。
よくわからない。
ありがたい力だと、とても喜ばれた。
心を研ぎ澄ませ、意識を遠くまで広げて、天気を正確に読むたびに、どんどん待遇がよくなった。
綺麗な着物と、おいしいごはん。あたたかい家には、すきま風が入ってこない。
大切にしてもらうぶん、役に立とうと頑張った。
頑張って、頑張って、頑張った。
役に立つことが、コハルの生きる意味になった。
けれど、小さな漁村のあった小さな国は、あるとき戦に負けて、大きな国に呑み込まれた。
村の人々は、住んでいた場所から無理やり別のところに連れて行かれた。コハルもだ。
大きな国の川の工事で働かされた。おなじように連れてこられた人がたくさんいた。
村の人たちは、コハルの空読みの力に頼る必要がなくなった。天気がよかろうと悪かろうと、命令通りに働くだけだ。
それが終わると、また別の工事の現場へ。
いろんな土地を、転々と引き回された。
空読みを求められず、コハルは普通の子になった。
むしろ、土のかご一つ運ぼうとするだけでもよろめく役立たずだ。
それでも、少しでも役に立ちたくて、一生懸命働いた。
ある日、人さらいにさらわれた。
泥だらけの非力な子どもが何人かいなくなっても、大きな国の人たちは気にしない。
やすやすと、遠い国に連れていかれた。
子どもたちが、せまい馬車に詰め込まれて泣いている。コハルは一生懸命なぐさめて、面倒をみた。
少しでも、何でもいいから、役に立ちたかった。
そうすれば、村の人たちといきなり引き離された寂しさと諦めの気持ちを、ひととき忘れられる。
これからどこか辿り着いた先で、本当に誰かの役に立てますように。
そんなことをずっと思っていた。
そうして流れ流れて、この北国の港町にきた。
ここはすてきだ。
にぎやかで、食べ物はおいしくて、親切な人が多い。
コハルみたいな東方系の顔立ちの船乗りもちらほらいる。だから、街を歩いていても、じろじろ見られることもない。
そんななかでも、エイナルがいちばん親切だ。
この国にくる前の生活でも、楽しいことはいっぱいあった。養い親はやさしかったし、友だちもいた。
でも、エイナルと一緒だと、もっともっと、いっぱい楽しい。
文字を覚えるのは、生まれて初めてだった。
育ててくれた小さな村の人は誰も文字を使えなかったし、生まれ故郷の言葉はほとんど覚えていない。
エイナルほど丁寧に、忍耐づよく、物を教えて、そばにいてくれる人はいない。
だから、もっともっと、エイナルの役に立ちたい。
言葉を少し話せるようになってきたら、同じ領主館で働くカンナという女の子とも仲良くなれた。
全部エイナルのおかげだ。
カンナとおしゃべりして、新しいことを教えてもらって。
毎日、ハッピーでラッキーで、アゲアゲでフィーバー!なのだ。
——使い方があっているのか、本当はよくわかっていないのだけれど。
エイナルの鉛筆が止まった。目があった。
やさしい顔が、くしゃくしゃっと笑った。
それだけで、コハルはとってもうれしくなってしまう。にこにこと、微笑みかえす。
「目が覚めた? おはよう、コハル」
「おはよう、エイナル」
挨拶だけで、心がふわふわする。灯台のてっぺんまで、飛んでいけそうな気分。エイナルは、本当に不思議な人だ。
「あ、見て」
エイナルの顔が輝いた。
「虹が出てるよ、虹。窓の外」
その視線をたどって、コハルは雷雨の去った空に七色の光の橋を見つける。
「にじ。おぼえた!きれい!」
エイナルの毎日は、きれいでやさしいものばっかりだ。
窓の近くで虹を見たくて、立ち上がろうとした。立ち上がれない。重い。膝の上がどっしりと。
ブランケットをめくった。
いつのまにか、タネリとトピが、分け合うようにコハルの膝の上に顎をのっけて熟睡している。
思わずふたつの頭を撫でる。きもちよさそうに、耳がぴくぴく揺れている。
この子たちが、うらやましい。
「うちのやつら」とエイナルに親しみを込めて呼ばれているのがうらやましい。
コハルも、エイナルの「うちのやつら」になれたらいいのに。
でも、犬でも猫でもないコハルは、作戦を練らないといけない。
頑張っていろいろなことを覚えて、灯台の家のメイドにしてもらうのはどうだろう。
この灯台は、人手が足りていないらしい。ヴィッレが大きな国の言葉で教えてくれた。
とてもいい作戦な気がする。メイド作戦。それならエイナルの役に立てそうだ。
思いついたとたん、わくわくした。
「あはは、離れないねえ。ごめんね。うちのやつら、コハルがすっかり大好きなんだな」
エイナルが、紙を書類ばさみにしまって立ちあがる。
よいしょっと猫の体を抱き上げて、犬の腹のところに埋めるようにおろす。
犬の顎の下に、コハルの膝のかわりにクッションをさっと差し込んだ。
それからブランケットを2匹の体にかける。慣れている。
タネリとトピがそれで満足したように昼寝を続けてくれたから、コハルはゆっくり窓から虹をながめられた。
「綺麗だねぇ」
「きれいだねぇ」
同じ言葉を言うだけで、心があたたかくなる。
「あ、そうだ、コハル。来週、お祭りがあるんだけど、知ってる? よかったら、一緒に行こうか。ランチ、そっちで食べるのもいいかもしれない」
「おまつり?」
「そう。えっと、街がいつもよりにぎやかで、人がいっぱい出てきて、いろんなイベントがやってる。コハルと俺は、屋台で特別おいしいランチを食べる」
「屋台……ランチ!」
その言葉なら分かる。たぶん、特別なことがある街で、おいしいごはんを食べようと誘ってくれている。
うれしくて、コハルは何度もうなずいた。この国の特別なおでかけに何を着ていったらいいのか、あとでカンナに教えてもらわないと。
夜がない街で、生まれて初めてのおまつり。
想像もつかない。だけど、散歩のときのタネリみたいに、心がぴょんぴょん飛び跳ねる。跳ね回る。そのまま踊り出して、どこかに行ってしまいそうだ。
楽しみすぎて、どうしよう……
どうしよう!!




