(3-1)
フローレ岬の夏には、夜がない。
6月に入ると、太陽が完全には沈まなくなる。日付が回るころに、ひととき夕焼けと朝焼けをいっしょくたにしたような、あいまいな時間がやってくる。
あとはずっと、太陽が明るく空にいる。
「白夜、って言うんだ。これから2カ月近く続く」
エイナルは、石板に文字を書いた。
「びゃくや。夜が、こない」
じっくりとつぶやいて、コハルはほっとしたように、うれしそうにうなずいた。
「びゃくや、はじめてだ。うれしい」
「そうだね。ずっと昼間って、なんだか得した気分になるしね。夜の星を見られなくなるのは、少し残念だけど」
その分、冬のひとときは、ほとんど太陽が昇ってこなくなる。それはそれで、それなりの楽しみ方がある。
でも、今はとにかく夏だ。一年でいちばん最高の季節。
「夜は、すきじゃない。あんまり、きらい」
コハルは、ほんの少し顔を曇らせる。今の空と同じみたいにどんよりして見える。
「昼は好き?」
「めちゃすき!」
おなじ屋敷で働くメイド仲間とも、仲良く話すようになったらしい。コハルの言葉が、ときどき急に砕けるようになった。
しかも新しく知った言葉をどんどん使いたがるので、かわいいなぁ、とエイナルはほっこりしてしまう。
「じゃあ、しばらくずっとコハルの好きな昼ばっかり続くね。ラッキーだね」
「めちゃラッキー!ハッピー!」
「ハッピーだねぇ」
「アゲアゲ!」
「あげあげ?」
ときどき新しい言葉すぎて、むしろエイナルがコハルから教えてもらうこともある。それもとても楽しい。
「ああ、そろそろ雨が来るかもしれない。コハル、中に入ろうか」
海からの風が、重い雲を連れてきている。空を見上げたコハルが、はっきりと言った。
「雨が降る。雷が鳴る」
「そうだね。そうかもしれないね」
うなずいて、ふたりは急いで机のものを片付け、机を納戸にしまう。
それを待っていたかのように、重い雨が降り出した。風がびゅうと鋭い音を立てる。
「ちょっと灯台の様子を見てくるね」
「わかった。お茶、いれとくます」
「うん。ありがとう」
家のなかに、灯台に直接通じているドアがある。こんなときは本当に便利だ。
エイナルは螺旋階段を駆け上がった。素早く点検する。
灯りは問題なく燃えている。朝、油を足した時と変わらない。
光を遠くに届けるミラーも、いつもどおり動いている。
これなら嵐でも、光が海上に届く。よほど視界不良にならない限りは。
ガラス窓から海を見晴らす。
海原が少し荒れている。雨が幕のようにけぶっている。
船はあらかた入江に戻っているようだ。沖に、何隻か大型船が錨を降ろして風雨に耐えている。
空の彼方に、雲の切れ間が見える。しばらくすれば、きっと雨は止む。時間をおいて、凪の時間がやってくる。これくらいの天候不良なら、大事にならずに済むだろう。
向こうの雲が稲妻をはらんで白く光る。コハルの言ったとおりだ。雷が鳴り出した。あっという間に近づいてくる。
天気についての言葉を覚えはじめてから、コハルは空模様を読むようなことを、ぽろりとこぼすようになった。
灯台守のエイナルの経験と照らし合わせても、正確に天気が予測できている。
コハルを育てた一族は、もしかして空見の知識に長けた人々だったのだろうか。
そんなことをぼんやり思う。
灯台にいるかぎり、空の機嫌を読むのは大切なことだ。コハルの言葉はありがたい。
ありがたいからこそ、背景を詮索するのは、やめておきたかった。
もし、それが思い出したくない過去の記憶に繋がっていたならば、コハルの心を傷つけてしまう。
ひときわ大きな稲光が空を裂いた。
たぶん、街の庁舎の尖塔に落ちた。雷鳴が轟く。
しばらくそのまま待機する。やがて雷鳴は遠く、雨は弱くなっていく。
もう大丈夫だろうと判断して、階下の家に戻った。
きっとまだコハルの入れてくれた紅茶は冷めきっていない。お茶受けに、おととい一緒に摘んで作ったブルーベリーのジャムを出そうか。
そんなことを考えながら、居間のドアを開けて、エイナルは思わず微笑んだ。
カウチの端っこに、コハルがちょこんと座っている。
その膝に、大きなオレンジ色の毛玉が見える。猫のトピだ。コハルのお腹に頭をぎゅうぎゅう押し付けるようにして、微動だにしない。
コハルの背中には、犬のタネリが顔を突っ込んでいる。こちらも伏せて尻尾を足の間に入れたまま、わずかに震えるばかりで動かない。
「うちのやつら、雷が大嫌いなんだ。いつもは雷が聞こえると、ふたりでくっついてるんだけど。コハルと一緒にいたかったんだね」
笑いながら、エイナルはカウチの端に畳んで置いてあった厚手のブランケットを広げる。ふわりとコハルとトピとタネリに被せた。
「これで落ち着くと思う。コハル、申し訳ないけどもう少しだけ、トピとタネリに付き合ってあげて」
「……あったかい」
少し眠そうに、コハルがふわふわ目を泳がせる。
膝に湯たんぽみたいな猫のかたまり。背中にもふもふした犬。極めつけにしっかりと目の詰まった毛織りのブランケットが追加されて、すっかりあたたまってしまったらしい。
「すこし寝るといいよ」
「……ありがとう」
「おやすみ、コハル」
もごもごと、何かを口の中でつぶやきながら、限界を迎えたらしいコハルが目を閉じる。
エイナルは、向かいのソファに座って、自分のマグカップに入っている紅茶を飲んだ。まだほんのりあたたかい。コハルは、エイナルがいつもどの食器を使っているか、すっかり覚えてくれている。
穏やかな気持ちで、記録紙に天気の急変の様子を書き込む。
雷が完全に鳴りやんでも、トピもタネリも毛布のなかから出てこない。すっかり寝入ってしまった気配がする。
やさしく満ち足りたあたたかいものが、じわじわと胸のなかに広がっていく。
やがてエイナルは、紙に鉛筆を走らせはじめた。
ひさびさに、スケッチを描きたくなったのだ。なんとなく。
そのうちに、夢中で鉛筆を動かした。
自分がどんな笑みを浮かべているのか、気付かずに。