(2-3)
「お前がこっちにきて夕飯食うって珍しいな」
ヴィッレが含みのある顔で言う。
ニヤニヤしている。この幼なじみは、最近エイナルと会うたびに、こんな顔をする。
ヴィッレはこの街では相当男前の部類だ。
顔や体型もエイナルほど無骨でなく、涼やかで、外ではいつでも爽やかな笑みを浮かべている。金髪にダークブルーの瞳で、人当たりが良く、領主の息子で20歳。とくれば、まぁ、モテないわけがない。
本人もそれを十分自覚していて、街では相応のふるまいをする。一言でいえば、特大の猫をかぶっている。
その厚い猫を、どこに置いてきたのか。
食事の席なのにだらしなく頬杖をついて、ヴィッレはこちらの表情をとっくり観察している。
「たまにはご領主の館で、あたたかい夕飯にありつこうかと思って」
エイナルはしれっと答える。目の前のビーフシチューをぱくりと食べる。
「うん、うまい。時間のかかった料理の味がする。自分じゃ絶対作らない」
この国の普通の家庭は、春夏の夜はあたたかい料理をめったに作らない。ささっとありあわせのものをかき集めて食べる。
朝は煮込んだほかほかのオートミール、昼にあたたかい一皿料理、夜は酒と一緒に昼の残りか冷たい惣菜をつまめれば十分、といった感じだ。
だが、領主一家ともなると、住み込みの料理人一家がいて、夜でもあたたかいものが出てくる。
今日のエイナルは、その立派なごはんを勝手に食べにきた。
昔からよくあることではある。ヴィッレの祖父とエイナルの祖父は、かなり仲の良い友だちだった。そのままずっと、家族どうしで仲が良い。
「で、どうだ、コハル。いい子だろ」
いけしゃあしゃあと、ヴィッレは言う。
「いい子だと思う」
そこは素直にエイナルは答えた。コハルは本当にいつでも一生懸命だ。
「いい子すぎて……大丈夫かな。なんでも全力で取り組みすぎてる気がする」
「へぇ。よく見てるな」
「そりゃ、2日に一度は一緒にいたらね」
エイナルはパンをちぎって口に運ぶ。こちらも焼きたてふかふかだ。
焼きたてのパンなど、めったに食べない。いつもは、買い置きした固いパンを、大事に齧る。スープで煮て食べることもある。
ヴィッレの領主館の生活は、同じ街の暮らしでも次元が違う。別にそこに嫉妬したことはないけれど、確実に習慣の違いはある。
同じように、コハルのなかにも、エイナルとは違う何かがある。
「イタダキマス」
「なんだって?」
不意をつかれたヴィッレは、眉を上げる。
「コハルは食事の前にいつも言うんだ。こうやって、」
エイナルは両手を合わせてみせる。
「イタダキマス」
エイナルは、合わせたままの自分の両手を見る。
なんだかすてきな響きの言葉だと思って、コハルがいる時には一緒に唱えるようになった。
でも、唱えるたびに、コハルがどこか遠い世界にいる気がする。目の前にいるようで、近づけない壁がある。
「コハルの故郷の言葉なんだろうか」
「わからんな」
ヴィッレはぐびっとビールをあおる。続けて、ゆでたジャガイモをひとかけら放り込む。再びビールで流し込んでから、ようやっと重い口を開いた。
「誰にも言うなよ。あの子は、ナフタの国で売られてたんだ」
「う、売られ……?!」
この大陸では、奴隷制度はもう廃れている。人身売買も固く禁じられている。
でも、それは表向きのこと。実は密かに闇ルートがあると聞いたことがある。前に王都で衛兵をしていたときに。
「幸いというか何というか、買い手がつく前に人身売買組織が摘発された。たくさんの子どもが保護されて、次の行き場を見つける必要があった。そんな大騒ぎのなか、たまたま友好国ルノランディアから俺たち視察団が来ていた。で、いつでも人手がほしい港町出身の俺が、コハルを引き取ることにした。以上」
「……」
思っていたよりはるかに壮絶で、エイナルは言葉を失った。
「コハルはナフタに来たばかりで、ナフタの言葉は話せなかった。片言のマルタ帝国語は話せた」
「……マルタか!」
思わずぎりっと奥歯を噛む。
この大陸の公用語は、ふたつある。いずれも大国の言葉で、マルタ帝国語とカンティフラス語。どちらかが話せれば、船乗りたちとの会話は事足りる。
エイナルは、たいていの街の人と同じく、カンティフラス語を多少話せる。この国と直接海路を結んでいるからだ。
とはいえ、外国語は得意ではない。だから、マルタ帝国語まで勉強する気になれなかった。マルタ語では簡単な挨拶ができる程度だ。
でも、勉強しておけばよかった。そうしたら、コハルと話せるのに。
「コハルが言うことには、自分は遠い国で生まれた。マルタ帝国の少数民族の家に育てられた。それから人さらいにさらわれた、らしい。分かっているのはそれだけだ」
「ずいぶん情報が少ないんだな……。どうしてそれでコハルを連れて帰ってきた? 他にも子どもはいたんだろう?」
「まぁ、いい子そうに見えたし。戻る道中でコハルが変な事件でも起こしたら、衛兵に突き出せばいいかと思った。それになにより」
深刻そうなヴィッレの顔が、急にあのニヤニヤ笑いに変わる。
「コハルの横顔、そっくりじゃないか? お前の妖精さんに」
「……」
「お前、『ヴァルガ戦記』大好きだっただろ? 挿絵をよく紙に写してた。そのなかの、ほら、女神フローレの配下の黒髪の妖精。あの絵、熱心に何度も描いてたじゃないか」
『ヴァルガ戦記』はこの国の建国の伝説を読み物としてまとめた本だ。たいていの子どもは読む。
エイナルも、繰り返して何度も読んだ。挿絵が好きで、紙に何度も写した。自分なりに想像して絵も描いた。
たしかに、コハルは、あの黒髪の妖精に、ちょっと似ていなくは、ない。似ているだけで、別にどうということはないが。
コハルの横顔を、絵に描いてみたくなるときは、ある。
エイナルは露骨に話を逸らすことにした。
「コハル、まだ15歳かそこらだろう。ようやく普通の学校を卒業する年頃だ。ちゃんと言葉を覚えて、職業訓練校に行けばいい。手に職がつくのはいいことだろ」
ヴィッレがニヤニヤを通り越して、あからさまな企み笑いになる。
「18歳」
「はい?」
「自分で、18歳くらいだって言ってた。ほら、東方系の人間って小柄だし、わりと童顔だろ。人さらいにも子どもと間違えられたらしい。さらわれた子たちの面倒をせっせとみて、ずいぶん懐かれてた」
「……」
エイナルは混乱のあまり、口をつぐんだ。コハルがときどき妙に大人っぽくみえたのは、気のせいではなかったのか。
18歳。だったら子どもではない。この国は、18歳から成人だ。
とりあえず、最後のビーフシチューを口に運んだ。味がよくわからない。
「ともあれ、お前があの子を遠ざけなくて安心したよ」
ヴィッレは少し真面目な顔になる。
「お前、王都の仕事を辞めて帰ってきてから、少し様子がおかしかったから。その左腕の傷、何があったか聞かないけど。人から遠ざかるように灯台に引きこもってさぁ。前はもっと気軽に街に出てきて遊んでたろ」
エイナルの左腕には、服の下に隠れて、長い刀傷がある。それで今も少し左手が使いづらい。
「仕事の時の負傷だよ。今はちょっとのんびり過ごしたいだけ」
静かに、かたくなに、エイナルは首を振った。
ヴィッレは、あきらめたように、ため息をついた。
領主館を出ると、21時を回っていた。
この時期の日没は遅い。まだ、日が暮れない。
街中も、にぎわっている。酔客たちの歌う声があちこちから漏れ聞こえてくる。この国は、乾杯の時によく歌う。
屋台で肉の串を買い、ビールを1瓶手に入れる。ヴィッレからお土産にと持たされたチーズとナッツもある。
22時のロープ巻きの仕事が終わったら、久しぶりに軽く寝酒をしよう。
喧騒のすきまを、ひとりでぽつんと歩く。
王都の頃の生活を、少し思い出した。仕事あがりに、兵士仲間たちとよく飲んだ。歌った。楽しかった。もう、戻らない。
今は、あまり思い出したくないな、とエイナルは思う。
顔見知りが、路地の向こうからやってくる。軽く挨拶を交わし、笑顔で手をあげすれ違う。
立ち止まって話し込むほどではない。
この時間、路上の人は、たいてい誰もが急いでいる。家族の待つ家に帰るか、酒場で飲み明かすために。
急いでいないのは、エイナルくらいなものだ。
ふと思いついて、ヌガーを一包み買った。
白くて甘い砂糖菓子だ。中にナッツとドライフルーツがぎっしり詰まっている。コーヒーによく合う。
明日はコハルが来る日だ。
喜んでくれるかな。
そう思ったら、急に心がふんわり軽くなった。
重いような軽いようなよく分からない足取りで、エイナルは岬の灯台に戻っていった。