(2-2)
岬の草原を、街とは反対側の方面に少し降ると森になる。
けもの道を、ぴょっこぴょことタネリが張り切って先頭で歩く。
その首輪には熊よけの鈴がつけられている。カロンカロンと良い音を立てる。
コハルは、すこし心配そうに犬の右の後ろ足を見ている。
タネリは昔の事故の後遺症で、その足をうまく動かせない。
でも当のタネリはそんなことをちっとも気にしていない。尻尾を大きく振りながら、ずんずん前に進む。
「大丈夫」
一番後ろを歩くエイナルは、穏やかな声をコハルにかけた。
「タネリは大丈夫。森のなかの散歩、いつものことだから。このくらいへっちゃら」
「いたい、ない?」
「うん、痛くない。タネリは賢いからね。痛くならずに長く歩けるやり方を知ってる。あ。ほら、見えてきたよ」
目的地はもうすぐそこだ。
森が開けて、大きめの湖が現れる。湖の脇が少し開けていて、小屋が立っている。丸太で組んだ家だ。
カロンカロンと音を立てながら、タネリが湖のほとりに駆けていく。
その音に引き寄せられるように、たくさんの水鳥たちが湖面をすいすい泳いで近づいてくる。ゆうに100羽はいるだろう。
この季節、週に一度はここに来る。いつもは料理で出た野菜くずやパンくずなどをまとめて持ってくる。
だから、エイナルたちは鳥たちから、そこそこ歓迎されていた。
「よっこいしょ」
エイナルは背負っていた大きなリュックを、湖のそばの乾いた岩の上におろす。
四角い缶を取り出して、かぱりと開けた。
「ほら、これ」
コハルに見せる。
「オートミール。コハルも朝ごはんで食べてるんじゃない?牛乳とかスープで煮てどろどろになったやつ」
「オートミール」
ハッとした顔で、コハルはうなずく。調理前のものは初めて見たのかもしれない。
「オーツ麦の殻をとって、粗く割ったやつだからさ。鳥たちのごはんにもぴったりなんだ。古いオートミールを見つけたから、少し持ってきた」
缶のなかの粒状のフレークをひとにぎりつかんで、身を乗り出しばっと湖に撒く。とたんににぎやかな羽音と水鳥の声で、湖面が揺れた。
いろいろな種類のカモに混じって、ハクチョウの姿もある。夢中でオーツ麦をついばむ姿が愛らしい。
「コハルもやってみる?」
その手にざらりと握らせる。
コハルは、ワクワクした顔で手の中のオートミールを見て、それから待ち構えている水鳥たちを見る。
それから、右手を振りかぶって、大きく投げた。はずだった。
だが、半分くらいは水の中に到達し、もう半分は岸辺にばら撒かれてしまう。
コハルは慌てて、おろおろと足元を見た。散らばったオートミールめがけて、元気なカモたちがお尻をふりふり水から上がってやってくる。
群がるカモを押し除けるようにして、一羽のハクチョウまで、ずいっと陸に上がってきた。
体の大きなハクチョウだ。落ち着き払った、ふてぶてしい面構えをしている。
「いつものやつが来たな。タネリ、飛びかかっちゃダメだよ」
犬は心得たとばかりに、慣れた様子でその場から少し離れる。
ハクチョウはまったく気にもせず、とてとてとて、と、こちらに近寄ってくる。首を上にピンと伸ばす。
小柄なコハルの胸くらいまである。その大きさに、コハルはすこし後ずさる。
「直接おねだりしにきたな?」
エイナルは、コハルをかばって立ちながら、左の手のひらにオートミールを乗っけて平らに差し出した。
ハクチョウは優雅に小首をかしげる。
次の瞬間、素早い動きで首を伸ばす。斜めのままのくちばしで、手のひらをガツガツついばんだ。
まるでバネ仕掛けで飛び出る人形みたいな猛スピードだ。
「すごい!クグイ!はやい!」
コハルがはしゃいだ声をあげた。
「クグイ?」
「クグイ」
コハルはハクチョウを指さしてみせる。
「ああ、コハルの故郷では、クグイって言うのか。ここではね、ハクチョウ」
「はくちょう」
「そうそう」
話している間にも、ハクチョウは首を低くした。あからさまに、缶のなかのオートミールを直接狙っている。
エイナルは、オートミール缶を、シャカシャカと音を立てて横に振った。ハクチョウの目が釘付けになっている。
「コハルは、こいつと仲良くなるの、もうちょっと慣れてからにしようか。食い意地がすごくてさ。気を抜くと手を噛んでくるから」
言いながら、湖面ギリギリまで近づいて、缶を水上に差し出した。つられたハクチョウが、ぺたぺたと岸辺に歩いて戻っていく。
「ほら。食べろ!」
缶のなかに手を突っ込んで、思いっきり扇状に派手に撒いた。つられてハクチョウも水に飛び込み、他のカモの間でついばみ始める。
「はは、豪快に食べるなぁ。コハルもやってごらん」
誘われたコハルは、再び餌やりにチャレンジする。
今度は、下から斜め前に投げる作戦だ。
見事に弧を描くようにオートミールが宙を舞う。鳥たちから甲高い歓声が上がる。
コハルの顔がほころんだ。
そうやって、持ってきたオートミールは、あっという間に鳥たちのお腹におさまった。
「楽しかった?」
「たのしい!」
「そうか、よかった。じゃあ、我々人間もごはんにしようか」
丸太小屋の前に移動する。エイナルの祖父が、自分の手でこつこつ建てたものだ。
実はこれも祖父のエッセイに書かれている。だが、観光客には小屋の場所を教えていない。森のなかで慣れない人が迷ってしまうほど、怖いものはないからだ。
小屋の中から、平べったい木箱をみっつ、持ち出した。湖畔に並べる。コハルもすかさずついてきて、手伝ってくれる。
真ん中の木箱をテーブルがわりにして、背負ってきたランチをふたりで手分けして並べる。
今日はソーセージと玉ねぎを巻き込んで焼いたパン。ゆで卵。サーモンの燻製とにんじんのマリネ。
それからオートミールクッキーと、さっき保温ポットに継ぎ足してきたほかほかの煮出しミルクティー。
それとは別に、細かく切って水煮した鶏肉とキャベツとカブを、瓶に入れて持ってきていた。
タネリの皿に入れてやる。ちなみに、家で留守番しているトピにも同じものをあげてきた。
食べ物を挟んで、木箱に座る。
その前に、小屋から厚手のブランケットも持ち出してきて、コハルの体をすっぽり包む。
この時期の日中は、街中でも上着を着ていてちょうどいい。長時間、森のなかでじっと座って過ごすには涼しすぎる。
すっかり準備が整うと、エイナルも木箱に腰掛けた。
ゆっくりと靴と靴下を脱ぐ。澄んだ湖の水のなかに、足を入れた。ふくらはぎの中ほどまで浸かる。
コハルのびっくりした顔に、イタズラが成功した子どもみたいな気持ちがよぎる。
エイナルは、すっかり得意になって説明する。
「あったかいんだ。ここだけ、温泉が沸いてる」
「あたたかい。おんせん」
「最高だよ。コハルもどうぞ」
「さいこう」
とまどいながら、コハルも素直に足をつける。びっくりした顔で足元を見て、軽く水の中で動かす。
「あたたかい!」
「ね、いいでしょ」
まだまだ驚いた顔をしているコハルに、ソーセージパンを手わたす。
「さ、食べよう。イタダキマス」
「イタダキマス」
プリッとしたソーセージと、みずみずしさを残す玉ねぎの甘さが口の中に広がる。
もぐもぐと味わいながら、エイナルはふと、遠くでくつろぐハクチョウたちを見た。
ここの水温は鳥たちには熱すぎるようで、遠巻きにされている。寄ってはこない。
「ハクチョウ、コハルが前に住んでたところにもいるんだね。クグイ、って言ってたっけ」
「いる。クグイ」
少しなつかしそうな顔で、コハルはうなずく。
「ハクチョウって、春夏はここで過ごして、秋になるともっと南の地方に群れで移動するんだ。きっと、コハルの故郷はもっと南の方なんだな」
「クグイ。ふゆ、の、とり」
たどたどしい言葉で、コハルは答える。
「そっか。……帰りたい?」
首をかしげて、コハルはとたんに困ったような顔になる。
「わからない。ごめんなさい」
ぽつりとそう答えて、コハルはハクチョウを眺めた。
そのまなざしが、なんだかひどく大人びて見えた。それに、悲しそうにも見える。
コハルに翼があったら、もしかしたら、故郷に飛んで帰りたいのかもしれない。
でも、コハルはたぶん、帰れない。
エイナルの胸が、途方もなくぎゅっと痛んだ。
エイナルの故郷はここだ。ここに住んでいられなくなったら、きっとそれはとても辛い。
かける言葉が見つからない。代わりに言った。
「……ミルクティー、おいしいよ?」
コハルは遠いところでさまよわせていたまなざしを、エイナルに戻す。我に返った顔をした。
保温ビンから注がれた甘いお茶を、小さな口でちびりと飲む。その顔がじんわりほっこり、あどけなくゆるむ。
「あたたかい」
足をぱしゃぱしゃ水面で動かして、コハルは噛み締めるように笑った。
「あたたかい。ありがとう。エイナル、あたたかい」