(2-1)
5月。春の緑は深みを増して、岬の天気は変わりやすい。
昨夜の強雨は、朝には止んだ。名残りのしずくを葉に残しながら、のびのび草原が揺れている。
灯台の朝の点検を終えて、エイナルは外に出た。一息つく。左手を握っては開く。
灯台守の仕事は、結構な力持ちには向いている。
特に、1日3回、長くて太い鉄のロープを巻き上げる仕事が大変だ。6時と14時と22時。灯火レンズをきちんと動かすために、絶対に必要な作業だ。
去年までの自分だったら楽勝だった。でも、今のエイナルの左手には、これがなかなかにキツい。
ひと呼吸おいてから、先日作ったばかりの木製の折りたたみテーブルを、家の前に持ち出した。テーブルを挟んで、木製のベンチもふたつ。
4人は余裕で座れる。詰めて座れば6人もいける。椅子をひとつ作るつもりが、いつの間にか、こうなっていた。
ちなみに一人がけの折りたたみ椅子もふたつ作ったから、テーブルの両端に置いたら、8人テーブルになる。
なんとなく、天気が許す限り、外にテーブルを出すようになった。北国の人は、日光が大好きだ。貴重な陽ざしのなかに許されるかぎり全身で浸っていたい。
エイナルだって、もちろんそうだ。今だって、ここで陽の光に感謝しながら自家製コーヒーを飲み、天候と海の様子を毎日の記録紙に書きつけている。
向かいのベンチには、犬のタネリが満足そうに寝そべっている。
エイナルが仕事をしている間、さんざん家の周囲を走り回って春を満喫していた彼は、草の切れっぱしを足にくっつけている。その犬の体をベッドにして、猫のトピがすっかりくつろいでいる。
みんな大好き日光浴。ただそれだけだ。決して誰かを待っているわけではない。決して——
「こんにちは」
コハルの声がして、エイナルは俊敏に振り向いた。待ってました、と言いたくなるような勢いで。
彼女はにこにこと笑顔を浮かべている。日常の挨拶は、もうすっかり滑らかだ。
「うん。こんにちは。今日もありがとう」
エイナルも丁寧に返して、コハルの笑顔につられてにこにこした。
あれから、コハルは領主館からバスケットを届けに来てくれる。やっぱり彼女は領主館の新人メイドだった。2日にいっぺんは来てくれる。それまでは、3日に一度の差し入れだったのに。
ヴィッレを捕まえて理由を聞いてみた。
「だって、灯台守が一人しかいないのがおかしいだろ。なるべく手伝いを派遣するのが領主家の仕事だぜ」
と、ニヤニヤしながら言う。
この2つ歳下の幼なじみは弁が立つ。領主のひとり息子で視野が広い。いま言われていることは正論だった。エイナルには反論できる言葉がない。
灯台は、何があってもその火を絶やせない。船乗りの命を守るためのともしびだ。
昨年の秋ごろ、両親が相次いで亡くなって、専任の灯台守はいまやエイナルひとりだった。週に2日は手伝いの男が来てくれている。
でも、エイナルが倒れた時に、その場で代わりになって仕切れる人がいないのは、本当はよくない。
どうにかしなくてはいけないなぁ、と思う。
思いながら、先延ばしにしている。
今は、ひとりの生活が気楽だった。
「タネリ」
コハルが座るはずのベンチに寝そべったままの犬に声をかける。ちらり、と横目でこちらを見て、尻尾をパタパタ軽く振った。そして、まったく動かない。
「このベンチ、自分とトピのものですけど、何か?」と言われている感じがすごい。
エイナルは、おずおずと、自分の隣を指さした。
「コハル、ここに座る?」
「はい!そのまえに、みず!」
コハルは物覚えが早い。ここにくるようになってからすぐに、お茶のために台所から水を汲んでくることを覚えた。
かまどの使い方やお茶の葉が置いてある場所はもちろんのこと、今ならひとりでお茶を入れることだってできる。
逆に何もやることがないと、とたんに不安そうな顔になる。
「今日は、水汲みは大丈夫。ここに座って。あとでコップを一緒に洗ってくれるとうれしい」
「はい!あらう!こっぷ!」
ためらいなく元気に答えて、バスケットを机の上に置いてから、コハルが座る。
彼女がエイナルの隣に腰掛けるのを、タネリが首をもたげてじっと見た。それから、よかったねとでも言いたげにエイナルを見てから、また向かいのベンチでくつろぎはじめる。
エイナルは、ミルクで煮出した紅茶を保温ポットからカップに注ぐ。ハチミツを入れて、コハルに渡した。
「さっき作ったばかりで熱いから気をつけてね」
「あつい。きをつける」
エイナルから毎回言われる言葉を、コハルは嬉しそうに丁寧に繰り返す。ふーふーしてから、そっと飲む。
「あまい」
「そうだねぇ。ハチミツいっぱい入れたから」
「はちみつ!」
コハルは甘い飲み物が好きだ。飲むととても幸せそうな顔になる。
それに気づいてから、エイナルは必ず甘い飲み物の準備をしておくようになった。
ちびちび飲むコハルを、しばらく見守る。陽ざしも、コハルの美味しそうな顔も、あたたかい。
「晴れたねぇ」
「はれ?」
「晴れた」
言いながら、空を指さす。雲ひとつない快晴だ。
コハルは急いで、横がけカバンのなかから布の包みを取り出した。そこに厳重にくるまれていたのは、石板と石筆。
エイナルが子どもの頃に使っていたものだ。
王都の金持ち学校では、紙のノートと鉛筆を使う。けれど、このあたりの学校の子どもたちは、いまだに石板を使っている。先生が黒板に書いたことを、石板に写して覚えるのだ。
石板は、長方形の板状に切り出された黒石に、割れないように木枠をつけたものだ。
そして、石筆は、蝋がまじっている柔らかい石をペン状に削り出したもの。
石板に、石筆を使って、白い文字をするする書ける。布で消して、何度も書ける。
コハルが目をキラキラさせながら、石板を差し出している。
エイナルは受け取って、ちょっと考えてから、雲とそこから落ちる雨のしずくの絵を描いた。
それから、太陽と、しずくを葉に載せたクローバーの絵を描く。
その下に、文字を書き込んで、コハルに渡した。
「よる、あめ。あさ、はれ」
黒い瞳が熱心に絵と文字を見つめてから、一言ひとこと大事に読み上げる。
この一か月、エイナルに石板をもらってから、コハルはずっとこの国のアルファベット文字を練習してきた。だから、書き込んだ文字をどんな音で読むのかが分かる。
そこに絵がついていると、音に意味を結びつけやすい。
エイナルは、多少は絵心がある。石板に絵を描くのはむしろ得意だ。そんなふうに育ててくれた両親に、いまさら内心感謝した。
子どものころは、石板に文字より絵を描いている時間が長かった。そんな息子を叱りもせず、両親は仕事で不要になった紙をよく渡してくれていた。
エイナルはそこに鉛筆でたくさん絵を描いた。今でも箱いっぱい残っている。
コハルは、石板をくるりとひっくり返した。何も書いていない面に、今知ったばかりの言葉を何度も夢中で書いている。慎重に。きれいな文字だ。
「お、今日はオートミールとレーズンのクッキーが入ってるな。サクサク歯ごたえがいいんだよね。……って、そうだ、オートミール……!」
バスケットに何が入っているかを確かめたエイナルは、思い出して頭を思いきりかいた。
昨日、納戸の棚の奥から、瓶いっぱいに入ったオートミールを発掘してしまったのだ。
いつのものだかわからない。5年ものの果実酒の瓶の間にまぎれていたから、5年は経っている気がする。
試しにかじってみたら、問題なく食べられそうではあった。
でも、今、食べる分のオートミールは十分に蓄えてある。
5年寝かせた古いオートミールをあえて進んで食べたい機会は、正直なさそうだ。
捨てるのはもったいない。どうしたものか。
「そうか」
ぽん、と両手を打ち鳴らして思いつく。
「オートミール、喜んで食べてくれそうなやつがいるな」
いきなり響いた大きな音に、コハルは目をぱちぱちさせてエイナルを見上げている。
「コハル、今日のランチは、ちょっと遠出して食べようか。会わせたいやつらがいる」
エイナルは、勢いよく立ち上がった。善は急げ、だ。