(10-4)
玄関の前で、タネリがうなり声をあげている。さすがにドアには鍵がかかっている。ガリガリと前脚が、苛立ちながらドア板を引っかく。
コハルは、まず、玄関から廊下に続くドアを細く開けて、様子をうかがった。
廊下の窓ガラスは割れていなかった。
ただ、その外側が、妙に明るい。
オーロラの光ではない。もっとオレンジ色の、生々しい炎のような——
家の外側が燃えている?!
コハルは玄関に置いてあった非常用のハンドベルをとっさに引っつかむ。渾身の力で思いっきり鳴らした。
ガランガランと大きな音を立てる。これでエイナルもレンも気づいてくれるはず!
ポールに引っ掛けてある自分の上着と、その上に重ねる外套を手早く身につける。ブーツに履き替える。いつもより少し着ているものが少ないけれど、ちょっとの間くらいは耐えられるはずだ。
とにかく外の様子をまずは確かめないと!
玄関ドアを開けて極寒の夜に飛び出す。とたんにタネリが弾丸のように駆け出していく。
ガン!ガン!
向こうの窓ガラスを打ちつける音がする。
「なんっで割れないんだよ!」
ヒステリックな叫び声の直後に、
「ギャァアア!」
つんざくような男の悲鳴が響いた。犬に思い切り噛みつかれた腕から、ぼとりとハンマーのようなものが落ちる。
すかさずタネリは飛び降りると、男の後ろに回り込む。ブーツとコートの間、ズボンでしか守られていない無防備な膝裏にさらに勢いよく噛みついた。
「うがぁっ!」
男は尻もちをつく。雪にまみれながら必死に立ち上がろうともがく。
さらに男を押し倒そうと、タネリが身を低くして飛びかかろうとしたその時、
「う、動くな!」
男がタネリに向けて、ナイフを突き出した。大きくグルルと唸りながら、タネリがぴたりと動きを止める。
男とタネリを、オレンジ色の光が不気味に照らし出す。
家の外側で、炎が激しく踊っていた。オレンジ色に少し黒色が混じる。変な臭いが立ち込める。
油を撒いて火をつけたのだ。この、サムエルという卑劣な男は。
ただ、灯台の家の外壁は——
まったくひとつも焦げてもいなかった。
直感する。レンの魔法陣だ。あの子の力が、家を守ってくれている。
だから、今はただ、炎が燃えているだけだ。油が切れたら、それで終わる。
コハルは、お腹に力を入れる。ぎゅっと拳を握りしめた。
にらみあう男とハスキー犬に、静かに歩み寄る。
「ああ、エイナルの嫁か」
横目でこちらを見たサムエルが、ニタァと下卑た笑いで顔を歪めた。
「あんたが死んだら、あいつはさぞかし傷付くだろうな。いい気味だ」
言い終わるやいなや、いきなりナイフがサムエルの手から離れた。こちらに投げつけたのだ。
コハルが何かをする暇もない。同時に青白い光が視界で弾ける。
とたんに、ぽとん、と、ナイフが落下した。見えない膜に弾かれたように。こちらにまったく届ききらない雪の上に。
コハルは無事だ。それどころか、指の先まで急にじんわりあたたかい。
とっさに、レンがくれたお守りのペンダントを外套のうえから押さえた。
たぶん、これが守ってくれた。
コハルは、胸が痛くなる。鼻の奥がツンとする。
なんてすてきな力だろう。きっと守護の膜みたいなものが張り巡らされている。あたたかくて、とてもやさしい。深い想いに、全身包まれているのを感じる。
——力なんて、こうやって使えば良いんだよ。
ペンダントが言ってくれているみたいだ。
——ね? 全然怖くなんて、ないだろ?
誰の声だろう。
レンか、ハーフォードさんか。心が伝わってくる。力が抜ける。胸の中に、風が吹く。心地よい、やさしい風が。
こうやって、守りたい。
素直な思いが、湧いて出た。
コハルだって、守りたい。
この灯台を、この家を、私の大事な人たちを。
そのためだったら、何も、怖くない。
足に噛み付くタネリを引きずりながら、なんとか逃げようとしているサムエルを、コハルは見据えた。
絶対に、逃してなるものか。
もう二度と、ここに近づけないために。
コハルにも、出来ることがある。
「止まれ」
静かに告げた。
かすれた、でも確かな声がでた。久しぶりの、自分の声だ。でも、別人みたいに、凛として聞こえる。
ぴたり、とサムエルの体が止まった。コハルの言葉どおり。
男の口から汚い罵りの言葉が吐き散らされる。でも、体は見えない何かに拘束されたまま、動けない。
心が高揚する。自分の体から、何かの力が抜けていく感覚がある。でも、かまわない。コハルは立つ。
「タネリ、もう大丈夫だよ。ありがとう。あとで美味しいものをあげるね」
コハルの声を聞いたとたん、タネリが飛び上がった。サムエルなんかどうでもよくなったみたいに一目散に飛んでくるなり、コハルに勢いよく飛びかかって押し倒し、その顔をベロベロ舐めた。
「きゃぁぁ、タネリやめてやめて!顔が凍っちゃう」
笑って叫びながら、たぶんそうならないだろうと思う。ペンダントに守られている感覚があった。
だから身を起こして、タネリをぎゅうと抱きしめた。座り込んだまま犬の体を思い切り撫でまわす。
「心配かけてごめんね!タネリかっこよかった!」
「コハルもすっごくかっこよかった。でも、俺、心臓止まるかと思った」
エイナルの切羽詰まった声が聞こえたと思ったら、がばっとタネリごと抱き込まれる。
「ああ、ほんと心臓に悪い!死んじゃうかと思った!コハルに何かあったら、俺、絶対死ぬ!お願いだから無茶しないで!」
「ごめん。どこから見てたの?」
「ナイフを投げつけられたとこから」
「それはスリリングだねぇ!」
「スリリングじゃねぇ、じゃないよぉ。本当に怖かったよぉ」
半泣きのエイナルの顔を、タネリがベロベロ舐める。コハルも頭をよしよしと撫でる。
「コハル、あとでお説教ね!」
「えぇー?やだー」
「可愛く言ってもダメ!」
ああー!キスしたいけど、今したらタネリと間接キスになるからなんかくやしいーまたあとでー、と、ぼそぼそぼやきながら、エイナルはようやく立ち上がった。
大きく呼びかける。
「レン、消火してくれてありがとう!」
「こんなの簡単」
肩をすくめてレンが答えている。
さっきまで燃え盛っていたはずの炎は、跡形もなく消えていた。




