(10-3)
「なんだお前、眠いのか」
レンが振り返って、自分のフードの中に話しかけている。
「みゅう」
返事をしながら、子猫のまぶたはほとんど閉じかけている。その黒いひたいをちょんちょんとつついて、レンはふんわりと笑った。
「寝るか」
「みう」
コハルは編み物の手をとめて、レンを見守った。
なんだかこの頃、レンが少し変わった気がする。マッティを怖がらなくなった。
それだけじゃない。すべての態度が、少しずつ、楽しそうで柔らかい。
立ち上がったレンを見て驚く。
こんなに大きな子だったろうか。背丈はとっくにコハルを追い抜いているし、声だって低く落ち着いてきている。
『寝る?』
「うん」
『歯、磨いてね』
「わかってるよ」
『おやすみ』
「おやすみ」
コハルは唇だけ動かして話しかけ、歯を磨くジェスチャーをしてみせる。レンはやっぱり少し楽しそうに柔らかく答えて、マッティごと自分の部屋に引っ込んでいった。
大好きなレンのベッドで一緒に眠れるようになった黒猫は、毎日ますますべったりだ。もはやレンの体の一部なんじゃないかと思うくらい、しょっちゅうくっついている。
『マッティ、女子力高い。うらやましい!』
ひとりと1匹を見送って、コハルはソファーの隣でくつろぐトピのオレンジ色の背中を撫でた。
エイナルは、22時のロープ巻きで灯台の上にあがっている。
彼は戻ってくると、さっとお風呂に入ってから、寝る前にお茶を飲む。
マグカップ一杯の時間をふたりで過ごすのが、コハルは一日のうちで一番好きだった。
お茶はもう、保温ポットに用意してある。今日はカモミールティーだ。
それを眺めながら、コハルは自分の喉を両手で包んだ。
今日こそ、話せるかな。
このところ、毎日、おやすみの一杯の時間に、おしゃべりしたくて頑張っている。
エイナルの前だったら、くつろげるこの時間だったら、安心して声を出せる気がする。
なのに、風が通り抜けるみたいに鳴るだけだ。言葉が、なぜか出てこない。
理由は、たぶん、わかっている。でも、エイナルには、どうしても伝えられていない。
《怖いの》
レンだけが居間にいる時に、コハルは石板に書いた。
文字を書くと、そこに自分の思いが吹き込まれてぎゅっと形になるような、不思議な感覚がある。
書いた分だけ、体の内側にこもった怖さが少しだけ外に抜け出す感じ。
ちょっとだけでも、心が楽になるみたいだ。
「怖い?何が?」
食卓の向かいに座っていたレンは、石板の文字を読んで、身を乗り出すように真剣な顔で聞き返してくれた。
その眉間に寄ったしわが心配そうに見えて、それだけでもコハルの心を落ち着かせてくれる。
《前に、風を止めちゃった時みたいな、魔法の言葉を使っちゃうんじゃないか、って》
エイナルがコハルを抱きしめてくれた初雪の日から、故郷の夜の海の夢は、ぴたりと見なくなった。
かわりに、あの嵐の日を夢に見る。
『風、止まれっっ!!!』
そう叫んだ瞬間を、何度も夢で見てしまう。
体から何かの力が芽吹いて外に躍り出すような、あのときの一瞬の感覚が、何度も何度もよみがえる。
《まるで、力の使い方を、体が思い出したがっているみたい》
「そういうのは、あるかもしれない」
レンは、眉根を寄せたまま、頬杖をついた。
「動物って、自然と歩けるようになるでしょ」
空いている方の手の人差し指と中指を、テーブルの上でトコトコと足みたいに交互に走らせてみせる。
「魔術師も同じ。一度力の使い方を体が理解し始めると、自然と使えるようになっていっちゃう」
ふわふわと2本の指を空中まで駆け上らせると、レンは軽く手首をひねった。
そのとたんに、指先から小さな星屑みたいな光が飛び出して、ほうき星みたいに尾を引いてから宙に溶けた。
きれいだった。きれいすぎて、恐ろしいくらいに。
《それが、怖い》
ムツキは、コハルの力を欲しがった。故郷の役に立つ力だって、そんなようなことを言っていた。
ムツキだけだと、思えない。
また、コハルの力を欲しがって、遠くに連れていこうとする人が出てくるかもしれない。
そんなのは、嫌だ。エイナルのそばにいたい。
エイナルと一緒にいられないなら、こんな力、ほしくない。言葉なんて、話せなくていい。
結局、そこに戻ってくる。そのまま言葉が喉で凍りつく。
「力を封印することも、できるよ」
レンは、気乗りしない様子で教えてくれる。
「だけど、定期的に封印の術をかけ直さなきゃいけない。今の僕じゃ力不足だ。封印が出来る特級魔術師のいるカンティフラス王国に行って、あっちに住まないといけなくなる。でも……」
膝の上でちんまり丸まって寝ているマッティの頭をやさしく撫でながら、レンは少し言葉を探した。
「でも、コハルは、ここにいたいんでしょ?」
いたわるような、寄り添うような、そんな音色だった。
コハルは、そのときの言葉の温度を、何度も思い出す。
思い出しては、考える。
ここにいたい。
ここにいるために、コハルはどうすればいいのだろう。
あふれてくるかもしれない、魔法みたいな力を、どうしたらいいのだろう。
考えても、答えは出ない。不安ばかりがゆらゆらと、胸をよぎって消えていく。よくない。いつまでも明けない極夜の暗さが、よけいに心を暗くする。
ひとつ、息を吐く。
壁に貼られたエイナルの絵を見る。微笑みながら、夢中で鉛筆を動かすエイナルの姿が頭によぎる。心が少し浮き上がる。
お仕事が終わってエイナルが降りてきたら、思い切り抱きついてしまおう。
ぎゅってしてもらえたら、それだけで体が軽くなる。
「どうしたの?」って、きっと言ってくれる。それだけで、他のことなんて、どうでもよくなってしまう。
ずっとレンにくっついて離れないマッティみたいに、ずっとエイナルにくっついていられたらいいのに。
軽くため息をついたら、トピがのそりと起きあがって、膝の上に乗ってきた。ずしりと重いオレンジ色の膝掛けみたいだ。
「ふなーん」
一声鳴いて、コハルのお腹に顔を埋める。
『なぐさめてくれてるの?ありがとう』
唇の形だけで言って、長くてふわふわの猫の毛並みをなでる。お礼にお尻のほうをぽんぽん軽くマッサージするみたいに叩く。トピはこれがとても好きだ。しっぽが心地良さそうに揺れている。
ふと、顔を上げる。
窓の方が、不思議とさっきより明るく感じる。向こうには崖と海しかないはずなのに。
よいしょとトピのずっしり重たい体を抱き上げて、コハルは窓辺に歩み寄った。そして、息をのんだ。
空が、ゆらゆら揺れている。
ゆらゆらゆらゆら。暗い夜空にいっぱいに。長い長い絹みたいな光の帯が、幾重にも。白くて緑、そして上の方は赤く燃えるように。
満月みたいな明るさだ。
オーロラだった。
うすぼんやりとした緑の雲みたいなオーロラは、冬になってからよく見るようになった。
けれど、こんなにも冷たく美しく、燃え上がるような光は初めてだ。
まるで、人間の世界じゃないみたいだった。
冬の女神の息吹みたい。壮大な、人の力を超えた大きな力が、頭上ではるかにゆらめいている。
夜の暗さが消え失せる。
光が踊る。
夜が光る。
その圧倒的な美しさに、めまいがする。
ガラス越しじゃなくて、この目でみたい!
あの美しい光を浴びてみたい!
エイナルはもうすぐ降りてくる。レンも起こして、防寒着の用意をして——
そのとき、がちゃん、と大きな音がした。コハルはびくりと飛び上がる。
廊下からだ。まるでガラスが割れたような音だった。
トピが体をよじって、コハルの腕から床に飛び降りる。全身毛を逆立てて、体を弓なりに警戒したまま動かない。
床に寝ていたタネリが低くうなりながら飛び起きる。大きく何度も吠えながら、居間のドアに向かって走る。
ドアノブに飛びつくなり勝手に開けて、廊下に飛び出していく。
コハルは慌ててその後を追って走った。




