(8-3)
レンが慌てて買ってきたヤギのミルクは、子猫たちのお気に召したらしい。
すりつぶした肉や魚に混ぜてやると、必死になって食べた。毎日しっかり食べて、しっかり寝て、日増しに体つきがしっかりしてくる。
それから2週間もすると、ふたつの毛玉が、はずみながら居間のあちこちを動き回るようになった。
白黒のほうの毛玉は、最初にエイナルが世話したオスの子猫だ。
耳と顔の上のほうは黒くて、額のあたりから白い三角形になっている。胸からお腹のあたりまでも長いエプロンをしたように白くて、足先も白い。ほかは真っ黒だ。そして、やたらと元気がいい。
ぴょんぴょん跳ね回っては、みゃんみゃか鳴く。
タネリの体が大好きで、足にタックルするのが趣味だ。そして犬の鼻先でころりと転がされて、短い手足をばたつかせながらみゃんみゃか喜ぶ。
黒いほうの毛玉は、レンが泣きそうになりながら世話した子猫だ。こちらはメスで、足先だけが白い。
あまり鳴かないし、あまり跳ねない。大人しい。ただし、ひとつだけ例外があって、
「みぃ」
「ひぃ」
一直線に足を登ってきた黒い子猫が、レンの腰にぶら下がった。
顔を見上げて、また「みぃ」と主張する。
硬直したレンが、「ひぃ」と答える。
コハルがくすくす笑いながら、子猫の体をレンから剥がして、その肩にひょっこりのせた。
「ちょっ」
後ろにずり落ちそうになった子猫の体をとっさに自分の手のひらで支えて、レンはそのまま固まった。
「うみぃ」
満足そうに小さく鳴いて、子猫は手のひらの中にちゃっかりおさまっている。
「ど、どうすんの、これ?!ちょっと!コハル!?」
コハルはそのまま軽やかな足取りで、カウチに座るエイナルの隣に戻ってきてしまう。
「その子、すっかりレンにべったりだねぇ」
笑いながら言うエイナルの袖を引っ張って、コハルはエイナルの手のひらに指先で文字を書いた。
《レン、かっこいいから黒猫ちゃんに気に入られちゃったね》
エイナルはコハルの手を取って、自分も指で返事を書く。
《そうだねぇ、モテモテだねぇ》
近頃、手のひらに指文字で会話するのがふたりのブームだ。
書いている間ぴったりくっついていられるし、コハルの手を大っぴらにいじれる。なかなかに最高な方法だとエイナルは毎日感動している。
ふたりで顔を見合わせてニヤニヤ笑い合っていたら、
「ちょっと!勝手にふたりの世界に入らないで!これどうすればいいの!」
レンが目を三角にしてぷんぷん喚いた。
エイナルは、手のひらを持ち上げるジェスチャーをしてみせる。
「子猫、そのままゆっくり上に持ち上げてごらん。服に引っかかってる爪が外れるから」
言われたとおりに、そろそろとレンの手が持ち上がる。
そうして、なんとか子猫を肩の上からすくいあげることはできたものの、手のひらの黒い毛玉を頭上に掲げたまま、レンはぷるぷると震えている。
「降ろさないの?」
「お、降ろす途中で、落として壊しそう」
大股でふんばって、全身がっちがちに力を入れて、片腕だけ頭上に突き出して、その手の上には子猫。
なかなか絵心をそそられるな。と思ったエイナルは、欲望のまま、スケッチブックに鉛筆を走らせた。
「ちょっ、何描いてるの?!」
「いやぁ、ハーフォードさんにスケッチ送ってあげたら喜ぶかなぁと思って。こないだもまたお菓子もらっちゃったし」
「やめて!絶対見せないで!」
顔を真っ赤にしながら、レンが悲鳴をあげた。
「ってか、いてて、お前も僕の指を噛むんじゃない!」
あむあむと子猫がレンの指に齧り付いている。
「もう無理!無理ったら無理!!」
絶望的な声をあげたかと思うと、ぶわり、とレンの白銀色の髪が逆立った。風もない室内で、まるでそこだけ風が吹いたように。
同時に、ふわりと子猫の体がレンから離れる。
ゆっくりとシャボン玉でも降りていくかのように、軽々と浮いて、静かに床に着地した。
「みっ?」
びっくりした子猫は床でしばらく硬直し、
「みぁぁぁぁあ!」
大きな声をあげて、またしてもレンの足をよじ登りはじめる。
「なんだよぉぉぉ」
レンはやけっぱちの声をあげて、両手で顔を覆った。
「レン?あのさ?……今のって、もしかしなくても魔法だよね?レンも魔法使いなの?」
「気のせいじゃない?」
手のひらに隠れた口から、もぞもぞと声が返ってくる。
「気のせいじゃないよね」
「じゃあ、こいつが魔法猫なんだ絶対」
ちらり、と、指の間からこちらをうかがったレンが、やけっぱちみたいに言い切った。
エイナルは、スケッチブックを閉じながら、繰り返す。
「まほうねこ」
「そう」
「そうなの?」
「そう」
「そっかぁ。じゃ、こっちおいで、魔法猫」
エイナルは、両手を差し伸べてみる。
レンの腰にまたしてもぶら下がってみぃみぃ自己主張していた黒猫が、またしてもふわりと浮き上がる。
そのまま、ふわふわ空中をひとりでに漂う。
二度目のことに、子猫はふぎゃふぎゃ文句の声をあげた。
手足をばたつかせて、レンのところに戻りたそうだ。どうみても、本人の意志で飛んでいるようには見えない。
そのまま、エイナルの手に着地したとたん、びょんと膝に飛び降り、転がるように床に降り、またレンに向かってまっしぐらに走り出して——
「うわぁぁぉぁ、付いてくるなよー!」
逃げるレンの情けない声が居間中に響きわたった。
「レンってさぁ」
その日の14時のロープ巻きの時間。
窓を磨いていたエイナルに問いかけられて、レンの肩が、びくりと震えた。
それでもハンドルを動かすのは止めない。この時間のロープを巻くのは、すっかりレンの担当だ。
「動物、これまで飼ったことないんだ?」
「……ない」
「でも、タネリとトピには慣れてきたでしょ。子猫にもそろそろ慣れてあげたらいいのに」
「無理だよ!子猫なんて、近くで見たことすらなかったのに!」
「そうなの?じゃあ、余計にいいチャンスだ。怖がらずに、懐に入れてみたらいいよ」
「怖くなんて……」
ぐっと一瞬息を止めて、レンは小さく言った。
「怖くなんて、ないわけがない」
冷たい窓ガラスを磨く手を止めて、エイナルはレンを振り返る。
「レンは、壊れそう壊れそう、ってしょっちゅう言ってるけどさ。大丈夫だよ。あんなに優しい手つきで触っていて、傷つけるはずがない」
「……」
「それが伝わってるから、あの黒い子だって、レンに懐いてるんだろ。レン、ちなみにきょうだいはいるの?」
「……いるわけないでしょ」
「じゃあ、妹ができたと思ってさ。かわいがってみたら?あの猫。レンならできるよ」
「……無理だよ。そんなの。友だちだって、いないのに、いきなり妹とか」
「俺とコハルは友だちじゃないの?」
「……友だちっていうよりふたりは……」
唇だけを何かの形に小さく動かしてから、レンは沈黙した。
エイナルはゆっくり手袋を外しながら、俯いたままロープを巻き続ける彼に歩み寄る。
両手をのばすと、その頭を大きくぐちゃぐちゃに撫でた。
「そうだね、俺もそう思ってる」
「なっ、何が?!」
「なんでもない」
真っ赤になってレンがふくれたので、笑いながらエイナルは数歩下がって両手をあげてみせる。
——ふたりは「かぞく」。
さっきレンの唇が、声なく確かに動いたことには、今さら気づかなかったふりをして。
そこからしばらく、ふたりは黙々仕事を続けた。
やがてレンがぴたりと手を止めた。ロープを巻き終わったのだ。ふいに、硬い声で、言った。
「エイナルは、あれ以上、確かめないんだね」
「なにが?」
「僕が魔法使いか、どうか」
「うーん、そうだね。だって、レンが不思議な力を使っても使わなくても、どっちでもいいからなぁ」
エイナルは、正直に告白した。いつものように、脚立を片付ける。
レンは、何かにおびえる子どものように、肩をすぼめて立っている。
どうして、この子が、自分の力をそこまで嫌っているのかわからない。
エイナルは、昔、魔法使いの出てくる物語が好きだった。なんども、いろんな本を読んだ。人知を超えた術を繰り出す魔法使いには、いまだに無邪気な憧れがある。
でも、実際にそういう力を持っていたら、普通と違う人生だ。苦労だって多いのかもしれない。
それになんと言っても、レンが隠したがることを、無理に暴きたいとは思えない。
だから、エイナルは、身をすぼめるレンの肩をとんっと小突いて笑った。
「ほら、午後のお茶しに行こう。コハルが待ってる。それに、」
率先して、螺旋階段を降り始める。後ろを振り返らずに、言った。
「魔法を使えても使えなくても、レンは大事な灯台の仲間で、俺の大事な弟だよ」
「……」
なんの返事も返って来なかった。
ただ、しばらくして、小さく鼻をすする音だけがした。




