(8-2)
「うわぁぁぁあ、何それ!」
その朝、玄関から情けないレンの悲鳴が聞こえた。
初めて聞くレンのそんな大声に、エイナルは居間で書いていた記録紙を放り出した。
玄関へ飛んでいく。そして、思わず口に出す。
「おっっと、まさか?」
ドアを開けたまま硬直するレンと、口から何かをぶらさげたタネリとトピがいる。
タネリは外で遊び終わると、家に入れてほしいと大声で鳴く。さっきもその声が聞こえたから、レンがいつも通りドアを開けにいったのだ。
でも、あからさまに、いつもとは様子が違う。
泥まみれの2匹の口から、でろんとさがったそれが動く。
「なんだ、今年も連れてきちゃったのか?」
大きく尻尾を振って得意そうなタネリから、エイナルは受け取る。あたたかくて震えながらみぃみぃ元気に喚き始める。
子猫だ。白黒だ。あちこち泥がくっついて、目ヤニでほぼ目がつぶれている。
「ほら、レンも受け取ってあげて」
トピがレンの足元で、じいっと見上げている。レンは緊張の極まった顔で、手のひらをそっと差し出した。
ぼとり、と子猫が着地する。真っ黒だ。泥をかぶった毛皮がぺったりとくっついて、体の線が見えている。レンの両手にちょうど乗り切る大きさだ。
「ひぃ」
小さく声をあげて、レンはすっかり固まった。
何事かとコハルも台所からやってくる。音に出さずに『こねこちゃん!』とその口が叫んだ。
「コハル!ごめん、風呂場でお湯を用意してくれるかなー?ひとまず洗面器ふたつ分。あと、タオルたくさん」
コハルはうなずき、踵を返して駆け出した。
子猫を手のひらに乗せたまま、カチンコチンで歩き方すら忘れてしまったみたいなレンが、すがるようにエイナルを見る。
エイナルは、吹き出したいのをぐっとこらえた。情けないその顔が無防備でかわいらしい。からかいたい気持ちもあるけれど、でもここはレンに頑張ってもらわないといけない。
「俺、この子猫の担当。レンは、トピから託されたんだから、その黒猫の担当。よろしく!」
「ひぃ」
小さくうめいて、レンは絶望的な顔をした。
子猫たちを風呂場に連れていって、手早くお湯にくぐらせ泥を落とす。風呂の嫌いな猫は多い。暴れると余計に体力を落としてしまうからスピード勝負だ。それから乾いた布で、丁寧に拭く。
レンも必死でエイナルのやることを見ながら、なんとか手を動かしている。でも、見事なへっぴり腰だ。
その間に、コハルが子猫たちのごはんを作ってくれた。いつも用意している犬猫スープを具ごとすりつぶしたものだ。
拭かれて少しだけふわふわになった子猫たちは、顔をべしゃべしゃにしながらごはんを舐め尽くし、タオルを入れた木箱にちんまりおさまって、みぃみぃ体を寄せ合っている。
お湯を入れた瓶を布に包んで入れてやると、それにくっついて、糸が切れたように眠り始めた。
「ち、ちいさい……握りつぶしたらどうしようかと思った……」
ぼうぜんと、レンが子猫を見おろしながらつぶやいた。
「あはは。よく頑張った。ついでにあとひとつ、お願いできるかな。街の牛乳屋に行って、ヤギミルクをひと瓶買ってきて。明日からの配達に、毎日1本追加してくれるように頼んでほしい」
「わ、わかった……!」
子猫たちから離れられることに、レンはむしろホッとした表情を浮かべる。ちょうど小雪がやんで淡い青空が見え始めた外に飛び出していった。
トピが子猫のころ、牛の乳だとお腹を壊した。ヤギの乳だと喜んで飲んで、体調も崩さなかった。
「トピが体を張って去年教えてくれたから、今年の子猫たちは幸せだな」
思いきりほめてから、猫の大きな体を抱き上げた。タネリにも声をかける。
「さあ、お前たちもお風呂だ!みんな洗ってさっぱりするぞ」
思いっきり洗って、2匹の泥を落とす。お風呂が好きなタネリの真似をしているのか、トピは猫でも水を嫌がらない。
さっぱりした2匹が、火を入れたペチカの前でくつろぎ始める。
そこでようやくエイナルはひと息ついた。
コハルは、子猫の木箱の前に座り込んで、夢中になって眺めている。
「歯も生えてるし、生まれて1か月は経っていそうだなぁ」
『かわいい』
コハルの口が動く。唇の動きだけで何を言っているのか、たいていのことは分かるようになってしまった。
「コハルのこと、見すぎだからでしょ。ずうっと見てるじゃん」と、レンには呆れられた。否定はしない。
エイナルは、棚に置いていたスケッチブックを取り上げる。椅子を理想の場所に置き、そのまま鉛筆を走らせ始めた。
コハルが気づいて振り返る。
『ここ、邪魔?』
「いや、そのままで。スケッチさせて」
コハルは、ちょっと頬を赤くしてうなずいた。このところ毎日、エイナルは手があくとコハルを堂々と描いている。今日は子猫まで一緒に描けて最高だ。
「しかし今年も子猫を拾ってくるとは思わなかった。それも2匹!」
親猫とはぐれたか、人に捨てられたか……このままだと冬に生き残れないから、タネリとトピは見かねて拾ってきたのだろう。
『元気になってほしい』
「そうだね。しかし、これで4匹か……来年またそろって子猫を拾ってくるとか……まさかないよね……いや、あったらどうしよう」
半ば本気で頭を抱えると、コハルは声を出さずにケラケラ笑った。
とりあえず、スケッチブックをめくる。新しいページに、思いつくままに、絵をささっと走り描きしてみる。
タネリとトピと、成長した子猫が2匹。一列に並べる。それぞれの口に小さな子猫をくわえさせてみた。
いつの間にか近くに顔を寄せて、コハルが絵を楽しそうに覗き込んでいる。すぐ目の前にある頬が、ふっくらとやわらかそうだ。いい匂いもする。触れたい。
『来年、楽しみ!』
「いやいや待って待って。8匹はさすがに多くない?」
『なんとかなるよ!』
「なんとかなるかなぁ?」
まぁ、8匹くらいまでなら、なんとかなるか。コハルと一緒なら。
エイナルは笑いながら、とうとう我慢できなくなって、美味しそうな彼女の頬にキスをした。とたんに真っ赤に熟れた顔がかわいすぎた。
その頬を両手で包んで、反対側の頬にもキスをする。
「来年も、楽しみだね」
美しい黒い宝石のような瞳を覗き込むと、照れたコハルは目を泳がせる。
でも、エイナルの手の中で、その顔がしっかりと、はにかみながらうなずいた。
恥ずかしそうな笑い声が、ふふっと吐息で漏れる。
そんな小さなひと息ですら、エイナルの心を満たす。漏らさず、自分のものにしてしまいたい。
来年のことを無邪気に夢見て語ってくれるようになったコハルの愛しい唇に、そのままエイナルは唇を重ねた。




