(8-1)
エイナルに、石板を買ってもらった。
古いものを、結局返してくれなかったからだ。
木枠までぴしりと新しい石板を眺めて、コハルは嬉しくてしょうがない。
今も、声が出ないままだった。原因がわからない。医者に診てもらったけれど、体は健康そのものだった。
「いままで頑張りすぎてた反動じゃないの? 心と体が疲れてバランスがおかしくなってるんだよ」
レンはそう言いながら、ぎこちない手つきでハチミツたっぷりのミルクティーを作って出してくれた。
「いろいろありすぎたしなぁ……。雪も降り始めたし、ゆっくり冬が深まるのを楽しもうか」
エイナルはそう言いながら、腰を浮かせかけたコハルの肩を、そっと押さえた。お茶菓子を取ってこようと思ったのに。すとん、と今までくつろいでいたカウチに逆戻りしてしまう。
エイナルが運んできた大皿が、ローテーブルに載せられる。
山盛りのチーズに、スライスパンとハムも添えられている。
お茶請けというより、もはや食事だ。
「わーい、お腹すいてたんだよねー」
レンがさっそく手を伸ばしてパクつき始めた。
エイナルは、コハルの側にくっついて満足そうな猫を持ち上げる。
代わりに自分がぴったりコハルにくっついて、満足そうに座った。
ごつごつと硬いエイナルの膝の上に強制的に降ろされたトピは、「ふなーう」と不満げに体をよじり、飛び降りる。
エイナルのズボンには、長いオレンジの抜け毛だけが残された。
コハルは服用のホコリ取りブラシを取ってこようと、また腰を浮かせる。
すかさず伸びてきたエイナルの右腕で、肩を抱き込まれる。立ち上がれない。
さすがにふくれたコハルは、真新しい石板に文字を書いた。
《やることがない》
「いや、あるある。今はこれを食べて、しっかり休むのがコハルの仕事」
エイナルはひょいっとチーズをつまみ上げる。そのまま口元に押し付けられた。
ありがたくパクりと食べると、ほんのり塩気と牛の乳の甘みが口いっぱいに広がった。おいしい!
「おいしい、って顔に書いてあるなぁ」
笑いながら、エイナルもチーズを口に放り込む。
「うん、おいしいね」
《おいしい》
「幸せだねぇ」
コハルとエイナルは顔を見合わせて、ふふふと笑った。
レンが天井を仰いでぼやいた。
「君たちさぁ、すーぐに僕を置いてふたりだけの世界にいっちゃうよねぇ」
エイナルは、ぐっとコハルを引き寄せる。
「まあね!」
「得意げに言われましても」
レンはげんなりと喉を鳴らして咳払いした。
最近、レンはこんなふうに、喉の調子を試すような咳をする。コハルは心配になる。
《レンこそ大丈夫?声、かすれてない?》
石板を読んだエイナルが、ひょいっと肩をすくめた。
「声変わりの時期なんだろ。一応、医者に見せるか?」
「なにそのやる気のない態度!コハルの時は悲壮な顔して医者にすっ飛んで連れていったくせに」
「コハルはコハルだからしょうがない」
思いを通い合わせてから、エイナルはコハルへの気持ちをまったく隠さなくなった。堂々と、ダダ漏れだ。
レンは、あきれた顔で喉を撫でた。
「あーはいはい、そうですか。でもこれ、やっぱり声変わりの始まりってやつなの?」
「そうだと思うよ。俺は落ち着くまで半年くらいかかったなぁ」
「半年も続くの?!もう『僕かわいいから許してね!えへへっ』って言い逃げする戦法が使えなくなるってこと?やだなぁ。不便すぎる」
「お前はすでに十分デカくてかわいくないから安心していいよ」
「ひっどーい!」
仲良くぎゃあぎゃあと言い合うふたりを見て、コハルはにこにこと甘いミルクティーを飲んだ。
ここに残れて、本当によかった。
先月の末、新しい大きな船がやってきて、残っていた座礁船のメンバーは全員乗り込んだ。
最後の日、コハルは炊き出しで仲良くなったメンバーと一緒に、彼らの旅立ちに立ち会った。
船の料理人のうち、いちばん若い男は、すっかりこの街が気に入ってしまったらしい。そのまま残って店を開くことになった。
カレーの店だ。
なんと、座礁船を所有している商会と交渉して、スパイスとコメを手頃な値段で仕入れられることになったという。カンナが大興奮していた。きっと流行ると思う。
『今度来た時は、店に寄ってくれよ』
そう言いながら、彼は船乗りたちとがっちり抱擁を交わしている。
たった一日の嵐をきっかけに、変えられる人生があるんだな、とコハルは思う。流されて変わってしまう、のではなく。みずからの心で変えられる、生きる道。
あの料理人のお兄さんもそうだし、コハルもそうだ。
『結局、コハルを口説き落とせなかった!』
ムツキはあっけらかんと叫んで、周りの船乗り仲間たちを笑わせていた。
でも、誰も彼もが乗船準備で慌ただしい隙間に、こっそりささやかれる。
『俺、あと1年、船に乗ることにしたから』
コハルに向けられた黒い目は真剣だった。
『また、1年後に、この港に来るから。もしそれまでに気が変わったら、一緒に帰ろう』
コハルは、笑って首を横に振った。
ムツキに、あらかじめ書いておいた一枚の紙を渡した。
『良い航海を。海の神のご加護があなたにありますように。故郷でどうぞお幸せに』
初めてマルタ帝国語を書いた。領主の息子のヴィッレに教えてもらった。
ムツキは、一瞬くしゃりと顔を歪めてから、明るく笑って丁寧に紙を折りたたむ。胸元にしまって、とん、とそこを拳で叩いた。
『国の巫女に加護を祈ってもらえたから、俺の航海は安泰だ!じゃあな、コハル!また会おう』
振り返らず、まっすぐに仲間のもとに向かう背中はたくましい。
子どもの頃に国を飛び出して船乗りになったという人だ。最初は言葉も分からなかっただろう。
ムツキは、船乗りの中でも、かしこく状況を読んで立ち回って、決して敵を作らない。
いろんな思いと苦労を抱えた人だというのは、短い日々の中でもなんとなく伝わってくるものがあった。
いつの間にか、すこしだけ、ちょっとだけ、勝手に、同志みたいに感じている。
彼には、何があっても負けない心の強さと前を向く力がある。尊敬するし、コハルもそうなりたい。
コハルは出ていく船を、大きく手を振って見送った。
それからは、灯台でゆっくり暮らしている。
以前と変わったことといえば、仲良くなった奥さんや女の子たちと、よく集まるようになったことくらいだ。
誰かの家に集まって、裁縫や料理をおしえてもらったり、単にお茶を飲みながらおしゃべりしたり。
日常が戻ってきた。
初めてコハルが望んで手に入れた、日常だ。




