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すっかり煮出されたコーヒー汁に、スプーンをつっこんでかき混ぜる。かまどの火はほとんど消えている。あとは、豆がやかんの底に落ち着くのを少し待てばいい。
「コハル、うちの中にどうぞ。あんまり掃除していないけど」
とはいえ、客は時々やってくる。地元の人たちが半分、それから観光客。
昔、エイナルの祖父が、仕事の合間に書いていた日記。それがたまたま旅行に訪れていた作家の目に留まったらしい。
勧められるまま、よく分からずに出版されて、いつの間にか隠れた名作エッセイみたいな扱いになっていた。しかも、他の国の言葉にまで翻訳されている。
割といろいろ率直に書いた日記だったから、祖父も我に返って大変気恥ずかしい思いをしたらしい。
でも、そのおかげでこの岬の灯台は、今やちょっとした観光名所だ。
ぽつり、ぽつりと観光客がやってくる。
そのたびにエイナルは、仕事の合間を縫って、こうやって軽くお茶やコーヒーをふるまう。自分はやらないけれど、葉タバコも一応用意してある。
はるばる遠くから、わざわざこんな何でもない灯台と海を見にくるのだ。せめて一服くらいしてもらわないと申し訳ない。
居間の飾り棚に置かれた小物たちに、コハルの目が釘づけになった。無理もない。よくいえばカラフルな、悪くいえばてんでばらばらな見た目の小物の群れだ。
コハルが何かを言った。驚いているのはわかる。
「いろんな置き物とか、工芸品があって、面白いよね。いろんな国から灯台を見にくる人がいて。お土産にって置いていってくれるんだ」
エイナルはうなずきながら、食卓を手で示す。
「コハルはそっちに座って」
皿を取り出して、バスケットの中身を適当によそっていく。
「ああ、ハムパイが入ってる。おいしそうだ」
丸いタルト型にハムとパプリカをぎっしり敷いて、卵とミルクの液を流し込んで焼き上げてある。エイナルの好物だ。
「それから、玉ねぎとキャベツの酢漬け……と、シナモンロールか。いいね、コーヒーに合うんだこれ。クッキーも結構入ってるな」
ご馳走にうきうきしながら、台所の鍋から、野菜と豚肉をきざんで柔らかく煮込んだスープをカップによそう。味付けは何もしていないので、塩と胡椒を持ってきて、テーブルに並べる。まだ少しあたたかい。
犬と猫にも、少しおすそ分けしてやる。
「ほんとはお前たちの夕飯の分だからな。あとでもう一度同じやつが出てくるぞ」
言い聞かせてもどこ吹く風で、2匹はさっそく食べはじめる。
エイナルは自分のためには特に料理はしない。けれど、この同居の2匹の家族に、最低限のものは作る。彼らのおこぼれスープとパン、あとはりんごとチーズでもかじれば、いつも満腹だ。
コハルは、ソファにちょこんと身を縮めて座っている。
「食べ始めてくれていてよかったのに」
エイナルは、ふたつのマグカップに、コーヒーを静かに注いだ。
「はい、どうぞ」
ちょうど飲み頃の湯気をたてた黒い液体を、一口先に飲んでみせる。
「うん、結構いい味になった」
笑顔のエイナルを見て、コハルはおそるおそる、一口含んだ。
とたんに目をまんまるくして、手で口を押さえる。「むう」と小さなかわいい声が漏れる。
「苦かった?」
水の入ったコップを差し出すと、慌てて受け取って、ごくごく飲んでいる。
「これを入れてみようか。バタークリーム」
バターを甘くクリームに仕立てたものが、バスケットの中に瓶で入っていた。これもエイナルの好物だ。普通のミルクやバターより日持ちがするし、これをつけると硬いパンでも特別なごちそうになる。
ひと匙すくって、自分の手の甲にポンと置く。あむっとそのまま食べてみせる。
「うん、甘い」
もうひと匙すくったスプーンを、コハルに渡す。
慎重に匂いをかいでから、ぱくっとクリームを口に入れた彼女の顔が、わかりやすくゆるんだ。お口にあったらしい。
コハルのコーヒーに、たっぷり入れる。かき混ぜる。みるみる黒い液体が、明るいベージュがかった色に変わっていく。
同じように、自分のコーヒーにも入れて、飲んだ。とても甘い。
「これはもはやデザートだな」
しげしげとバターミルクコーヒーを眺めて、それでもコハルは、クリームの美味しさに賭けたらしい。えいやっと勢いをつけて飲んだ。案外、いさぎよい性格なのかもしれない。
その顔が、ふわりと溶けた。もう一口飲む。さらに、ふわりと溶ける。
「美味しかった?よかった」
エイナルはほっとして、フォークとナイフを取り上げた。ハムパイを口に運ぼうとして、止まった。
コハルが、胸の前で両手を合わせている。そして言った。
「イタダキマス」
「いた……何?」
エイナルは、思わず尋ねた。なんのポーズだろう。
コハルは、ふんわりと笑った。
「イタダキマス」
その顔が、とてもきれいに見えて、なんとなく、真似してみたくなった。
ナイフとフォークを置く。
両手を前に合わせる。
「イタ…キ、モス?」
うんうん、と嬉しそうにコハルは大きくうなずいてくれた。
エイナルもなんだかとびきり嬉しくなって、うんうん、とうなずいた。
コハルはどこからきたのだろう。いつか、仲良くなれたら教えてくれるだろうか。