(7-5)
シャカシャカカ。シャカシャカカ。
エイナルは、家の外でコーヒー豆を煎り始める。
沿岸警備隊に顔を出したら、すぐに帰れと言われてしまった。死人みたいな顔をしている、らしい。
確かにもう、ほぼもう死んでいる気分だ。体の感覚が遠い。
あきらかに、今朝のコハルとの会話が原因だった。
「帰るコハルを、ちゃんと見送らなきゃ行けない」
口に出した瞬間、心が深く抉られて、悲鳴を上げたままだ。
エイナルは、王都でお付き合いの真似ごとみたいなことを、幾度かしたことがある。
エイナルの淡々とのんびりした様子に、すぐに女の子の方が飽きて苛立って、あっという間に去っていった。
「君の幸せを祈るよ」
何回言ったことか。何度見送ったことか。
今回も、同じように幸せを祈れる……はずがなかった!祈ろうとした瞬間に、もう死にそうだ。
コハルに行ってほしくない。
でも、ハクチョウを眺めるコハルの遠い目も思い出す。
とたんに、エイナルの心が凍る。
あのムツキという男がコハルを特別な目で見ていることには、最初から気づいていた。
サムエルから殴られたときの野次馬の中に、ムツキがいるのにも気づいていた。
ムツキは、殴られるエイナルには目もくれず、コハルだけを見ていた。うっとりと、熱に浮かされた目で。
だから、思いっきり牽制した、つもりだった。
ちっとも効いていなくてびっくりだ。
サムエル並みに、へなちょこパンチをかました気分だ。最悪だ。
あの男がコハルのそばにいるかと思うと落ち着かなくて、コハルを独占したくて、どんどん触れることを止められなくなった。
コハルも、恥ずかしそうにしながら、嫌がらなかった。気持ちが伝わっているような気がしていた。
でも、コハルの故郷とエイナルと、どちらが大事かなんて格好悪いこと、聞けるわけがない。あんな目で想っていた故郷は大事に決まってる。
泣きそうな気分で、エイナルは豆の入った鍋を振る。
シャカシャカカ。シャカシャカカ。
無心になりたくて振る。無心になれないことも分かっている。
そうこうしているうちに、煎り上がってしまった。
ざらざらと瓶に流し込んで、次の豆を煎り始める。
雪が積もると、外で煮炊きが出来なくなる。
今のうちに、冬に飲むコーヒーをたんまり煎っておかないといけない。煎ってから時間が経つと味が落ちるけれど、しかたない。
コハルとエイナルのふたり分だから、たくさん用意しないと。レンも、コーヒーをそのうち飲めるようになるかもしれないし。
自然とそう考えて、また心が凍る。
ひとり分だけで、よくなってしまうかも、しれないのだった。
考えるな。考えるな。
ひたすら念じる。コーヒー豆を入れた鍋をゆすり続ける。
ふと、顔をあげて、いまはすっかり枯野になった草原の向こうを見る。
コハルが立っていた。
紺色のケープだ。初めて会った時のケープだ、と思った。
あのときは、妖精かと思った。
今は、コハルだ。
エイナルの大事で大事で、大事すぎてどうしたらいいのかわからないコハルだ。
「コハル、どうしたの?」
彼女の顔色の悪さに、エイナルは慌てふためいた。
自分の顔色の悪さも忘れて、コーヒー豆の鍋を放り出して、コハルに駆け寄る。
コハルもこちらに駆けてくる。
エイナルの両腕をつかむなり、彼女は何かを言った。口をパクパクさせている。でも、音が出ない。
コハルは、喉をおさえて慌てた顔をした。
何度か口を動かして、まったく声が出ないことを確かめる。エイナルの手をつかんで、手のひらに指で文字を書いてみせた。
「ち ょ っ と ま っ て て」
細い指が文字を綴るスピードに合わせて、ひとことずつゆっくり読み上げる。
「ちょっと待ってて?」
コハルはうんうんと勢いよくうなずくと、全速力で家に駆けていく。しばらくして戻ってきたその手には、石板と石筆があった。そういえば、コハルがうまく話せなかったころ、この道具にはとってもお世話になった。
コハルは少し考えて、丁寧に文字を書いた。
《声が出ないから、これに書くね》
「声が出ない?!」
エイナルは青ざめた。
「病院行こう!このへんでは、どこだ、誰だ、誰がいい……えっと、そうだ!沿岸警備隊の軍医に見てもらおう!」
狼狽しきったエイナルを見ながら、コハルの顔色はかえって良くなってきた。ふふふっと声なく息だけで笑い始める。
軽やかに、石筆が走る。
《慌てるエイナル、めずらしい!》
「そりゃ慌てるよ!喉痛いの?咳が出る?」
《全然ない。あとでハチミツでもなめたら治るよきっと》
のどかにふふふと漏らしながら書くコハルを見て、エイナルは脱力した。のんきすぎる。でも、かわいい。
「ハチミツたっぷり入れたホットミルクでも作ろうか」
《レンの分もね!》
「ああ、あの子、大好きだもんね」
コハルの書いた文字と、エイナルの返事で、いつもどおりに会話がはずむ。
こんなの、無理に決まってる、と、エイナルは思った。
こんなに何をしてても楽しくて愛おしい子、手放すなんて無理すぎる。
「コハル、帰らないで」
希望が口から転がり落ちた。
それがエイナルの自分勝手な希望だと分かっていても、故郷に帰せるはずがない。
「勝手な俺の希望を押し付けてごめん。でも、コハルに帰ってほしくない」
コハルの顔が、ぽかんとした。
口をパクパクと開ける。それから、慌てて乱れた字で、石板に書いた。
《帰らないよ!》
エイナルは、何度もその文字を読んだ。読んで、読んで、読んだ。
消えない。
「……本当に?」
《本当だよ!最初から、帰るつもり全然なかった!》
コハルが急いで文字を書く。ちょっと震えた文字をまた眺める。まじまじ眺める。
この形、一生忘れられそうにない。
「でも、故郷は、大事でしょ?」
《エイナルのほうが大事》
コハルはちょっとためらって、さらに書いた。
《エイナルが大好き》
「大好き……」
エイナルは、ぼうぜんと読み上げた。
コハルは真っ赤になって、慌てて手のひらで文字を消そうとする。
「ダメ!消しちゃダメだ!絶対ダメだ!」
とっさに宣言して、コハルの手の届かないところに石板を持ち上げた。
コハルはぴょんぴょん飛び上がって、石板を取り戻そうと必死だ。ぐうの音もでないくらいかわいい。
「コハルさん、確認です」
コハルはぴたっと止まる。
「コハルさんは、ムツキと故郷に帰る気がありません。合ってる?」
コハルはうなずいた。
「コハルは、俺のことが大好きです」
真っ赤になって、うつむいた。
「コハルは、俺がコハルのことを大好きで大好きで大好きだって、知ってる?」
ばっと赤い顔が上がる。思いっきり、首をぶんぶん横に振られる。
「コハルは、俺とこれからもずっと一緒にいてくれる。それでもいい?」
コハルは、泣き笑いの顔で、何度も何度もうなずいた。
エイナルの手を引っつかんで、手のひらに指文字を書く。読み上げる。
「一緒にいたい。だから……石板返して?」
涙目で、コハルがエイナルを見上げている。
エイナルは、コハルが文字を書いてくれた手で、彼女の体を抱き寄せた。片手で石板を持ち上げたまま。これで絶対に、とられない!
「いやだ!返さない!これ、俺の宝物にする!」
大声で叫んで、ぎゅうぎゅうとコハルを腕の中に閉じ込める。
いつのまにか薄曇りの空から、パラパラと雪の結晶が舞い始める。
初雪にすっかり気づかずに、エイナルはいつまでもコハルを抱きしめた。




