(7-4)
「オハヨウ!コハル!」
ムツキは一緒に帰国したいと誘ったその日から、ますます遠慮なくコハルとの距離をつめてくる。
今だって、故郷の言葉で挨拶をしながら、ランチのプレートをもって、そばの椅子に座った。
調理場の一番奥だ。コハルはこれから洗い場で汚れた食器を洗おうとしている。ランチを食べるのにふさわしい場所だとは、とてもじゃないけど思えない。
手前のカウンターでは、昼食をもらおうとする人たちが行列していて、忙しくシチューが皿に盛られ続けている。
最近、支援作業が落ち着いてきて、人が減ってきた。だから中ホールでの配膳をやめて、調理場のある食堂でごはんがふるまわれるようになっている。
「オハヨウって、朝の挨拶だった気がする……」
思わずこの国の言葉でぼそっとこぼしたら、ムツキはニヤッと笑った。
「そう、朝、オハヨウ、昼、コンニチハ」
「この国の言葉、覚えたの?!」
「すこし。せっかく、いる。むだ、したい、ない」
たどたどしいけれど、確かにこの国の言葉だ。
『だけど、結構むずかしいな。コハルに教えてほしい』
流暢なマルタ帝国語に切り換えて、ムツキは期待に満ちた顔でコハルを見る。
「忙しいから無理。今は食器を洗う時間」
すっぱりと断った。この国の言葉だと、なんだか遠慮なく自分の気持ちを言葉にのせられる。
片言のマルタ帝国語で会話するより、よっぽど自分らしくいられることに気づいて、コハルは胸を張った。足に力を入れて、堂々と立つ。
『じゃあ、あとで昼のまかない食いながら教えてくれよ』
「ムツキはいま食べてるでしょう。午後はきちんとサボらず自分の仕事をしてね」
『手厳しいな。でもそのくらいしっかり者のほうが俺の好みだ』
「何度も言ったと思うけど、一緒には行かない」
ひたすらこの国の言葉で返事をしていたコハルは、周りを少し気にして、そこから先はマルタの言葉に切り替えた。
『ムツキと結婚したいと思わない』
『じゃあ、結婚はとりあえずおいて、一緒に帰ろう。そのうち惚れされてみせるから!』
「無理!」
思わずこの国の言葉で短くぴしゃりと叫ぶ。すっかり理解している顔で、ムツキは余裕しゃくしゃくで返す。
『無理なことなんてないな。だからこうやって惚れてもらおうと毎日頑張ってる』
ムツキから手渡されたあの地図は、翌日には返した。一緒に行けないことも話した。
でも、彼は全然めげない。その鉄のように打たれ強い心はある意味すごい。
「あんたたち、よくそれで会話できるね。頭めちゃこんがらがるわ。コハル、追加の汚れ食器持ってきたぜ!一緒にちゃちゃっと洗っちまお」
カンナが勢いよくコハルとムツキの間に立ってくれる。
何か言おうとしたムツキにかまわず、コハルに満面の笑顔を向けて話しかける。
「コハル、服屋の奥さんに刺繍習うことにしたって?」
「うん、教えてくれるって!編み物も!カンナも一緒にやる?」
「あたしに針を握らせたら血の雨が降るぜ!」
ふたりでとめどなくおしゃべりしながら、食器を洗いはじめる。ムツキはそれを楽しそうに眺める。
毎日、こんな感じだ。
「コハル、あの、今日も炊き出し、行くんだよね」
ある日の朝食の席で、エイナルが、とても言いづらそうに切り出した。
「あ、僕、外でタネリのブラッシングしてこよーっと!」
わざとらしく聞こえるくらいの大声で言って、レンが立ち上がる。
近頃、レンがタネリとトピのブラッシング係になった。
あの嵐の一夜。灯台に帰ってみると、たいそうぐったりしたレンとタネリとトピが、居間のカウチで寄り集まるようにして寝ていた。
レンは言いつけ通りに2匹のごはんを作り、びくびくしながらブラッシングをしようとし、非常に四苦八苦したらしい。
それでもなんとかジャーキーと引き換えに距離を縮め、すべての任務を遂行すると、疲れ切ってカウチに横になった。
それで目覚めたら、タネリとトピもそばで寝ていたらしい。
それ以来、なんとなく、毎日レンがブラッシングをするようになった。いまでは、ブラシを持ちだすだけで、2匹がそばに寄ってくる。
ぞろぞろとひとりと2匹が居間から出ていき、急にしんと静かになる。
コハルはその後ろ姿を見送ってから、エイナルから聞かれていたことを思い出して、うなずいた。
「うん、いつもどおり炊き出しいくよ。でも、だいぶ人も減ってきたから、明日くらいで手伝い終わりになるかも」
座礁船の乗客も積荷も、陸路の移動に切り替えたり、別の商会の船を利用することになったりして、少しずつ街を去っていった。
ほとんど街は落ち着きを取り戻しつつある。
船の乗組員が30人くらい残っているけれど、その人数ならわざわざ炊き出しを用意しなくても、街の食堂でまかなえる。
「そっか……おつかれさま。あの、その……」
何かをひどくためらってから、エイナルは絞り出すような声で言った。
「コハルと、ムツキが、仲がいいって、噂で聞いた。ムツキが一緒に帰ろうって、毎日コハルを口説いてるって」
マルタ帝国語は、公用語だ。ふたりのやりとりを聞いて理解できる人も多いだろう。
エイナルに、嘘はつきたくない。
「……うん。声は、かけられてる」
「そっか」
エイナルは、口元をぎゅっと引き締めて、ひどく傷ついたような、悲しそうな顔をした。
「コハルが、俺に相談してくれなかったのは……故郷に帰りたいから、なのかな」
「え……」
「コハルが故郷に帰りたいって思ってるのは、分かってる。俺は、コハルが」
テーブルに置かれた両手が、ぎゅっと固く固く、握りしめられる。
「コハルが、幸せに、なってほしい。幸せに、なってくれるなら……引き止めちゃいけないことも、分かってる。帰るコハルを、ちゃんと見送らなきゃ行けない」
一瞬深くうつむくと、エイナルは勢いよく立ち上がった。
「ごめん!何をガキみたいなことをいってるんだろう!本当にごめん!ちょっと出かけてくる。夜まで帰らない」
早口で言うと、コハルの顔を見ずに、風のように居間から出ていった。
コハルは、取り残された。
「コハル、どうしたよ?すごい顔色悪いよ?何?エイナルとケンカでもしたの?」
庁舎に着いたとたん、カンナがすっ飛んできて顔を覗き込んでくれる。
「……」
「うわぁ、まじかー」
唇を噛み締めて言葉を失ったままのコハルを見て、カンナが眉を下げる。
よしよしと頭を撫でて、ぎゅうと抱きしめてくれる。
「どうした?話聞くよ?」
「……」
コハルは口を開きかけて、そのまま何の言葉も話せない。
エイナルに、故郷に帰るのだったら見送ると言われた。
エイナルと離れるなら、それで彼と二度と話せないなら、言葉なんて、役立たずだ。なんの、意味もない。
心配してくれてごめんね、カンナ。そう言いたいけれど、口がぴたりと動かない。言葉が、死んでしまったみたいに。
「今日はもう帰りなよ。今にも倒れそうじゃん。あたしからみんなに言っておくし。ほら、安心して」
子どもをあやすように体をゆすって、背中をぽんぽん叩いてくれる。
カンナの妹になった気分で、コハルはしがみついて、うんうんとうなずいた。何もできる気がしない。申し訳ないけれど、今のコハルは、役立たずだ。役に立ちたいとも、思えない。
廊下のむこうに、ムツキがいるのが見える。
今は絶対に、会いたくない。
コハルははじかれたように、カンナから身を離した。
——ごめんね、帰る。
音にならずに、口の形だけでなんとか伝える。
心配そうにうなずいたカンナの手を一瞬ぎゅっとにぎってから、コハルは庁舎から逃げ出した。
やみくもに走って、走る。
いつの間にか、港の方に出た。
「おや、コハルちゃんじゃないか。今日はひとりかい」
フードワゴンのおじさんに声をかけられる。
いつの間にか、顔見知りの人が多くなった。このおじさんは、嵐の日から1週間くらい、炊き出しを一緒にしてくれていた人だ。
「昼メシ食いに来たのか?ほら、持ってきな。俺のおごり!エイナルによろしくな!」
焼いたサバにぎゅっと柑橘をしぼって、野菜と一緒にパンに挟む。くるっと紙に包んで、ぽんとコハルに渡してくれる。
ありがとうを口に出せないコハルに気づかずに、やってきた常連客と楽しげにおしゃべりを始めてしまう。
コハルはぺこりと頭をさげて、ふらふらと歩き始めた。
港のはずれのベンチに座る。
ここからだと、灯台の赤い屋根が、青空によく映えて見える。
食欲はない。でも、おじさんの好意があたたかく指先から伝わってくる。
ゆっくりと包みを開いて、はみ出たサバを、ちょっと齧った。
美味しい。こんなときでも、ちゃんと、美味しい。
この街のごはんは、あたたかい。
ぽろぽろ、涙が出てきた。
泣きながら、コハルは、焼きサバサンドをもぐもぐ食べた。
美味しすぎて、エイナルにも食べてほしい。
そう思ったら、また、涙が出てくる。
こんなふうに、ひとりで美味しいものを食べたのは、あの夜以来かもしれない。故郷で流された夜のごちそう。
でも、もう、あんなふうになるのは、ごめんだ。
美味しかったって、教えたい。エイナルに。レンに。コハルの大事な人たちに。
コハルの故郷に、大事なものは、何もない。
全部、ここにある。
灯台の赤い屋根を眺めながら、コハルはサンドイッチを食べきった。
ちゃんと、エイナルと、話そう。
大事なものを、守るために。




