(7-2)
『ああ、カレーだ』
ホールの入り口からひょっこり中を覗きこんで、一人の男がうらやましそうな顔をした。マルタ帝国語だ。
コハルたちと一緒にランチ休憩をとっていた料理人が立ち上がる。
『ムツキ、作業終わったのか?お前も食べるか』
『いいのか?』
『食べる気まんまんだろ』
『見抜かれていた』
悪びれずに笑いながら、まかないチキンカレーを皿いっぱいにもらって、男は当たり前のようにコハルの隣にするりと座る。
当たり前のように、顔を覗き込まれるようにして、ニイッっと笑って話しかけられる。
『コメがあると食べたくなる。コハルもそうだろ?』
『えっと……あの……』
コハルは言葉を探して、結局沈黙した。
このムツキという船乗りは、人懐っこくて、毎日しょっちゅう話しかけてくる。
座礁した船の乗組員で、世界中を回っているという。たぶん20代半ばくらいだと思う。コハルが返事をうまくできなくても、あっけらかんとして気にしない。
コハルと同じ黒髪黒目、同じようなさっぱりとした目鼻立ち。丸顔に好奇心いっぱいの目が輝いていて、小柄で俊敏な動きが目立つ。コハルと違って、日に焼けて浅黒い肌になっているけれど、同じ東方出身だということは、見た目からすぐわかる。
いい人な気はする。
でも、苦手だ。
だって、これだ。
「いただきます」
食事の前にこの言葉をいう人に、この大陸で初めて会った。
故郷の言葉で覚えている数少ないひとこと。
両手を合わせてから、ムツキは勢いよくカレーをかきこみはじめる。
この人が来てから、コハルは家の外で「いただきます」を言えなくなった。なんとなく、その勇気が出ない。
ささっと自分のカレーを食べ終えて、コハルは立ち上がった。
もう空になっていたカンナのお皿を横取りして、自分のお皿と重ねる。
「今日は帰らなきゃだからお皿洗ってくる!夕飯の仕込み手伝えなくてごめんね。食べ終わった人、ついでに洗うからお皿ちょうだーい!あ、いいよいいよ、みんなまだ休憩してて」
ことさら元気に言いながら、カゴを下げてお皿を回収して歩く。
そのまま洗い場に行こうとしたら、廊下でひょいっと横からカゴを取り上げられた。
ムツキだった。
何か、言葉を言われる。
なんだかどこかで聞いたことのあるような響きがあった。ぎょっとして、体が少しこわばる。
固まってしまったコハルを気にせずに、ムツキはマルタ帝国語でもう一度言った。
『手伝うよ。重いだろう』
『もう……食べるの、終わった?』
マルタ帝国語は久しぶりだ。
元々、大きな国の人たちの命令を理解できればよかったから、自分から積極的には話さなかったし、どうしても片言になってしまう。
口慣れない言葉を口にしているうちに、自分が自分でなくなってしまったような気がする。エイナルと……早くエイナルとしゃべりたい。
そんなコハルの心を知らず、ムツキは軽々とカゴを抱えた。並んで歩きながら、話しかけてくる。
『食べ終わった。うまかった。やっぱりコメはいいな』
『そう』
『コハルだって、食ってただろ、コメ』
『育った村の食べ物は……肉、小麦粉の麺』
『そうか。国のどのあたりだ?麺を食べるなら南のほうか?』
『どの……?』
コハルは沈黙した。
生まれた村にしろ、育った村にしろ、場所など知らない。顔立ちを「東方系」と言われるからには東の方にあるのだろうな、とおぼろげに思っているくらいだ。
そもそも、この国がどこにあるのかも、知らない。今まで住んだことのないくらい北にあるということしかわからない。
調理場に入って、食器のカゴを流し場の横に置くと、ムツキはポケットからゴソゴソと折り畳んだ紙を取り出した。
それを広げて調理台の上に置く。だいぶよれていて、何か模様が描いてあった。知らない文字もたくさん書き込まれている。
『これは、この大陸の地図だ』
『地図……』
『この国はここ』
地図の左端の上の方を指でさす。
『マルタ帝国はこのあたり』
地図の中央より右側のとても大きな場所をぐるりと指で囲んでみせる。
『そして、俺たちの国はここだ。たくさんの島が固まってできている国』
地図の右の端っこ、丸のようなものがたくさん描き込まれている場所をとんとんと指先で叩いた。
『違う』
コハルは必死で言った。
『ムツキと国、違う』
『違わない。コハル、知っているはずだ。「いただきます」。初めて俺が言ったのを聞いた時、とても驚いた顔をしていた』
コハルは言葉がない。
あのとき、どんな顔をしていたのか、自分では全然わからない。ただ、衝撃を受け止めるので精いっぱいだった気がする。
『それに、「コハル」は俺たちの国の言葉だろう。冬の時期にたまにあるあたたかい春のような日のことだ。俺の「ムツキ」は年の初めの最初の月。真冬の一番寒い月のことだ。ちょうど「コハル」は「ムツキ」に起きる。俺たち、ちょっと運命的だと思わないか?』
全然思えない。運命ってなんだろう。コハルをどこかに流してばかりのものが運命なら、そんなもの、欲しくない。
ムツキは、照れたように笑っている。
なんでそんな熱っぽい目で、こちらを見つめてくるのだろう。
『俺は、国の外のでかい世界が見たくて、ガキの頃に飛び出して船乗りになった。もう10年、船に乗ってる。金もずいぶん貯まった。そろそろ国に帰って、貿易でひと商売立ち上げようと思っている』
『かえ、る……?』
ぼうぜんとつぶやいた自分の声が、自分じゃないみたいに聞こえる。
『そう、帰る』
ムツキは、地図をくるりと筒の形にした。
左の端のこの国と、右の端のムツキの故郷が、急にくるりと近づいた。
とても、近く、見える。
『実際にはちょっと形が違うんだが、簡単に説明するために許してくれ。この国は海に面している。海はこの筒みたいに、世界中でつながっている。この国の海の先にある大小の島を渡りながら、ずっと船で進んでいくと、いずれ俺たちの国につく。ここから、2、3か月はかかるけれど、必ず帰れる』
『……』
ムツキは地図を再び折りたたむと、ぽんとコハルの手のひらに載せた。
しびれるように、重かった。
『一緒に帰らないか?』
『……』
『コハル、天気を占える巫女の力を持ってるんじゃないか?あの体の大きな男と帰る時に話しているのを聞いた』
『……ムツキ、この国の言葉、わからない、のでは?』
コハルはただ、ぼんやりと答える。
地図の重さが全身に広がって、頭の芯までしびれるようだ。
ムツキはからりと笑った。
『船乗りだからな。天気の言葉はいろんな国のものを覚えてる。コハルは言っていた。「夜、雷が鳴る。雨は降らない。海も荒れない」。こんないい天気に?と不思議に思ったんだ。でも、言った通りになった。すごいな!』
『……ぐうぜん』
『その顔を見る限り、偶然じゃなさそうだ』
『……』
『俺たちの国では、巫女はとてもありがたい存在だ。神の力と安寧をもたらす。とても大事にされる。結婚だってできるし、金持ちになれる。どうだろう、一緒に国に帰って、一緒に世帯を持って金持ちになって、悠々と暮らさないか』
『しょたい……?』
『国に帰って、結婚しないかと言っている。俺には金がある。コハルには力がある。どうだ。最強の組み合わせだろう?』
この上なくワクワクした顔で、まったく悪気のない顔で、ムツキは言う。
『なん、で……』
『コハルにひとめぼれしたから。国を出てから、国の女の子に会ったのは、これが初めてだ。きっとこれは運命だ!』
コハルは、動けない。
耳をふさぎたいのに、ふさげない。
手を、握られた。
振り払いたいのに、振り払えない。
『俺は、月末に出る船に乗る。コハルは間違いなく、国に歓迎される。コハルの力は、国のみんなの役に立つ。一緒に帰ろう。考えてみてくれ』
その後、どうやって食器を洗ったのか、よく覚えていない。
あの後すぐにカンナが来てくれて、ムツキとの間にうまく割って入るように立ち回ってくれた。
心配してくれたのだと思う。
なのに、ちゃんとお礼も言えなかった。
ずっと、耳の裏に、あの声がする。故郷で最後に聞いた、歌のような、呪いのような、あの声。
送って行こうとするムツキを振り切って、外に出た。
ぼんやりと、大広場を歩く。
ふと、耳の裏にバイオリンの弾むようなメロディーが蘇って、すこしだけ、気分がましになる。
この広場で、このメロディーを聴きながら、ランチを食べた。
あの時の、夏至の祭り、楽しかった。
エイナルの晴れ着が、かっこよかった。
ずっと、あの日だけが続けばいいのに。
「どうしたの、ひどい顔」
いつのまにか、レンが顔をしかめて、コハルの目の前に立っていた。
「……迎えに来てくれたの?」
「だって、そういう約束じゃないか。なに?どうしたの、ぼうっとしちゃって」
そういえば、今日はこれから、ふたりで服屋に出来上がった新しい外套を取りに行くことになっていた。
すごくすごく、楽しみにしていたのに。
「……そんなにひどい顔してる?」
「この世の終わり、みたいな顔」
レンの表現が的確すぎて、思わず笑えてくる。
笑っているはずなのに、急にレンが慌て出した。
「ちょっと待って、なんで?なんでいきなり泣いてるの?え、嘘でしょう?これじゃ僕が泣かせたみたいじゃないか!待ってよ!ちょっともうなんなの?ってやめて!離れて!僕、エイナルに殺されたくない!」
コハルはぎゅうぎゅうにレンにしがみついた。
硬直しながら悲鳴を上げる彼を思い切り抱きしめる。
「レン……どうしよう……どうしよう……」
「それは僕のセリフだよっ!!」
わめきながら、ぎこちなくレンの手が背中を撫でてくれる。
何度も何度も撫でてくれる。
「どうしよう……どうしよう……」
「ああ、もう」
うめきながら、レンが小さく不思議な言葉をつぶやいた。
ぽん、と背中を叩かれる。
とたんにふわりと体が温かくなる。
魔法のように、少し、体が軽くなる。
コハルは目を見開いた。鼻をすする。驚いて、涙が止まった。
「魔法……?」
「少しだけ。絶対内緒だよ」
ぶっきらぼうにつぶやいて、レンが体をそっと離した。
「で、どうしたの。仕方ないから、聞いてあげないこともない。ただし、そうだな。そこのパン屋のアップルパイをホールで買ってくれたら。それで家に帰って、ミルクティーを入れてくれたら、かな」
「そんなの、お安いご用だよ」
鼻をすすりながら、コハルは今度こそ、ちゃんと笑った。




