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結局、座礁した船は浸水せずに済んだ。
けれど、修理は必要で、遠洋航海に出ることができない状態だった。代わりの船が来るまで1か月かかるという。
コハルは、毎日、昼から夕方にかけて、炊き出しの手伝いにいっている。
庁舎の調理室で作って、中ホールでふるまう。
避難している人たちも、座礁船の荷物の引き上げを手伝っている人たちも、みんな食べに来る。
食材を切って調理して、器によそって出して、食器を回収して洗って片づけて、机を拭いて掃除して。
人手はいくらあっても足りない状況だ。
手伝いに来ている奥さんや女の子たちとも、すっかり仲良くなった。領主館からはメイドのカンナも派遣されてきている。前にご夫婦一緒にキイックルで遊んで、そのまま街に居着いたマリーさんもいる。
座礁船に乗っていた料理人たちも一緒に調理場に立っている。プロの手際は勉強になるし、いろいろな国の料理を教えてもらえるから、みんなで盛り上がる。
異国風ごはんをまかないに作って食べさせてくれるのも、とても楽しい。
お昼の混雑が終わった時間帯。夕飯の仕込みの前に、まかないをワイワイ食べる。
今日のまかないは、チキンカレーだった。この味をベースに、夕飯には煮込みを出すという。あまり辛いものを食べないこの街の味覚に合わせて、とてもマイルドな味付けだ。
コハルは懐かしい気持ちになる。この国に来る前に働いていた工事現場では、よくカレーが出た。
大きな国——マルタ帝国というらしい——の人は、スパイスの効いた料理が好きだ。子どもの頃に初めて食べた時にはその味にびっくりしたけれど、だんだん慣れたら好きになった。今では遠い思い出だ。
「なにこれ、めちゃうまじゃない?!」
カンナが目を丸くしながら、隣でぱくぱく食べている。
「この白くて細長いの、なに?コメ?うちの国でも売ったらいいのに!」
『カレーのスパイスも、コメも、ここまで持ってきて売るとだいぶ高くなっちまうだろうね』
料理人のひとりがマルタ帝国語で笑う。彼はこの国の言葉は少しわかるけれど、話せるほどではないらしい。コハルが多少は使えることがわかると、そちらの言葉を使うようになった。
コハルは料理人の言葉の意味をなんとかまとめてカンナに伝える。彼女は残念そうにため息をついた。
「そっかぁ。じゃぁ、次いつ食べられるかわかんないか。めちゃいっぱい食べとこ!」
いうなり、おいてある鍋のところに飛んでいって、山盛りにおかわりをよそって戻ってくる。
「カンナ、そんないっぱい食べられる?!」
「めっちゃ余裕!ほら、コハルもいっぱい食べな。一緒にもりもり立派に大きくなろうぜ」
「無理だよー!」
「あー、そっかー、コハルはエイナルにかわいいって言っててほしいんだもんねー。俺の嫁めちゃかわいいってねー?」
カンナはニヤニヤしながらコハルを見ている。いや、カンナだけじゃない。ほとんどの人がニヤニヤしながら、コハルを見ている。
「そ、そんなんじゃ……」
「いやいやまたまたぁ。説得力なーい!」
コハルにだってわかっている。説得力がないことくらい。
2日前に、エイナルが、やっちゃったからだ。
座礁船から積荷を引き上げる作業を手伝うため、その日、エイナルはコハルと一緒に庁舎に来た。
そこで、鉢合わせたのだ。
サムエルという、偉そうなあの軍人に。
どうやらサムエルはエイナルのことを待ち構えていたらしい。
入り口のホールで、いきなりつかみかかってきたのだ。
「お前の!お前の入れ知恵のせいで!俺は!」
大声で、そんなことを喚き散らしている。
「ああ、聞いたよ。減給3か月だって? ずいぶん甘い対応だと思うけどね。200人以上の命を危険に晒そうとしておいて」
エイナルの背中にかばわれながら、コハルも思わずうなずいた。同じ気持ちの人ばかりなのだろう。みんな遠巻きにしながら、険しい顔でうなずいている。
「俺だって、嵐が落ち着いたらすぐに船を出そうとしてた!」
「あのさ。それじゃ遅いんだよ。どうしてわからない」
静かに、エイナルが答える。彼の手は抵抗せず、ぶらんと垂れ下がったままだ。サムエルに首元を締め上げられていても、指一本動かさない。
「お前はこれまで、業務の評価が高かった。上官から言われた通りのことを、言われた通りに実行できていたからだ」
——子どもの頃から、安全な場所で、そうやって立派な親の判断に従って生きてさえいればよかったんだろうね。
エイナルが小さくつぶやいた。近くにいるサムエルとコハルにしか聞こえない声で。
再び、はっきりと大きな声で告げる。
「だが、今はお前が上官だ。正しい判断を下すのが仕事だ。わかってるんだろ。着任したてで知識が足りないなら、ベテランのコンラッド曹長に相談しながら判断すればいい。それができなかったのは、お前の無意味なプライドの高さからだ」
エイナルは、サムエルの耳のそばに、ぐっと顔を近づける。
また小さく、しかし確かに言った。
「無意味な自己満足で、これ以上、一体何人殺す気なんだ。あの窃盗犯ふたりだけじゃ足りない?」
その瞬間、サムエルの顔が憤怒の形相で恐ろしく崩れた。真っ赤な顔をして、エイナルの頬を殴りつける。
エイナルは抵抗ひとつせず、その拳を受けた。そのまま大きく床に倒れ込む。
コハルは悲鳴をあげた。
「エイナル!」
「コハル、来ないで」
冷静に言いながら、さらに殴りつけようとする拳を、ころりと体を回転させて簡単に避けた。態勢を崩して、サムエルも床に転がる。
その体を、多くの男たちの手が押さえつけた。取り巻いていた人々が、駆け寄ってきていたのだ。
「エイナル、大丈夫か?!」
「大丈夫。へなちょこパンチだ。効いてない」
周りの人々に問いかけられて、派手に殴られたはずの当人がけろりと立ち上がる。サムエルは大声で何かを喚き立てている。
コハルは青ざめて、エイナルの腕を引っ張った。
「エイナル大丈夫じゃない!唇切れてる!救護室いこ!今すぐ!」
それを聞いたエイナルは、とてもうれしそうに笑った。泣きそうにこわばるコハルの頬を、ほぐすように撫でる。やさしい声で言う。
「大丈夫だよ。落ち着いて。でも、心配してくれてありがとう」
「でも!」
そうしてコハルがさらにエイナルの腕を引っ張ろうとした時だった。
「くそっ!お前ら、後悔させてやる!」
割り込むように、サムエルが金切り声でわめいた。エイナルとコハルを憎悪の目で睨みつけている。
「お前もお前の嫁も、絶対に後悔させてやる!」
すうっと、エイナルの顔から笑みが消えた。
元々精悍な顔立ちだ。目つきが鋭くなると、ぐっと迫力が増す。
こんな時なのに、コハルはうっかりエイナルに見惚れてしまった。心臓が変な音を立てる。だって……かっっっっこいい!
床に押さえつけられ、縄をかけられようとしている男を、エイナルは静かに見下ろした。
「ありきたりな言葉だなぁ。でも、一般人への暴行と脅迫だ。自分こそ後悔した方がいい。ここには証人だらけだ」
たくましい腕が、コハルの肩を守って抱き寄せる。
「それに、俺のかわいいコハルには絶対に手を出すな。お前がそのつもりなら容赦しない。後悔以上のことをしてやる。確実に」
そのとたん。
ギャラリーたちがどっと沸いた。指笛と口笛と「ひゅぅぅぅぅ!」と冷やかしの声があちこちから飛んでくる。
コハルはぎょっとして、周りを見た。
いつの間にか、すごい人数の野次馬たちがいた。こちらを一斉に見つめている。みんなしてニヤニヤしている。
「エイナルー!いいぞー!もっとやれー!」
「お前の嫁ちゃんかわいいなー!」
「くっそー!のろけかよー!」
「コハルちゃーん、こっち向いてー!」
口々に勝手な言葉で囃し立てられる。エイナルは、ぐるりとあたりを見回して、コハルの肩を抱き直す。胸を張って言い放った。
「よろしく!」
何がよろしくなのかわからない。
コハルは真っ赤になって、でも抱き寄せてくれるエイナルの手がうれしくて、でも恥ずかしくて死にそうになって、もう、わけがわからない。
結局、嫁じゃないって、言いそびれた。




