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岬に遅い春がきた。
ルノランディア国は、大陸の北の端っこにある小さな国だ。
そんな端っこの国のなかでも、とりわけ端っこにぴょっこり飛び出すその岬を、人はフローレ岬と呼ぶ。
フローレは、花の女神の名前だ。北国の人々に、待ちに待った花の季節を届けてくれる、心やさしい神様。
その名をいただくのにふさわしく、4月の岬は美しい。くるぶしほどの高さに新緑の草葉がもえ、色とりどりの花が海風にゆれ、明るい陽ざしに輝いている。
草原のはずれに、灯台が立っていた。
黒い石造りの灯台は、遠くから見ると小さく見えても、近くで見上げるとちょっと首が痛くなるくらいに背が高い。
ちょうど塔の中央だけ、腹巻きを巻いたように白いペンキでたっぷり塗られている。
てっぺんの屋根は赤く塗られたドーム型。まるで赤い毛糸の帽子をかぶっているようだ。
ドームの下は、ぐるりと大きなガラス窓。斜め格子の鉄枠に、風雨を耐え抜くガラスが二重にしっかりはめ込まれている。
窓に守られた部屋の中央に、あたたかく明るく輝く炎のランプがある。
複雑にカットされ磨かれたガラスのレンズによって、より強くなった光が、遠くに遠くに伸びていく。
海ゆく船に、光のみちしるべを届けるために。
その頼もしい働きぶり。ひと目見たら忘れられない愛嬌のある色合い。灯台は、街の人々や船乗りから、長年親しまれ愛されてきた。
その灯台につながって、赤い三角屋根が乗っかった2階建ての家がある。
灯台守の家だ。
今は、一人の男が住んでいる。祖父も父も灯台守。名前はエイナル。22歳。去年、家業を継いだばかりだ。
エイナルはコーヒーが好きだ。
しばらく王都ルノッカで働いていた時に、すっかりハマってしまった。
でも、さほど大きくもない港町には、焙煎した豆を売ってくれる店がない。
船の荷下ろしはあるので、生豆は手に入る。喫茶店もあるけれど、自分の客に飲ませるコーヒーを少量煎るだけだ。
だから、自分で焙煎する。
台所で煎るにはにおいが強い。なるべく家の外でやる。
去年、灯台守を継いでから、自分でレンガを組んで、屋外に簡単なかまどを作った。
かまどに火を入れる。鍋を火にかける。うっすら緑色を帯びた白い生豆が入っている。
シャカシャカカ。シャカシャカカ。
蓋をした小鍋を左手で振る。
シャカシャカカ。シャカシャカカ。
こまめに振る。
火にかけた最初のうちは、爽やかな、香ばしい匂い。
そのうち、パチパチと豆のはぜる音が鍋の中からして、蓋から漏れる蒸気のにおいが濃く、重く、苦くなっていく。
そのにおいだけでも、好みの焦げ具合がわかるようになってしまった。
そのくらい、しょっちゅうコーヒー豆を煎っている。
趣味のないエイナルの、唯一の趣味みたいなものかもしれない。
満足のいくにおいになってから、鍋の中をのぞく。豆はすっかり焦茶のいい色だ。
鍋を火から引きあげる。隣の台に置く。
こちらの台も自分で適当に、レンガを積み上げて作ったものだった。
ずっと中腰で作業していたエイナルは、そこで腰をそらせてうーんとうめいた。
椅子に座って煎ったほうが楽な気がする。椅子を作るか。木板で組もうか、レンガを置くだけでいいか。
そんなことをつらつら考えているうちに、向こうで犬が吠えた。
エイナルの相棒のハスキー犬だ。名前はタネリ。
だいぶ元気に吠えている。警戒しているというより、はしゃいでいるように聞こえる。
「どうした、タネリ」
あまりの犬の騒ぎっぷりに、家の中から飼い猫までのそのそ出てくる。
猫というにはかなり大きい。オレンジ色の長い毛並みが見事な猫で、トピという。タネリの親友だ。とにかく2匹で仲がいい。
急ぐわけでもなく、悠然とタネリに向かって歩いていく。トピの姿を目で追った。
そして、エイナルは、絶句した。
——妖精がいる。
タネリの黒い背中が見える。ひどく尻尾を振り回して、妖精にじゃれついている。
妖精は、紺のケープを羽織り、紺地に白い花の刺繍があしらわれたワンピースを着ている。腰を大きなリボンでキュッと締めて、裾に向かってふわっと膨らむシルエットがたいそうかわいい。
揺れる花々の真ん中で、長い黒髪が、風に吹かれて横に流れる。
大柄な犬に突然全力で懐かれて、黒い瞳が困ったようにエイナルを見つめる。
ちがう。妖精じゃなかった。
女の子だった。
妙にロマンティックなことを考えた自分が恥ずかしすぎる。穴があったら隠れたいのに穴はない。どうして作っておかなかったのか。
でも、目を、離せない。
エイナルは、動けない。
女の子も、動かない。
タネリとトピが跳ねている。
ふたりの間を、春の風が吹く。
新連載、ゆるゆる投稿させていただきます。
どうぞよろしくお願いします!