壱
ひな祭りなので、お人形のはなしをひとつ。※ホラーではないです。
――ズル。ズル、ズ、ズズ……
街も寝静まる丑三つ時。そしてそれは、人間の住む世界と神々が住む世界の境界が曖昧になる時間でもある。
布を引きずる音だけで、階段や床が軋む音も、足音も聞こえない。
不気味な空気が支配する空間にもかかわらず、家の人間が目を覚ます気配はない。
果てしない静寂が、世界を包む。
ただひとりを除いて。
――ズル、ズ、ズルル
少女は目を開ける。暗くて何も見えない。
だけれどその音は、リビングルームに向かっているようだった。
――あぁ、きっとまた、お義母さま様とお義兄様に怒られるわ。
それでも、なぜか嫌な気分にはならなかった。
少女は、いつも一緒に寝ている人形をそっと引き寄せる。
「朝日、明日は一緒に怒られようね」
話しかけても、朝日は人形のように黙っている。
いつもは、耳を塞ぎたくなるくらいとてもよく喋るのに、どうにもこの異様な音がしている間は、本物の人形のようにパタリと静かになってしまうのだ。
――ズル、ズル、カタッ
布を引き摺る音、何か小物を動かした音。
それらを聞きながら、少女は再び目を閉じた。次に目を開けたとき、また一日が始まるのだ。
「大丈夫、私は辛くないよ」
まだ十年と少ししか生きていない少女には、この環境から脱する術がなかった。それどころか、「人形と会話する」ことから、気味悪がられる始末。
それでも、生きるしかないのだ。懸命に生きていればいつか、神様が助けてくれると信じて。
◆
その日は、しとしとと雨が降っていた。分厚い雲は薄暗く、遠くなるに連れてその濃さは増しているようだった。もしかしたら、これからもっと酷くなるかもしれないな、と寒川は思った。
天候が酷くなる前にさっさと帰りたい。だがしかし、そういう日に限って、厄介な仕事というのは降ってくるのだ。
「窃盗事件だと? それは、俺たちの出る幕はないだろ」
「寒川さん、そう言わず! いつも暇しているんですから、たまにはいいじゃないですか」
「その"たまに"が、敢えて今日である必要があるか?」
天気が悪いのに加え、まだ肌寒さを感じる季節だ。寒川は肩を竦め、ぶるりと身体を震わせる。
一方の柴は、相変わらず元気いっぱいといった様子で、柔らかな髪の毛をふわふわと揺らしている。さながら、散歩に喜ぶ柴犬のようだ。
寒川はそのまま、事件があった家へと視線を向ける。
洋風造りの二階建ての家。飴色に塗られた玄関扉の前で、四十代くらいの女性と十代後半くらいの青年、そして警察が向かい合って深刻そうに話しているのが見えた。恐らくその女性と青年が、窃盗の被害者なのだろう。
聞き取りも始まっているようだし、どうにも怪事件だとは思えない。
「あれ、ここってもしかして、松林夜兵衛の屋敷じゃないですか」
「知っているのか?」
「この洋風の家、最近じゃよく見るようになりましたけど、当時はまだ珍しかったんで、一時期話題になったんですよ」
「そうか。松林夜兵衛といえば……人形師の夜兵衛か?」
松林夜兵衛は、江戸時代初期から代々続く人形師だ。歴代当主はみな腕が良く、政府のお抱えになっていた。夜兵衛も例に漏れず、人形劇が廃れてきた現在までも名を轟かす名工である。外つ国への輸出や、博覧会の展示も行われていた。
しかし四年前、夜兵衛は事故に遭い、かえらぬ人となってしまった。名工の死を嘆き、その事故は新聞にも取り上げられており、寒川も目にしていた。
今は、義理の息子である陽太郎が継いでいるが、その腕はあまりよくないようだ。
とすれば、家の前で警察と話している青年が、松林陽太郎か。
「あそこに立っている女性が夜兵衛の後妻、松林多恵子ですね。その隣が、彼女の連れ子、陽太郎」
「後妻? 再婚しているのか」
「はい、前の奥方様は、もっと前に亡くなられているようですね」
「……詳しいな」
「寒川さんが興味なさすぎるだけですよ」
「…………」
寒川は口を噤んだ。それは否めない。
新聞は必ず目を通すようにしているが、噂話や人々の話題にはどうもついていけない。それで困ったことはないし、今回のように柴がフォローしてくれるので、今後も変えるつもりもない。
「確か、夜兵衛には義理の息子以外に、実の娘もいたはずなんですが……」
柴がキョロキョロと辺りを見回し、何かに気付いたようにある一点で止まった。
すっと指差し、低く硬い声で、寒川に促す。
「寒川さん……あの子」
寒川もその指の先を追う。異変はすぐに分かった。
屋敷からは少し離れた、道路側の歩道。警察の護送馬車が止まっており、その前に警察官と、警察官に手を繋がれた十歳くらいの少女が傘を広げて立っていた。
少女は表情がなく、うつむき加減でただ黙っている。少女が着ている着物は色がくすみ、何度も継ぎ接ぎしたような跡が見えた。髪や肌もろくに手入れしていないのか、パサつきや汚れが見える。一言で表すと、みすぼらしい、という言葉になるだろうか。
しかし、少女が抱えている人形だけは、昨日にでも買い与えられたかのような美しさがあった。遠目から見る分には汚れもなく、人形が着ている着物にもほつれや継ぎ接ぎの跡は見られない。
その少女と人形のちぐはぐな様に、違和感を覚える。
そもそも、あの少女は何者なのか。
ここに来る途中で、迷子か孤児でも拾ったのだろうか。だが、わざわざこの寒い外で待たせる必要性を感じない。手を繋いでいるのも気になる。まさか親子でもあるまいに。
寒川が様子を窺っていると、柴が動いた。スタスタと足早に、警察官と少女の元へ向かう。寒川もその後に続く。
近付いてきた二人分の足音に、警察官ははっと顔を上げた。寒川と柴を見る顔は、随分と困り果てているように見えた。
手帳を見せると、一転して安堵の表情を浮かべる。
「怪捜の方ですね……よかった……。あ、自分は前田と申します!」
「柴です。失礼ですが、そちらの子は? なぜ手を繋がれているんですか?」
「あっ」
不審さを隠さない問いかけに、前田はさっと顔を青ざめさせて、繋いでいた手を離そうとした。しかし何かを思い出したかのように、少女を見つめ、ぎゅっと繋ぎ直す。
柴はいっそう訝しげに目を細め、前田を睨む。
「まさか、どこかから誘拐してきたとかじゃないですよね」
「ちっ、違います違います! その……容疑者、でして」
「ようぎしゃ?」
言いにくそうに告げられた、「ようぎしゃ」という言葉を変換できず、思わず首を傾げる。この少女が、容疑者という単語とどうにも結びつかなかった。
寒川と柴が納得していないのを察したのか、前田は慌てて口を開く。
「被害者は、あちらにいる松林多恵子さんと松林陽太郎さんです。保管していた宝飾品の類が、定期的になくなる被害に遭っていたそうなんです。最初の頃は自分がなくしてしまっただけだと思っていたそうですが、流石に頻繁にあるため搜索したところ、物置部屋から全て出てきたのだと」
「窃盗事件じゃなかったのか。見つかったならよかったじゃないか」
「それが、そういうわけにもいかなくてですね……」
家に置いてあったものが家の中から出てきた。それは窃盗事件とは言わないのではないか。わざわざ警察がこうして駆り出されている理由が全く分からない。
だがその答えは、前田が答えるより先に判明した。
「だから、その子が盗んだんだって言ってるでしょ!? こっそり売って金にするつもりだったのよ! いいからさっさと捕まえてちょうだいな!」
ぐわんと耳鳴りがするほどの姦しい声。
反射で耳を抑えてしまう。
視線をやれば、松林多恵子が顔を真っ赤にして怒鳴っている。隣にいる陽太郎も、そんな母親を止めるでもなく、呆れたように目の前の警察官を睨んでいた。
「……どういうことだ」
「どうもこうも、あの方が言っていることが全てですよ。宝飾品をこの子が盗んで隠した、だから捕まえてくれ、と。証拠も何もないのでそんなことできないのですが、あんな様子ではね……」
要は、この窃盗事件は松林多恵子の一方的な言い分に過ぎないということか。
とはいえあんな調子で、幼い少女を犯人扱いするため、傍に置いておくわけにもいかず、少し離れた場所で逃走を阻止する名目で保護している……といったところだろうか。
この少女と松林多恵子との関係が、いまいち分からない。家の中に侵入していたとでもいうのか。
「失礼ですが、この子は一体……?」
「え? あ、言ってませんでしたっけ。この子は松林夕子さん、松林夜兵衛さんの実子ですよ」
「…………は?」
前田から告げられたあまりの驚愕の事実に、寒川も柴も目を見張る。
なぜなら、夜兵衛の実子であるならば、多恵子の義理の娘ということになるのだ。
寒川は、多恵子と陽太郎と夕子を順番に見ていく。
多恵子はたっぷり刺繍の入った着物に、銀細工の簪、化粧もきっちりとしていて、裕福な家の奥方の格好である。陽太郎も同じく、メリヤスのシャツと新品同様の袴を合わせた、流行りの和洋折衷スタイルだ。
だというのに、娘の夕子は継ぎ接ぎだらけの、使い古されて丈の短くなった着物。よく見ると、小さな手にはいくつものあかぎれがあった。
そして先程の多恵子の、夕子に対する言葉と態度。
夕子が普段、どういう扱いを受けているのか、嫌でも想像できてしまう。
「……それで、なぜ俺たちを呼んだんだ。怪事件ですらないだろう」
「ある意味では怪事件ですよ……。それは置いておいて、この子の証言が、その、どうにも容量を得ず……」
「ほう?」
前田は、おほんと咳払いをした。
「変な顔しないでくださいね。そのまま、お伝えします。『わたしはやっていません。物置にある雛人形がやったんです。朝日もそう言っています』と……」
「その"朝日"というのは誰だ?」
「……この人形の名前のようです」
寒川はぴくりと眉を上げ、未だ静かに立っている夕子に目をやった。
夕子は寒川と目を合わせることはなく、俯いたままだ。少しばかり、人形――朝日を抱き寄せる力が強くなった。朝日の綺麗な着物にシワが寄る。
前田は諦めたように、ため息混じりに呟いた。
「これを窃盗事件とするならば、犯人は雛人形で、証言者はこの人形ということです……」
なるほど確かに怪事件だ。