呪いの振袖―完
「わたくしは、紙縒神社の巫女、紙縒椿姫と申します。とある方から振袖の調査の依頼を受け、参りました。確認しますが、こちらの振袖は、梅野原薫様のものでお間違いないですね?」
倉田の家の中は、かなり質素だった。物も少なく、ただ死を迎えるだけの生活に思えた。そんな何もない居間に辛うじてあったちゃぶ台を囲み、その上に振袖が置かれている。
触って確かめてください、と勧める椿姫に、倉田は恐る恐る振袖を手に取った。
「間違いない……薫の振袖だ。でもなんで、巫女のアンタがこれを持ってるんだ?」
「先程も申し上げたとおり、貸衣装屋にございました。店主曰く、梅野原夫人が売りにきたと」
「あのクソババア……」
倉田は舌打ちをして、大きく顔を歪める。そして、溜まっていた膿を押し出すように、とつとつと話し始めた。
「俺の家は倉田呉服店を営んでいて、今は俺が継いでいる。薫が亡くなって以来体調も優れなくて休業中だが、元々はそれなりに大きな店だったんだ」
寒川は思い出した。
倉田呉服店といえば、そこそこ有名な呉服屋だ。「手軽な値段で上質な服を」というキャッチコピーを掲げ、着物から洋装まで多種多様の取り扱い。特に中流階級に人気で、華族もこっそり利用することが多かった。
おそらく「倉田」という苗字の既視感はこれだったのだ。
「安くて質がいいから、まぁ……言い方は悪いが、金のない華族もよく来てたんだ。その中に、梅野原家もいた。薫と知り合ったのも、そういう繋がりだ」
梅野原夫妻は特に、華族という地位に拘る人達だった。華族が働くのは恥、着物が仕立てられぬは恥、着飾らぬは恥。とはいえ、仕事をせず、少ない俸禄のみで贅沢をするにも限りがあった。
そこで、どこから情報を仕入れたのか、「着物が仕立てられぬは恥」の部分を解消するため、衣服に関しては全面的に倉田呉服店に頼りきりだった。華族という身分を盾に、倉田呉服店に随分無茶な要求もした。
その度に、共に来ていた娘の薫は、申し訳なさそうに眉を下げて、倉田呉服店の者に謝っていたという。
そこから薫とは少しずつ言葉を交わして、仲良くなって、惹かれあって、お互いの気持ちを確かめて。
その頃にはなんとなく察していた。薫は、華族という据から、梅野原夫妻の呪縛から、解放されたがっていた。
だから倉田は、薫に婚約を申し込むことにしたという。
華族のお嬢様と商家の息子。身分違いなのは分かっていた。だけど幸か不幸か、倉田家にはそれなりにお金があった。酷ではあるが、貧乏華族の娘に他の華族からの婚約打診がなかったことも助けた。
梅野原家は倉田に金を支援してもらう事を条件に、渋々ではあるが薫との婚約を許したのだ。
そして、婚約の証として、薫に木綿の振袖を贈った。金はあったとはいえ、絹で振袖を誂えられるほど金持ちではなかった。木綿の朱子織の振袖が、倉田に用意できる最上級の贈り物だった。
それでも、薫は喜んでくれた。一生大事にすると。嫁ぐときは必ずこの振袖を着て、倉田家に上がると。
「でも、もうすぐ結婚ってときに、資産家の華族から薫に、婚約の申し出があったらしいんだ。薫は反対したけど、梅野原夫妻は諸手を挙げて喜んだ。俺との婚約はあっという間に破棄さ」
梅野原家は、今まで倉田に金を工面してもらっていたことなどすこんと忘れて、まるで野良猫でも追い払うように簡単に倉田との婚約を破棄した。
それから梅野原家を訪ねても、門前払いを食らうばかり。
「薫さんはその婚約に納得したんですか?」
椿姫は表情を変えないまま訊ねる。倉田はゆるゆると首を振って否定した。
「いいや、ずっと嫌がっていた。一緒に心中しよう、それか一緒に逃げよう、俺にそう言ってきた。……でもなぁ、俺には全てを捨てる勇気はなかった」
「…………」
「それになぁ、相手は随分な資産家の華族だと聞いた。庶民の俺が敵うわけがない。もしかしたら俺と一緒になるより、そっちに嫁いだ方が幸せなれるんじゃないかとすら思った」
倉田は、その資産家が祖父ほど離れた年齢の男だと知らなかったのだろうか。幸せというのは、人それぞれだから、こうなら幸せだろう、これは不幸だろう、などと決めつけるのは、無粋である。
ただ、そう思い込むことにより、薫への想いを押さえ込んだのかもしれない。
「それから薫は店に来なくなって……意気地ない俺を見放したんだと思った。でもしばらくして新聞で、薫が亡くなったって知った。後悔したよ……きっと薫は、俺の事恨んでるんだろうな……」
倉田は、昏い目をして言った。両手で髪をぐしゃぐしゃと掻き回し、俯いて、それっきり口を閉ざしてしまった。
その悲しみが、後悔が、自分への怒りが、積み重なって凝り固まって、生霊をつくりだした。そして、倉田と薫の思い出の品である振袖に取り憑いてしまったのだろう。本人も、意識せずに。
それが唯一できる、倉田の罪滅ぼしだったのだ。
寒川は、なんと言葉をかけて良いか分からなかった。慰めの言葉も、ここではなんの意味も持たない。だってもう、どう足掻いたって取り戻せないのだ。
気まずい空気が流れ、ふいに椿姫の声がそれを割った。
「そうでしょうか。わたくしの考えは、少し違う」
「え?」
「薫さんは、倉田様を恨んでなどいないということです。むしろ、あなたを助けようとしているはず。いいですか、倉田様とこの振袖は、呪いに近い悪縁で繋がっている」
椿姫は、この振袖がもたらした事件を、個人の情報は伏せて簡単に話した。
みるみるうちに倉田の表情が強ばり、絶望したように頭を俯けた。
「そんな……俺は、そんなつもりは……」
「ええ、そうでしょうね。ですが実際に起こった事実です。もう少しで、人ひとりを殺し、この縁は呪いへと変わるところだった」
倉田はますます項垂れる。実害があったとはいえ、無意識なのだ。寒川は倉田を不憫に思う。
華族の見栄に振り回され、大切な人も自身の人生さえも失った。
簡単に人の気持ちを踏みにじれる華族の矜恃は、吐き気を催すほど醜い。そういった華族の体質が、寒川は大嫌いだった。
「それほどに倉田様が、薫様と振袖を大切に想っていたように、薫様も、倉田様と振袖を大切に想っていたのでしょうね。あなたが生霊を飛ばし、人を呪いかけながらもこうして無事に生きているのは、薫様の想いが、倉田様をここに繋ぎ止めた証です。普通であれば、すでに命はなかったでしょう」
はっとしたように、椿姫を見上げる。次に恐る恐る、振袖に視線を落とした。薫の想いを確かめるように、震える手で振袖を撫でる。
「物には、人の想いが宿ります。おふたりの想いが宿った振袖を、どうか大切になさってあげてください」
「あ、あぁ……薫……」
とうとう倉田は涙を流した。皺になるのも厭わず、急き立てられるように振袖をかき抱く。
ふと、椿姫が振り返った。
「特別に、おふたりにも見せて差し上げます」
そう言って、懐から扇子を取り出したのを見て、反射的に身体が強ばる。綾子の縁切りの儀式の体験が、まだ身体に染み付いている。
だが、椿姫は扇子を開くことなく、扇子の先で寒川と柴の眉間あたりを、とんとんっと軽く小突いていった。
突然の小さな衝撃に驚いて目を閉じ、再び開いたとき、目の前の光景に唖然とする。
倉田と振袖の間に、赤黒い糸が繋がっている。紙縒神社の社務所で見た、あの気味の悪い、赤黒い毛糸のように太い糸だった。
糸は倉田が涙を流す度、その涙に溶かされるように、黒色は薄れ、鮮やかな赤色に変わっていく。
そしていつの間にか、嫌悪感を覚えたあの糸は、美しい赤色へと変貌を遂げていた。
よく見ようともう一度瞬きをしたとき、糸は見えなくなってしまった。
「どうも、ありがとうございました。……それと巫女さん、掴みかかってしまって、申し訳なかった」
「いいえ、お気になさらず」
そうして、幾分かスッキリとした表情の倉田に見送られた。少なくとも、幽鬼のような雰囲気は消え去っていた。
これで、振袖の件は無事解決した。あとは戻って、報告書を書くだけだ。
しかし、あの幻想的な光景が頭から離れず、外に出ても暫く惚けたように突っ立っていることしかできなかった。
椿姫はそんなふたりを急かすことなく、噛んで含めるように優しい口調で語りかけた。
「糸の色には、意味があります。想いの強さや繋がりの強さによって、太さは異なります。綾子様や倉田様に繋がっていた黒色の糸が、悪縁です」
「……なら、倉田と繋がっていたあの赤黒い色は? 綾子の糸とは違っただろう。あれも『悪縁』か? なぜ赤色に変わったんだ?」
「赤黒く見えたのは、良縁と悪縁が混ざってしまっていたから。あの糸はよく見ると、黒い糸に細い赤い糸が絡みついていたのですよ」
そうだっただろうか。記憶を呼び起こしてみるけれど、やはり赤黒い糸、という印象の他なかった。
「赤い糸のお陰で、呪いの進行は大幅に抑えられていた。赤色は良縁です。倉田様が薫様の想いを知り、繋がったことにより、悪縁は良縁へと変化した」
もとは、倉田と振袖を繋ぐ糸も悪縁だった。そのまま呪いに変化してしまう可能性もあった。
だが、薫の想いが、その力を封じていた。
綾子があれほど瀕死の状態でも息があったのも、そのおかげだろう。
この世には、目に見えるものだけではない、人間には到底操れない、不可思議な力が存在している。
「そういえば、倉田さんの生霊は祓われてしまったんですよね。彼、既に死にそうでしたけど、大丈夫なんですか?」
「むしろ、生霊を飛ばしていたせいで、倉田様の体調は優れなかったのですよ。あれは魂を食います。これから徐々に、回復していくでしょう」
椿姫は、背後を振り返った。
倉田家には、まだ灯りが灯っている。
◆
それからしばらくして寒川たちのもとに、綾子が快癒したとの連絡があった。
また、風に聞いた噂によると、倉田呉服店も再開の準備が進んでいるようだ。
今回の事件の協力者であり、一番の功労者でもある椿姫にも、知らせる必要があるだろう。
そう考えて、寒川はひとり、紙縒神社へと足を運んだ。柴も来たがっていたが、報告書を書き終えていなかったため置いてきた。
紙縒神社は相変わらず、大勢の人で賑わっていた。初めて来た時には眉を寄せたものだが、今ならその気持ちも分からなくはない。
紙縒神社の巫女、紙縒椿姫の力は本物だ。
鳥居を潜り、手水舎を素通りして参道をつき進む。今度は迷うことなく、社務所へとたどり着いた。
ちょうど人が出ていったので、入れ替わりに社務所の中へと踏み入れる。
「ようこそ、お参りくださいました。絵馬、お守り、おみくじ、縁に関するご相談。何をお求めですか?」
まだそんなに経っていないというのに、この定型の言葉も何だか懐かしい気持ちになる。
椿姫は顔を上げ、寒川の顔を認めると、大きな黒曜石のような瞳をぱちりと瞬いた。
「あら、寒川様。いかがなさいましたか」
「すまない。今回は相談でも、絵馬でもお守りでもおみくじ目当てでもないんだ」
寒川は社務所の扉を後ろ手に閉め、上がり框に座る椿姫の前に立つ。
「では、どのようなご要件で?」
「報告に。あなたには随分、助けてもらったからな」
綾子が快復したこと、倉田呉服店が再開の準備を始めていることを、簡潔に伝える。
椿姫は小さく頷いた。表情に変化はないが、どこかほっとしているような雰囲気を感じた。
「そうですか。綾子様も倉田様も、元気になられたのですね。少し前に、綾子様はこちらにお参りにいらっしゃいましたよ」
「そうだったのか」
そこでやっと、椿姫の傍らに置いてある小物の山に目をとめた。赤い花柄の風呂敷の上に、椿のかんざしやら扇子やら日傘やらと、たくさんの小物が無造作に積まれている。
正直、この社務所の雰囲気とは不釣り合いである。
寒川の視線に気付いたのか、椿姫は「ああ」と声をあげた。
「こちらですか。綾子様とそのご家族が、この間のお礼にとくださったのです。赤いものがお好きなようだったので、と。特に赤いものが好き、というわけではないのですが……」
「なるほど。彼女たちの感謝は、金だけでは到底表せなかったんだな」
「なぜ? 感謝は代金でいただきました」
椿姫はおかしな言葉でも聞いたかのように、柳眉を潜めた。
「なんだ、縁を扱う巫女なのに、そんなことも分からないのか」
憮然とした表情の椿姫を見て、なんだか寒川は笑いたくなった。いや、すでに笑っているのかも知れない。
散々自分に縁だの何だのと説いてみせたこの少女が、こんな簡単なことがなぜ分からないのか。
「小野屋と縁が繋がったということだろうよ。あなたは儀式を通して、様々な人との縁が繋がっていくんだな。正に、縁にまつわる神社の巫女というわけだ」
「………………その考えは、ありませんでした」
心から驚いたように吐き出された言葉に、寒川はとうとう声をあげて笑った。
そしてもうひとつ、確信めいたものが寒川の頭の中を過ぎった。
――きっと、自分と紙縒椿姫の間にも、何らかの縁が繋がった。
果たしてその縁の糸の色は、何色だろう。
いつか知る日は来るだろうか。