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「――始めます」


 室内の温度が下がった気がした。突然切り替わった静謐な空気に、寒川たちは息を呑む。

 椿姫が懐から扇子を取り出し、パンッという音とともに扇が開かれた瞬間。


「っ――――――!」

 

 身体の内側という内側から汗がぶわりと吹き出すような、心臓をひと握りにされたような、おぞましい感覚が襲ってきた。視界に火花が散る。

 重厚な天井が落下してきたかのような、全身にかかる重圧感。部屋の酸素を一気に抜かれたような、息苦しさ。

 まるで金縛りにあったかのように身体が動かず、少しでも気を抜けば意識を手放してしまいそうな圧迫感がある。

 

 (――なにがおこった?)

 

 この状況を作り出したであろう椿姫に問いかけたくても、口が思うように開かない。辛うじて唇の隙間から漏れ出るのは、少しでも酸素を取り込もうとする苦しげな濁音混じりの呼吸音のみ。

 椿姫はそんな観客の様子をものともせず、舞でも踊るように扇子を優雅に翻す。そのまま綾子と振袖の間に振り下ろし、トンと床を叩いた。

 

 ――ぷつっ

 

 何も見えないはずなのに、何もないはずなのに、確かに何かが切れる音がした。

 これが、「縁」が切れた音なのだろうか。

 同時に、綾子の喘鳴が静かになったのを感じた。


「――()()()()()


 椿姫はパチリと扇子を閉じ、懐に戻しながら言った。

 ふっと、寒川を押し付けていた鉛のような空気が和らぐ。張り詰めていた緊張が解け、息がしやすくなる。

 一体なんだったのだ。

 柴や小野夫妻も同じ状態だったのか、青い顔をして呆然と畳を眺めている。


「これで、振袖と綾子様を繋いでいた悪縁は切れました。とはいえ、病を患っていたのは事実で、身体が弱っているのには変わりありません。しっかりお休みになってください」


 椿姫の言葉に、小野夫人ははっとしたように顔を上げた。今どこにいて、何をしていたのか思い出したような顔だ。

 慌てて綾子の顔を覗き込み、呼吸が和らぎ顔色が戻っていることに、安堵の声を上げる。

 

「あぁ、巫女様。なんとお礼を言ったらよいか……! 誠に、有難う申し上げます。わたくしどもにできることなら、なんなりとお申し付けくださいませ」

「では、綾子様が快癒されましたら、紙縒神社までお参りくださいませ」

「えぇ、えぇ、もちろんですとも! 必ずや、お参りいたします」

「それから、今しがた行った『悪縁切りの儀式』の代金のお納めを」

「おい、まさか」


 嫌な予感がして、寒川は思わず腰を上げる。

 まさか、仮にも神に仕える巫女が、つい先程まで極限状態に陥っていた人間から金をせしめようというのか。これほど大きな店の主人だ、十分に金はあるだろうが、気持ちのいい流れではない。

 当の椿姫は、「何か問題が?」とでも言いたげに目を眇めた。


「もちろんでございます。ただいま包んでまいりますので、お待ちください」


 金額を伝えようと口を開いた椿姫より先に、夫人が心得たように笑顔で言った。さっと立ち上がり、踵を返して部屋から去って行く。

 椿姫は呆気にとられたように、その後ろ姿を見送る。


「一本取られたな」

「そういう問題では……」


 瞳を揺らして明らかに狼狽している様子は、かえって親近感を湧かせた。きっと、寒川のように眉根を寄せられるとでも思ったのだろう。

 分かっているならやめればいいものを。

 そんなやり取りをしていると、綾子がふと目を開いた。


「ぁ……」


 視線を彷徨わせて口を開けるが、しばらく水すらも飲んでいなかったため、かすれて音にならない。小野屋の主人が慌てて、近くに用意していた水差しで、綾子に水を含ませた。


「綾子、分かるか? お父さんだよ」

「お、父さん……。あのね、女の人が」


 まだ目覚めたばかりで、表情はぼうっとしている。しかし、何かを伝えようとしている意思が感じられる。小野屋の主人も、椿姫も寒川も柴も、綾子が必死に紡ぐ言葉に耳を傾ける。


「夢で、女の人が……あの振袖を、幸せそうに刺繍していたの。たぶん……結婚式用だったのではないかしら。誰かを思い浮かべて、幸せそうに、大事そうに、振袖を持っていたわ……」

「ああ、なるほど。だから、綾子様と繋がったのですね」


 まるで何かに合点がいったというように、椿姫はすっきりした顔で頷いた。

 だか他の四人は分からず、首を傾げる。


「袖を通しただけで繋がるとは、どうにも考えにくかったのです。だとしたら、他にも振袖と繋がってしまった人がいてもおかしくはない。でも、なるほど、この振袖にあしらわれている模様は、婚礼衣装に使われるものですね。刺繍していたというのなら、この振袖はその方の想いが募った品ということ。きっと、お見合いに着ていって、お相手がこの振袖を褒めたことで、振袖に詰まった記憶が呼び起こされたのでしょう」

「ただの着物だろう? 記憶だとかそんな、生き物みたいに……」

「生きているのですよ」


 椿姫は振袖をさらりと撫でる。


「人であろうと物であろうと、森羅万象、この世に存在する限り、想いが宿ります。それは紛れもないいのちです」

「……ではなぜ、その方は、これほどまでに美しい振袖を、手放してしまったのですか……?」


 綾子は苦しそうに問いかけるが、椿姫は飄々とした表情で流した。

 

「さあ? たくさんの計り知れない想いが、縁が、物に宿り時代を渡っていくのです。その大きな流れを理解しようなど、野暮というもの。……綾子様」

「……はい」

「――繋がるべくして繋がるのが、縁です。反対に、切れるべくして切れるのもまた縁。悪縁切れれば、新たな縁が繋がることもございます。快復ののち、綾子様に良縁が結ばれますことを、願っております」

 

 綾子は、その言葉に胸を打たれたようだった。光の戻った瞳から、すうっと一筋涙が溢れる。

 生と死の狭間をさ迷いながらも、意識はこちらを向いていたのかもしれない。縁が切られたことも、お見合いが破談になるであろうことも理解しているのだろう。そのせいでより、椿姫の言葉が胸にしみ渡るのだ。


「あり、がとう……巫女様。巫女様に出会えて、よかった」


 恨み言はなかった。それだけを椿姫に伝えると、体力の限界がきたのか、綾子は瞼を落として深い眠りについた。すうすうと穏やかな寝息が聞こえてくる。

 椿姫は綾子の言葉を静かに受け止め、そっと目を閉じた。


 それから、小野夫人が戻ってきて、二度見するような分厚さの包みを椿姫に渡した。椿姫は特に顔色を変えることなく、ひとつ頷いて受け取り、懐に仕舞った。

 小野夫妻にしきりに頭を下げられ感謝され、店の前まで見送ってもらう。椿姫が、「綾子様のお傍にいてあげてください」と声をかけるまで、下がらなかった。


 小野夫妻が中に戻って行ったのを確認してから、椿姫は寒川と柴の方を振り返る。

 

「これで、ご依頼は完了とさせていただきます。ご本人様からも多くのお納めをいただきましたので、依頼料は少しお安くしておきます」

「まだ金を取るのか……」

 

 なんとなくそんな気はしていたが、実際に言われると、呆れたようなやりきれないような気持ちになる。椿姫は悪びれた様子もなく、「当然です」と頷いた。


「ああ、それとこちら。お渡ししますね」


 思い出したように椿姫が両手で差し出したのは、綾子を苦しめていた振袖だった。本来は綾子の元に戻すはずだったが、貸衣装屋に顛末を知らせる必要があるし、綾子たちも暫くは振袖を見たくないというので、引き取ることにしたのだ。

 柴は椿姫から振袖を受け取ることなく、青い顔でこう言った。


「それ……僕の見間違いじゃなければ、二本、糸がありましたよね……? 一本は綾子さんのだったとして、もう一本はまだその振袖に……?」


 震える声とは反対に、椿姫はけろりと頷いた。


「はい。この振袖が繋ぐ縁はあとひとつ、ございますね」

「それは、綾子さんが言っていた、元の持ち主の女性ということですか? だったら、探した方がいいのではないでしょうか……。その、患っている可能性は……」

「なにも、縁が持ち主と繋がっているとは限りませんよ。それに恐らく、もうひとつは持ち主との縁ではないと思います」

「え? じゃあ、一体なにと……?」

「気になりますか?」


 椿姫の目が、三日月に細められる。

 好奇心は猫をも殺す。高くつくぞと、その目が語っている。

 きっと、ろくな事にはならない。やめておけ、と寒川が忠告するより先に、柴は力強く頷いた。


「知りたいです。その縁が繋ぐ先、見せてくれませんか」


 紅が引かれた赤いくちびるが、にんまりと笑みを作る。まるで罠にかかった獲物でも見るような笑顔だ。


「いいでしょう。ですが、今日はもう暗いですね。明日の夕刻五時に、また紙縒神社へいらしてください」

「……いいのか? 法外な依頼料をひっかけるつもりじゃないだろうな」

「法外とは失敬な。こちらは別途、()()()料金で対応いたします。……でもそうですね、相応の対価を払っていただけるのであれば、追加料金はロハにしても構いません」


 ここまで散々金だなんだと言っていた椿姫が、金ではないものを求める。寒川は本能で怪しいと察知する。

 だというのに、柴は疑うことなく二つ返事で引き受けた。


「分かりました! その対価とはなんですか?」


 椿姫は懐から、四つ折りにされた懐紙を取り出し、柴に手渡した。

 中に何か書いてあるようだ。

 柴は首を傾げながら、差し出された紙を素直に受け取る。


「調べてほしいことがあります。明日の約束の時間までに調べてきていただければ、追加料金は請求しないと誓いましょう」


 寒川は半眼になる。明らかに面倒事だ。

 この異様な状況に気付かない呑気な柴は、飼い主に芸を求められた犬のように笑顔を浮かべ、「任せてください!」と首を縦に振った。ぶんぶんと振れるしっぽすら見えてきそうだ。

 寒川はわざとらしく、大きく息を吐いた。


「引き受けたのはお前だからな。自分で調べるんだな」

「……え?」


 一緒に調べてくれるんじゃないのか、と顔を引き攣らせながら、柴は恐る恐るその懐紙を開く。カサカサと紙が擦れる音が耳を擽った。

 そこに書いてあった内容は、今回の振袖事件と全く繋がりの見えないこと。

 一体なんの目的で調べる必要があるのか。寒川と柴は、互いにきょとんと視線を合わせた。

 

 

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