捌
落雷後の僅かな静寂。一同が息を呑む音が、空気を揺らす。緊張が走る。
「みなさま、先程お渡ししたお守りは持っていますね? どこまで対抗できるかは分かりませんが、ないよりはマシなはずです」
緊迫した声色に、三人は首振り人形のようにカクカクと頷くことしかできない。
何が起こっているのか、詳細は分からない。だが、危険な状況であることだけは、身体で理解している。
人智を超えた、人間の手では及ばない、超自然的な力が働いている。
目には見えない強大な存在に、心臓を握られている気分だ。
「玄関はあっちです。急ぎましょう」
さざめく波にストン、と石が投げられた。落ち着きなさい、と叱咤するように。
窘めるような真っ直ぐな声に、寒川ははっとした。
夕子だ。
異様な場面にも関わらず、随分と落ち着き払っている。今の言葉は、朝日のものではない。
夕子が先導し、その後を大人たちがついて行く。途中、最悪な人物がふらりと出てきた。
「あれ、椿姫さん。もう雛人形はよろしいのですか?」
リビングルームの扉からひょっこり顔を出したのは、陽太郎だ。尋常ならざる状況に、彼の存在はすっかり頭から抜け落ちていた。
椿姫も同じだったのだろう。僅かに顔を強ばらせ、振り返る。
「陽太郎さま」
強ばった声がその名を呼ぶと、陽太郎はより一層笑みを深めた。
「はい?」
「……陽太郎さまは、雛人形の周りにあった宝飾品に、触れましたか?」
「はは、まさか。あれは母の物ばかりですからね」
こちらの切迫感などびた一文も伝わっていないようで、陽太郎は呑気な声で続けた。
「どうかしましたか? ちょうど紅茶が入ったところです。部屋も暖めていますから、どうぞこちらへ」
にこやかな笑みを浮かべて、一歩、椿姫に近付く。椿姫は動かない。寒川の足が前に動きかけたとき、小さな身体が横切った。
椿姫が固まっているのをいいことに、陽太郎は手を伸ばした。その手が椿姫の腕を掴む寸前、小さな手が陽太郎の手首を掴んで止めた。
陽太郎は何が起きたか分からない顔をした後、自分の動きを遮った人物を認め、小虫を見るように顔を顰めた。
「なんの真似だ」
小さな手を振り払おうと腕を振るが、強く掴んでいるのか離れない。ますます陽太郎は顔を歪める。
「この――」
陽太郎がもう片方の腕を振り上げたとき、夕子が顎を上げた。後ろを向いているため、その表情は見えなかった。
「失せろ、小童が」
びしり。
地を這うような低い声が発せられた刹那。
数百の糸に雁字搦めにされたように、陽太郎の身体が硬直した。目を見開き、口は半開きのまま。声もでない。
「"時間がない。急ぐぞ"。朝日が言っています」
夕子はくるりと回って踵を返し、椿姫、寒川、柴の横を通り過ぎる。
動かない陽太郎をこのまま放っておけば、何か良くないことが起こるのは明白だ。だが夕子の表情に、義兄に対する憐れみはない。
寒川も柴も、同意見だった。
だから逡巡する間もなく、夕子の後に続いた。
けれど、寒川の後に続く気配がない。疑問に思って振り返ると、椿姫はまだその場に留まっている。陽太郎を助けるべきか否か、迷っているように見えた。
あれだけ不快な思いをさせられたにも関わらず、手を差し伸べようとするのか。どのような人間にも慈愛を注ぐ神でもあるまいし。
「……行くぞ」
若干の苛立ちが混じった声をかけながら、陽太郎が掴むことのできなかった腕を引っ張る。抵抗はなかった。ただ、寒川を見上げたその目が、泣きそうに揺れているように見えた。
寒川は息を呑む。しかし、まずは外に出て安全を確保することが先決だ。声をかけたい気持ちを振り切り、力なくついてくる椿姫を連れて、外に駆け出した。
外は相変わらずの土砂降りだった。松林邸を訪れてからそんなに時間は経っていないはずなのに、もう数時間以上は過ごしたような感覚だ。
傘を差す余裕もない。叩きつけるような雨に全身を濡らしながら、肩で息をする。吐いた息が、白く染まっている。
十分な距離を取ったところで、松林邸を振り返る。
黒い雲が空を覆い、大粒の水滴をとめどなく放出している。改めて、この不気味さにぞっとした。
――そのとき。
鈍色の空が、昼間のように眩く輝き、心臓の奥まで響くほどの轟音と共に、一本の光の矢を放った。
神の鉄槌。
そう呼ぶには、あまりにも美しい光景だった。
光の矢は真っ直ぐに、松林邸の屋根を射抜いた。
人間は、自然の驚異には敵わない。
大勢の人間が長い時間をかけて造りあげたはずの洋館は、呆気なく崩れ落ちる。子供がアリの巣を何気なく潰すように、掃除の最中に蜘蛛の巣をさっと払うように。いとも簡単に。
しかし、それだけで気は済まなかったのだろう。
ばちばちと音を立てながら、赤い炎が見えたかと思うと、瞬く間に松林邸を舐めるように覆った。
叫び声が、家の中から聞こえる。
そうだ。中には陽太郎と、多恵子がいる。どんなに鼻につく人間でも、尊い命に変わりはない。
寒川は柴を振り返った。
雨と炎の音にかき消されないよう、声を張る。
「柴、至急、消防組に連絡を。俺は周辺の者に避難するよう報せる」
そう声をかけると、呆然と目の前の景色を見つめていた柴が、はっとしたように瞬いた。直ぐに敬礼の姿勢をとり、消防組の方へ走り去る。
俯き黙ったままの椿姫と、朝日を両腕に抱えたまま燃える実家を無表情に眺める夕子。二人の様子が気になったが、まずは人命が最優先だ。
寒川は松林邸の近くに建つ家に駆け、避難を呼びかける。
豪雨の中でも燃え続ける炎だけが、暗闇を煌々と照らしていた。
■
それから数刻もしないうちに、炎は収まった。そして次第に、雨も止んでいく。
炎は近隣の家に燃え広がることはなく、松林邸だけが消失するかたちとなった。消防組の者が言うに「この大雨のおかげで、燃え移る前に消火されたのだろう」ということだった。まるで「奇跡だ」と。
何も知らない視点から見れば、確かにそう考える方が辻褄があうのだろう。
しかし、これは神の裁きなのだ。神が望んだのは松林家の人間に対する裁きだけで、その他の人間は視界にすら入っていない。
松林邸だけが燃えるのが、正解なのだ。
「一体、あの雛人形は何がしたかったんですかね」
柴は、消防組から与えられた手ぬぐいで濡れた髪や服を拭おうとして、すぐに手ぬぐいが水浸しになり、諦めてポイと放った。
とてつもない雨に降られたのだ。多少大きな布程度で、拭えるはずもない。
「陽太郎も多恵子も、感電と火傷で重症なものの、命に別状はなし。雛人形含むその他家財は、全て燃え尽きた」
そう。陽太郎と多恵子は、無事だった。燃え尽きた瓦礫の中から二人の姿が発見され、消防組はすぐさま馬車を使って病院へと搬送した。これもまた、「奇跡だ」と言って。
故に、寒川たちはまだ、この寒空の中に放置されているわけだ。
「そうはいっても、これから奴らの人生は厳しいものになるだろう。家も、家財もない。陽太郎に人形師の才能はない」
当然、多恵子に至っても、大した才はないだろう。
案外二人には、死よりも辛い現実が待っているかもしれない。
それでも納得がいかなそうな柴をその場に起き、寒川は椿姫の元に向かった。手ぬぐいを手に持ったまま動かない椿姫の頭に、自身に渡された手ぬぐいを被せる。
「あまり役にはたたないが、何もしないよりはマシだろう」
「…………」
「風邪を引くぞ」
「…………」
紙縒神社を出たときには、「自分は平気だ」などと軽口を叩いていたというのに。
少し悩んで、椿姫の頭に被せた手ぬぐいで、軽くその髪を拭った。
手ぬぐいはすぐに水を吸い、寒川の手に張りつく。手ぬぐい越しに、椿姫の頭のかたち、体温が伝わってくる。
「……どうしたんだ。陽太郎は、無事だっただろう」
椿姫の様子がおかしくなったのは、去り際に陽太郎に声をかけられてからだ。
「……助けてあげられると、思ったのです。多恵子さまは間違いなく『神のもの』に手を出してしまっていた。神の力からは逃れられない。けれど陽太郎さまは、まだ手を出していないと、そう思っていました」
「思っていた? つまり陽太郎も、『神のもの』に手を出していたと?」
陽太郎はあのとき、「手を出していない」と言っていなかったか。
しかし椿姫は、神妙な面持ちでこくりと頷いた。
「最初は気付きませんでした。でも、物置きで雛人形の視線を受け、少しその力に影響されていたようです。最後に声をかけられた際、陽太郎さまの制服のカフスが、神力を帯びていました」
「……つまり?」
「陽太郎さまは、『神のもの』に手を出して目をつけられてしまっていた、ということです。ただ……陽太郎さまがおっしゃっていたように、『神のもの』に触れていないのも事実なのでしょう」
たとえば、雛人形が陽太郎のカフスも他の宝飾品と同じように、雛人形自身で「供え」られた。
それに気付いた多恵子が、自分の髪飾りを取り返すついでに、陽太郎のカフスも持っていった。そんな代物とは思わず、カフスはもとどおり陽太郎の制服に付けた。
だから陽太郎は、カフスが無くなっていたことも、雛人形に目をつけられたことも、知らなかった。
神はそんな人間の事情など鑑みない。人間の理から外れた世界に存在している。「神のもの」に手を出した代償は、等しくあるべきだ。
神とは、そういう存在なのだ。
「神に人間の理屈は通じない。分かっていても、やはり苦しいものがあります」
「…………」
寒川は考える。
多恵子が主犯とはいえ、陽太郎だって夕子へ辛く当たっていた。当然の報いだと、思わなくはない。
しかし椿姫は、それでも助けたかったと言う。夕子に対する態度と、今回の神の裁きはまったく別物だと考えているのだ。
柴の言う通り、雛人形が何を思って宝飾品を盗み、報復を与えたのか。人間であるが故、寒川にも椿姫にも分からない。これこそ、神のみぞ知るだろう。
「……やはり、あなたは優しい」
「…………なぜ、そうなるのです」
椿姫は不服だ、と言わんばかりに顔を顰めた。そして思い出したように、持っていた手ぬぐいで、濡れた顔や着物を拭ったのだった。




