くつしたの大切な白い扉
どうも頼りないアームに引っかかったマイナーなキャラクターのぬいぐるみが持ち上がって、ついぞ素直に運ばれるのを黒髪の女子高生がかぶりつきで見つめている。アームが人形を離し、ドデカいそれが取り出し口にぼとりと落ちるのを見て、「くはー!」とビールをあおったおじさんのような声を上げた。ばたばたとしゃがみこむとクレーンゲームの機体の中に入りそうになりながらぬいぐるみを引っ張り出し、勢いよく頬ずりをする。
「サイコー! にーに大好き!」
ひかりが黄色い声を上げるのに、景品を取ってやったあめが苦笑いを浮かべる。ふふ、と三つのカバンを持つ白髪交じりの髪のそらが微笑んだ。普段、よく似た黒髪の妹が『にーに』だなんて呼ぶのはあめに買い物をさせたいか彼女のよくわからない発明品の実験をさせたいかの二択なのだ。
「調子のいいやつだな。次のバイト代で返せよ」
「お兄ちゃんのお金でお兄ちゃんが取ったから返さなくていいもーん。へへっ」
「僕の金でなんべんも取り損ねた分は?」
ひかりはぬいぐるみを振り回しながらあめに背を向けると、「そらくん、カバンありがとー」と二人のカバンを預かっていたそらに片腕を伸ばした。そらが首を横に振ると、彼の短いポニーテールがぷるぷると揺れる。
「いいよ、俺が持ってるからひかりちゃんはそれ持ってな」
「たはーっ」ひかりが腰を落としながらそらを指差して、マンガのキャラのようなポーズを取る。「モテ男」
「満足したんなら帰るぞ。夕飯も作らなきゃだしくつしたの世話もしなきゃ」
あめは腰に手を当ててため息交じりに言った。学校が終わってから、もう二時間はゲームセンターで遊んでいた。いくらここと家が近いからって帰るのが遅くなりすぎる。
「やだ! もうちょっと遊ぶ!」
ひかりが子どものようにだだをこねると、そらがなにかを思い出したようにぱっと表情を明るくした。「ね、上の層で最近新しいスイーツ屋さんができたらしいからさ、そこに寄るのは? 俺もまだ遊び足りないしさぁ」と提案する。
兄妹は普段あまり外食をしないから、ひかりはあめを見上げた。それはもう、かわいくぬいぐるみに顎をうずめ、目をくりくりと丸くして。
「にーに……お腹減っちゃったな~……」
「……、……しかたないな」
「よしっ」
そういうわけで、三人はゲームセンターの外に出た。自動ドアが開くと、立体的に入り組んだ回廊とどこまでも黒い夜空が彼らを迎える。時間感覚が狂って、あめは思わず携帯で時刻を確認した。まだ五時半を過ぎたばかりだ。
常に夜。それから、スケールが〈町〉スケール。それが〈夜の町の部屋〉の特徴だった。少し冷ややかな鉄製の道に根元の見えない細い支柱がついただけの地面に大小さまざまな建物がぽつぽつと建っていて、そこに入っているテナントの明かりが星の一つのように煌々としていた。
あめは意外と、下層の提灯やネオンサインが上の層をぼうっと照らすのが好きだ。今いる中層にはよりさまざまな店舗や研究施設なんかがあって、上層は公園と、景観を重視した見た目のカフェなんかがいくつかあるだけで、静かに満天の星空を楽しむことができる。〈夜の町の部屋〉は有名な繁華街であると同時に、定番のデートスポットだ。そらの言う新しいスイーツショップというのは、上層にあるらしかった。
「こういうパフェが売ってて、星空と撮ると映えるんだってさ……」
「わたあめのってる。かわいー」
かんかんと薄い縞鋼板をローファーが蹴る。そらがひかりにSNSの写真を見せていた。上層に上がると、街灯ひとつない道に目が慣れて隠れていた星がひとつひとつ輝き始める。空中を歩く足が竦みそうな浮遊感も、錆びた手すりがべたつく感触も、アイスを食べるには冷たい風も全て星空のためにあるような、完成された美しい世界にいた。初めて訪れた瞬間と変わらずに心を奪われて、冷たくて澄んだ星空が額から自分の中に満ちるような感覚に体を預ける。
「あめ」
あめがすっかり星空に意識を飛ばしていると、とん、と肘でつつかれる。そらが照れ臭そうに笑みを浮かべながら、ファンシーな色合いのアイスパフェをあめに差し出していた。
「ここに来るといっつも魂抜けるよね、あめは。俺の〈部屋〉大好きなんだからぁ、も~」
あめは手すりにもたれかかってカップを受け取り、周りを振り返った。広場になった空間のはじにキッチンカーと折り畳みの丸テーブルが広げられていて、そのうちのひとつにひかりとぬいぐるみが着席している。その景色はとても穏やかだった。誰もがこの星空に受け入れられている、星空は全て受け止めてくれるという安心感に表情を緩めている。
ずず、と一人ホットチョコレートを飲むそらの、今や白色の方が割合の多くなってきた髪が夜風に揺れた。他人が心なく〈部屋〉にあるなにかを持ち込むか、持ち出すかすると、それがもとの場所へ戻るまで部屋主には脱力感やめまいのような症状が現れる。そらの髪はその慢性的な体調不良に晒され続けた結果だった。星空はなにも許容してなどはいないのだ。他人が優しい人間に甘えて、勝手に心救われているだけで。
また明日、学校で! と挨拶を交わして、あめとひかりは〈夜の町の部屋〉の中でそらと別れた。人混みではぐれないようにしながら〈部屋〉の中心にあるタワー状の建物に入ると、〈町〉に繋がる大きな鉄の扉が開きっぱなしで人を吐いたり吸い込んだりしていた。あめたちも順に並んで外に出ると、〈町〉はちょうど真っ赤な夕暮れを見せていた。さっきまで真夜中の中にいたから、思わず時間が逆行したような変な感覚になる。
あめやそらたちの暮らす〈金木犀町〉は巨大な金木犀の木の幹——これも、葉や枝の重なりで根は見えない——を中心に広がった街だ。〈夜の町の部屋〉より上下感が少なく、平らに大きい。それからいつも空からは木漏れ日が落ちて、秋になると小さな金木犀の花が降り注ぐのが特徴だ。夕焼けと黄金色にきらきらと舞う花は綺麗で、ひかりが歩きながらぱしゃりと写真を撮る。
兄妹が住むマンションの扉を開け、二人はただいまと家の奥に声をかけた。にゃん、と小さく返事が返ってきて、白い靴下を履いたキジ白がリビングから顔を出す。
「くつした~、遅くなってごめんよー」
ひかりがカバンも持ったままくつしたに駆け寄って、むにむにとその肥満体を撫でまわした。あめはそれを横目にソファにカバンを放り投げて、急いでくつしたのためにキャットフードを用意する。給水機の隣に皿を置くと、くつしたは即座にひかりの手の中をすり抜けてあめの足の間をくぐり抜けた。
「あーん」
「ひかり、米炊いて」
「はーい」
ひかりは立ち上がってよたよたと数歩前に歩くと、テレビ横の戸棚の前で足を止めた。小さな写真立てと、くつしたが落としても割れないようプラスチック製の花瓶を覗き込んで、「きりちゃん、ただいまー」と微笑む。写真の中で幼い兄妹と満面の笑みを浮かべているのは、二人の母親だった。ひかりが彼女をきりちゃんと呼ぶのは、父親がよくそう呼んでいたからだ。
今はもう、二人には母親も父親もいなくなってしまった。
元々は普通の家庭だったけれど、あめが小学校に上がる直前、両親は不仲を理由に離婚した。離婚を機に母親は常に緊張した性格に変わってしまい、専業主婦でキャリアがないからと称号持ちだったあめの〈雨の町の部屋〉を勝手にホテルに改装してしまったのだ。
人にはそれぞれ、ひとつ〈部屋〉がある。それは小さな一室だったり、館のようだったり、明らかに部屋の概念を越えた、屋外のような空間の中に回廊が巡り、空っぽの建物がいくつもあったりする。その中でそらの〈夜の町の部屋〉やあめの〈雨の町の部屋〉は〝称号〟として認められた名の知れた〈部屋〉だった。〈部屋〉から見える景色の先にすら触れられず、まだ解明されていないことも多いこの世界で、潤沢な資源や安定した環境は貴重だ。称号はそれらを提供できる価値のある〈部屋〉の持ち主を称えるものだった。
うまくやれば、確かに〈部屋〉を使ってその代償にふさわしい地位と権力を得ることもできるのだろう。だけど脱力感やちょっとした体調不良なんてやっぱり軽んじられてしまうし、なにより未成年はステータスや金のなる木に目がくらんだ親の選択に逆らえない。
それ以来あめは母親を避けてずっと生活していたけれど、それからしばらくして、母親は結局和解もすることなく病気になって死んでしまった。父親が責任者に立ち代わったホテルと、母親がいつだか拾ってきた小さなキジ白は忘れ形見だ。
もう寝るころ、あめはくつしたを抱いたまま二階に上がった。茶色の床板が体重できしきし鳴って、お前、重いなぁなんて言ったりする。家の壁に全然合わないひかりの鉄製の扉の隣にある、地味な暗いグリーンの扉のノブを捻って、開いた。
……ざああ、とくぐもった雨音があめを迎える。いつになく雨足は穏やかだった。多分、そらの〈部屋〉へ行ったからだ。あの夜空はあめの精神安定剤だから。
玄関の土間の部分を大股で越えてくつしたを床に離すと、くつしたは慣れた足取りで部屋の奥へ進んだ。長毛気味な上に太っているから、なんだか軽やかさのないのそのそした動きである。湿度調整のために空調だけは立派な散らかった1Kの部屋を、外からの波打つ光を頼りに歩き、あめはベッドに腰掛けると窓の外を見た。雨にかすんだ景色の中に、明かりのついたコテージ式の客室とホテルの本館が見下ろせた。
空の建物が数えきれないほどある町スケールの〈部屋〉にも、主寝室というものはあった。もう一度この部屋の玄関扉のノブを握れば、あめは〈雨の町の部屋〉を散歩することもできるし、再度家の廊下に戻ることもできる。だけど誰かがホテルとしての敷地外を歩く男子を見て、ああ、今日は雨足が穏やかなのは彼の機嫌がよかったからかと知るなんて考えただけで恐ろしかった。
「くつした……寝よう」
声をかけると、くつしたは心得たと言わんばかりにまっすぐあめの枕元へ来て丸くなった。彼女は十五歳で、人間ならあめやひかりよりずっとおばあちゃんなせいか、面倒見がよく時々二人の姉のように振舞う。離婚や〈部屋〉を改装されたあめのショックを癒すように付き添って過ごしたのが習慣になり、今はあめの寝室で眠るのが日課となっていた。
ざあざあ、しとしと、と雨音が暗い部屋に響くのに耳を澄ませながら、くつしたの白い前足を手で包み込んで撫でる。そうしているとあめに常に付きまとう不安感がふっと消えていって、すぐに眠り込むことができるのだった。
******
「ねぇ! お兄ちゃん!」
次の日の二時間目あとの休み時間、三年のフロアに黄色い声が響き渡った。ただでさえ称号持ちが二人いて、しかもつるむから常に目立っている教室に一つも躊躇することなく飛び込んできて、ひかりがあめの前の席の椅子に座る。
「……ためらいないね、ひかりちゃん」
窓際の壁にもたれてあめと話していたそらは苦笑いをして言った。「見て!」と彼女がガラケーを改造したモニター付きリモコンを突き出すのに、あめとそらはその小さな画面をのぞき込む。ざらついた画面に映っているのは、家のキッチンだった。
「今、『やせるくん』起動しようとしたら、家のどこにもくつしたがいないの! しかも、よく見たらキッチンの窓が開いてて!」
ひかりは、本人が〈ガラクタの庭の部屋〉と名づけた、寝室の外の丸い敷地の上にスクラップの山積みになった〈部屋〉で発明品を作るのが趣味だ。
『やせるくん』とは、彼女がくつしたのために作ったものの、くつしたがビビって近づいてもくれなかった『あそぶくん』に移動機能を加えたロボットである。その外観は男の子を模しており、スイッチを入れるとくつしたを認識して階段をものともしない大きなキャタピラで追いかける。また、ペットカメラとしての機能もあり、ひかりが学校にいる間くつしたの様子を見るために使っていた。
あめが『やせるくん』についてそう説明すると、そらは「痩せそう」とコメントした。
「あー、くつしたの首輪にGPSつけとくんだった……。あぁ~~……」
ひかりが珍しく落ち込んで、あめの机の上に突っ伏す。
「大丈夫だろ、くつしたが脱走するのは初めてじゃないし、すぐ自分で帰ってきた」
「でも、それもウン年前でしょー……あー、おばあちゃん猫のくせに元気なんだから……。お兄ちゃん早退して探してきてよぉ~」
「行きたいやつが行けよ」
「あたしは、今日再テストなの……」
そんな話をしている間に次の科目の教師が入ってきて、しかもひかりに再テストを命じた教師だったらしく、彼女に早く教室に戻るように促した。「人のクラスでだべってないで予習しなさい」とひかりが追い出される。
ちりっと黒板の上のスピーカーが独特のノイズを流し始めて、そらも自分の席に戻ろうと窓にもたれているのから姿勢を立て直す。チャイムが鳴り始めた瞬間、「うおえあおわ」から始まる言葉にならない叫び声が階段の方から響き渡った。ざわつく教室にどたばたと頬を紅潮させたひかりが戻ってきて、両手に抱えたものをあめに向かって掲げた。
くつしたが興味深げにきょろきょろとして、あめは頭を抱える。その肩にそらが手を置いた。
「にゃあん」
飼い猫が勝手に来てしまったということで、二人に授業を遅刻した以上のお咎めはなかった。くつしたは困った末に、教師の一人が教科書やらを持ち歩くために持っていたカゴに入れられて大きなファイルで蓋をされ、会議室で隔離されている。
放課後、再試のひかりを待つついでに、あめはそらと会議室へ向かった。デレデレしながらカゴを覗いていた校長先生に幽霊を見たような顔をされたあと、くつしたを回収する。平べったい指定カバンには力不足だったため、しかたなく抱いて一年のフロアに向かうと、死ぬほど二度見された。
「……ぐっ……しゅんっ」
ひかりと監視の教師だけがいる教室の前で待っていると、そらが湿ったくしゃみをして首を傾げた。「あれーもしかして俺猫アレルギーかなー」と鼻声で言い、しぱしぱと目を瞬かせる。
「さっき撫でちゃったからかもー、手がかゆい」
「外歩いたから毛づくろいしたか」母親も毛づくろいあとに撫でて顔をぐしゃぐしゃにしていた。あめはくつしたを見下ろしながら言って、「手と顔洗ってこい」とそらに勧めた。
「うん……」
そらがトイレに向かうと、教室内から時間切れを告げる声と抵抗する妹の唸り声が聞こえた。少しして教員とひかりが教室から出てきて、そらもいくらかすっきりした顔で戻ってくる。
「英語はなー、やっぱり日本人にないものじゃん?」
「でもひかりちゃん、プログラミング書くじゃん」
「あれはまた全然違うのー」
あめを挟む二人のとりとめのない話を聞きながら、あめは人の腕の中で昼寝をし始めたくつしたに気づいた。抱え直してやりながら、三人の高校があるのは〈駅〉を挟んだ別の〈町〉なのに、どうしてくつしたはここまでたどり着けたのだろうと思う。
「猫って、犬みたいに人の匂い追えたっけ」
「ん?」
「ほえ?」
〈駅〉は一つの政府が統制する〈町〉への扉を全て集めて移動できるようにした大きなドーム状の建物だ。四桁の数えきれないような数の〈町〉の扉や、開放されている称号持ちの〈部屋〉へ直接遊びに行ける扉もあって、勘であめたちのいる場所へ向かえたりなんてできたもんじゃない。くつしたが賢すぎて、文字でも読めるようになっているんなら別だけど……。
「あっ」
改めて〈金木犀町〉に入ったとき、くつしたが不意に目覚めて、あめの腕から飛び降りた。ちらりと三人を見上げると、長いしっぽをふりふり先立って歩き始める。
「くつした?」
三人が困惑して目で追うと、彼女は待つように振り返ってその場でこてんと腹を見せた。ひかりが撫でに行くと、すかさず起き上がってまた歩き始める。
「に、人間の扱いをわかってやがるぜ……!」
「ついてこいってことかな?」
そらがくすくすと笑いながら言った。
くつしたは一切の迷いなく、どこかへ向かってまっすぐに歩いた。ただしそのルートは猫製で、人間たちは人の家の塀の上を歩いたり、金網をもぐったり、絶対見つかったら怒られるような場所を闊歩することを迫られることとなったが。
「家通り過ぎたね」
木漏れ日の落ちるさびれた道を進みながら、ひかりが機嫌よさそうに言う。そろそろ〈町〉のはじまで来る。くつしたは変わらず三人の前でぽてぽてと進み続け、ある交差点をふらっと曲がった。そこから、数段下る短い階段を降りたそうだが降りられずにまごまごとする。
「お墓、か……」
三人は、他の場所より少し低い位置の広場を見下ろした。どうしても口は重くなり、一匹にゃあにゃあと鳴くくつしたを抱き上げ、あめは無言のまま黄色い花の敷き詰められた階段を降りる。なにより、ここにはあめとひかりの母親の墓標があった。
「うるる」
「わかったよ、次はどこだ」
「なむ」
くつしたはあめの腕から降りると、いくつも並んでいる古い扉の間を縫って、ある白いペンキのはげた扉の前であめを振り返った。
「墓参りさせたかったのか?」
花束を添えられた周囲の墓に対して、そのボロボロの扉の前には青々とした夏の名残が残っていた。
「にゃうん」
くつしたは、あめたちの母親の扉の隣に建てられた一回り小さな扉に近づくと、それを爪でかりかりと引っかいた。それは以前まではなかったものだ。三人がそれに気づいて近くを囲むと、くつしたが前足を上げて立ち上がり、真っ白い扉のレバーに足を引っかけた。
かちゃ、と小さな扉が開く。とすんと重たそうに前足を着地させて、彼女はまばゆい光を漏らす世界へ消えていく。中から、にゃんと催促する声が聞こえて、三人は顔を見合わせておずおずと彼女のあとを追った。
目を閉じながら真っ先に足を踏み入れたひかりは、かつん、と足がきちんとした地面に触れたのに片目を開けた。扉の先に広がっていた世界に、ふおおと興奮した歓声を上げる。
「すごい! お兄ちゃん、これくつしたの〈部屋〉だよ!」
あめは中腰になって扉をくぐったあと、ひかりが背にする光景を見て目を見開いた。紙と針金で作られたぽんやりと発光する金木犀の木と、コンクリートの上に置かれた、子どもが考えたような甘い造形の紙風船の建物たち。それは、〈金木犀町〉を真似て作られた〈部屋〉だった。
本来、動物は〈部屋〉を持たない。それをわかっているのか、にゃん、と駅の看板の下でくつしたが自慢げに一鳴きする。彼女はまた三人を連れて歩き始めた。朝焼けだろう、深い藍色とこっくりとした黄色が層になった空と冷たい風が白い金木犀の木を揺らして、小さな紙の花がくるくると落ちてくる。
「〈白い紙細工の町の部屋〉……ううん、〈金木犀の町の部屋〉」
「それより、〈朝焼けの町の部屋〉でしょー」
「じゃ、〈朝焼けの紙細工の金木犀の町の部屋〉」
自分の後ろでそらとひかりがくつしたの〈部屋〉を名付けようと議論しているのに、あめは雑な結論を下してその議論を終わらせようとした。語呂が悪い、と一蹴される。
「くつしたはどれがいい? いち、〈紙細工の町の部屋〉……て、おっとっと」
「ねぇ、二人とも『白い』が重要なんだから勝手にカットしない、で……」
ぴょん、と言い争う人間たちを尻目に、くつしたが紙で造形された塀の上に飛び乗る。彼女が振り返って人間を待つけれど、ぼむぼむ、とあめが叩いてみたその塀はどう見ても紙と針金だけでできていて、人間が歩けそうな道ではない。
「よし! 私に任せて……」
ひかりはくつしたを膝の上に抱きかかえると、その首輪を少し緩めて、『やせるくん』のリモコンを挟ませた。塀の上に戻されたくつしたが首を竦めてとても不満そうな顔をする。
「私の作ったものは全部居場所がわかるようにタグつけてるんだ! スマホのアプリで追えるよ」
ぶすくれながら走り出したくつしたに、ひかりはスマホを見て、あっちから回り込もう、と二人を先導して歩き始めた。しかし少しすると、「あれ?」と言い出して、やがてほとんどスマホを見ずにどこかへ走り出す。
「くつした! 怖いよ⁉ 今無限ループ系ホラーだよ⁉」
ひかりが息を切らしながら墓場へ駆け下りて、ひとつぽつんと立つ白いペンキのはげたボロボロの扉の前で待っていたくつしたに訴える。にゃんとくつしたが鳴いた。
「また扉に入ればいいの?」
ひかりが無邪気に言って、くつしたが物わかりよく返事をする。くつしたを抱き上げ、あめは母親の扉を開いた。
母親の〈部屋〉は狭いものだ。部屋の中心から腕を伸ばせば、家具の全部に手が触れるような狭い部屋はあめの寝室とも似ている。暖かくてよい匂いがして、どんな綺麗な風景を持つ〈部屋〉よりもここにいるのが好きだった。
それから、寝室の下の階の水場へ繋がる外階段。〈霧の部屋〉の愛称の通り、この〈部屋〉はいつも霧がかかっていて、きらきらと小さな水滴がいつも輝いていた。あめとひかりはそれを掴もうと錆びた手すりから身を乗り出すから、上の階の窓から慌てて腕を伸ばす母親に首根っこを掴まれて、『ちゃんと見ててよ』『あとタバコ吸わないでって』と母親が父親を叱って、『ごめんきりちゃん』といつものように謝るのだ。
ずび、と階段に座ったひかりがぼんやり霧の光を見つめながら鼻をすする。壁にもたれて一つ上の段に座ったあめは、迷った末にぽすんとその頭の上に手を置いた。まだこの場所は、あめにとって心地よかった。ほとほと愛想を尽かして、怒鳴り合ってケンカしても、まだ母親に希望的観測を持ち続けた幼い男の子が手のひらの下に座っているような心地がした。
「なんか、記憶より狭いねー」ひかりが呟くように言う。「おっきくなったんだねー」
「……」
兄妹の追想の邪魔をしないよう、そらは寝室のなかでそれを聞いていた。くつしたと同じ部屋にいるとどうしても症状が出るので、いっそのことと思って抱き上げる。ふわふわである。
「俺たちはシーだね、くつしたちゃん」
くつしたはそらには返事をしなかった。後ろをきょろきょろして部屋の中の丸テーブルを気にするので、そらは彼女を机の上に差し出してやる。子ども用の折り紙や文房具がいっぱいに置かれている中で、ひとつだけ書き込まれた便箋があるのを見つけて、なにげなく文字を目で追った。
「……あめ、あめ!」
そらが勢いよく部屋の窓から顔を覗かせるのに、二人は慌てて涙を拭いながら顔を上げた。そらが差し出す便箋に、「それどしたの?」とひかりが言う。
「これ……あめとひかりちゃん宛てっぽい」
あめは手を伸ばせず、ひかりが受け取るのに顔を寄せて文面を覗き込んだ。自分が母親の字を判別できるなんて思いもしなかった。もう何年も見ていない、小さくて癖のある字が『おてがみありがとう』と綴る。
ふたりからすてきなてがみをもらえて、おかあさんはうれしいです
またこうえんで、
あそぼうね、と続くけれど、その五文字と、次の行は少しだけ筆跡が違った。まるで数日日を開けてからまた書き始めたような小さな差が、そのあとも数行ごとに現れる。
あめとひかりは、わたしのだいじな宝物です
パパもママのことはきらいだけど、ふたりのことはだいすきだよ
でも、信じてもらえないよね
はたらいたこともなくて、私もお母さんしかいないからふたりのことを育ててあげられないと思ったけど、私はまちがえた こんなことになるなんて知らなかった
でもお金がない
あめのねつが下がらない ごめんね
それは、母親の心の中に仕舞い込まれた二人への本音だった。もうどこにも繋がらない扉の先に失われてしまったものが今、唯一彼らの心の中を渡り歩いたキジ白の猫によって届けられる。
今から入院しに行く。
パパに色々とお願いしたから、きっと二人は大丈夫。私が帰れても、帰れなくても、もうホテルは閉めよう もう閉められる
ひかり、私とあめがうまくしゃべれなくなってから、ずっと助けてもらったね
ひかりが一番不安で怖かったと思います。ごめんね
あめへ、どうしようもないママでごめんね。帰ったあとぎゅーしたら怒る?
これはおてがみでした。読み返していて思い出しました。
ふたりとも愛してるよ ママより
「これを見せたかったのか」
あめが窓枠に立つくつしたの顎を撫でると、彼女は喉を鳴らしながらあめの指を舐めた。ひかりと、なぜかそらがぐすぐすと泣いていて、あめはくすりと笑う。すん、といっぺん鼻を鳴らして、腰に手を当てて立ち上がる。いい気分だった。
「これを持って帰ろう、ひかり。立てるか」
「……うん」
「も、もういいの」
顔中がべしょべしょになったそらが立ち上がった兄妹を見て言う。「ここでもうちょっとゆっくりしてもいいんじゃない」
「そらが泣き止む時間がほしいんだろ」
あめが意地悪に笑って返すと、「うん」とド正直に答える。
父親に手紙を見せて、そのあとはどうなるだろう。ホテルの扉をぱちりと締め切っても、〈雨の町の部屋〉はけして元通りにはならない。家族の分だけの傘は傘立てに残っているし、ホテルの跡は残るだろう。だけどそれが、あめがこの世界に生きた証だった。誰かがこの〈部屋〉にいた証だった。
かちり、とドアノブを握ると軽い金属の音がした。あめが白い扉をくぐって、その後ろをくつしたとそらが追いかける。
「……ばいばい、きりちゃん」
最後尾で、手紙を握りしめたひかりは暗い部屋に向かって小さく声を投げた。彼女が出て行くと、ついに部屋には誰もいなくなる。
母親の扉から出ると、そこは朝焼けと白紙の金木犀の世界ではなくて、夕暮れと黄金色の花の舞い落ちる〈町〉だった。振り返っても腐りかけの扉が一つあるだけで、先ほどまでいた世界は幻だったように消え去っていた。
「なおん」
仕事を終えてすっきりしたとばかりに、くつしたがにゃおにゃおと喋りながら三人の足元を跳ねまわる。あめがそれに表情を緩めると、くつしたは不意に虚空を見上げながらくるりとその場で八の字に回った。まるで、四人目の足がそこにあると言わんばかりに。
「——くつした!」
ボロボロの扉の前でくつしたが突然倒れ込む。その胸が異様に痙攣するのは恐ろしい光景で、あめとひかりは慌てて老猫の前に膝をついた。
「吐いたっ、ああっ、ダメだよ、くつした」
狼狽するひかりに、あめはくつしたをすぐに抱き上げて立ち上がる。墓場の階段を駆け上がって急いで町の方へ向かったけれど、腕の中で重くなっていく小さな体にだんだん足がもつれて、木の陰の下で立ち止まった。
「……あめ」
追いかけてきたそらがあめの肩を抱く。顔を見ないようにしてくれるのがありがたかった。
「おばあちゃんだったんでしょ、きっと寿命だったよ」
「……、……」
「さ、ひかりちゃんとこ戻ろう……。それで、くつしたにありがとうって言おう」
******
ペンキを塗り直されたばかりのピカピカの扉の隣に、地面が掘り返された跡があった。あめはそらと一緒に屈んで、その後ろに小ぶりな真っ白の扉を設置し始める。
「きりちゃん、くつした、また来たよー」
二人がこんこんと子気味よい音を鳴らしている間に、二つの花束を持ったひかりがにこにこと扉に話しかけた。母親の扉に丁寧に花束を立てかけたあと、二人がくつしたの扉を立て終わるのを待って、もう一つの花束も置く。
「よっこらしょ」
「あめ、しゃがむのに掛け声かけないで」
そらが笑いながら扉の前にしゃがむと、三人は手を合わせて目を閉じた。その髪につむじ風が巻き上げた金木犀の花のシャワーが降り注いで、三人はお互いを見て笑い合う。
冷たく甘い秋の匂いがした。