エロティカ帝国
エロとかグロとかあります。ご注意ください。
二〇三五年、アダルト動画のサブスクリプションサービスを提供する巨大IT企業、合同会社dπ&πが四国に会員を集めエロティカ帝国の建国を宣言した。セクシー映像の制作を寛大に認める憲法が公布され、即日で施行された。このエロティカ憲法では欲望をさらけ出す権利、すなわち「欲望権」が認められた。
(エロティカ憲法 抜粋)
第二十一条第一項:他人の欲望を何人も阻止することは出来ない。
第二項:第一項において他人の欲望を阻止する欲望は認められない(但し、セクシー映像の制作における権利はこの限りではない)
一企業が国家からの独立を画策する動きは、世界中で広がっていた。それは一過性のものではなく、いまや世界的トレンドへと育ちつつある。実際にdπ&πの独立宣言は世界規模で見て、一四番目の独立騒動であった。巨大IT企業は国家予算を上回る規模の利益を上げているが、税金を納める義務からは常に逃げ続けている。国際間にまたがる脱法とも呼べる複雑なスキームを開発し、各国政府の目を欺いてきた。議会も黙ってはいない。適時に法改正を行い、市場における富の集中を分散させるべく対抗する姿勢を貫いた。いたちごっこのように課税回避と法改正が繰り返される中、巨大企業は一つの結論を導き出すことになる。自らが建国をし独立国となることで徴税を免れるという結論だ。各国政府は当然にこれを認めることはなかったが、巨大企業は自らが抱える多くのユーザーや会員を一所に集めて、地方行政を掌握する方針へと舵を切った。
独立の画策は念入りである。独自の仮想通貨を流通させ、民間の自警団を組織し、インフラ企業の株を買い占める。政治家を次々に送り出し、議会を手中に収めればその土地は企業の実質的な支配下となる。最後に首長が独立を宣言すれば良い。
建国には二つの要件を満たす必要がある。一つは他国からの承認を得る事。何処でもいいが、より多くの強い国家から「国」として認めてもらえれば、その国家は自称から客観的な国家へと昇格する。エロティカ帝国も三つの新しい国から承認を得た。もちろん莫大な資金と引き替えに。そしてまた別の巨大な歴史のある国家――しかも常任理事国だ――から正式な国家として認められ、軍事同盟を結ぶ事を建国と同時に公表した。こうなっては中々、手出しが出来ないことは言うまでもない。日本政府は自衛隊の四国派遣を見送る方針を決めた。その後、四国内に駐屯していた自衛隊約三千人は駐屯地を放棄して本州へと帰還した。
建国要件の二つ目は、核となる理念の存在だ。古来より民を一つにまとめるため、権力者たちは心を砕いた。東では儒教が利用され、西ではキリスト教がその役割を担った。エロティカ帝国の理念は言うまでもなく欲望だ。根源的な欲望、この力で国家を成り立たせようと目論む。dπ&πの現会長CEOである谷垣が記者会見で語った言葉は、次のようなものだった。
「我々はいち早くセクシー産業のIT化に乗り出し、セクシー産業の拡大に貢献してきた。そこから映像制作に関わる多くのクリエイターたちが生まれる土壌を作った。しかし、いまや日本という国はクリエイティブの欠片も失い、ベルトコンベアみたいなものづくり小国に没してしまった。全ては二〇年前のあの日、モザイク拡張法案が衆院本会議を通過したのが元凶にあると私は確信している。あの日から衰退が始まった。リアルさのない映画、配慮しすぎた漫画、モザイクだらけのアニメ。我々が目指したビジョンは何一つ実を結ばなかった。私は強い責任を感じている。表現においてこの国を牽引する立場にありながら、衰退を招いてしまった事を。一企業の長として詫びたい。そして再び取り戻す事を誓う。失われた過去の栄光を、JAPAN IS HENTAIを。四国の地から改めてスタートさせる。性欲の減退したじじいとばばあから主権を取り戻すのだ。身勝手な倫理観を押しつけてくるモンペどもに屈してもならない。ケツからクソを捻り出して奴らのマイホームの表札にでもこすり付けてやれ。それがHENTAIだ。血の気の多いオスとメスを四国に結集させる。まずは建国だ。表現の自由は、このエロティカ憲法で守り抜く。有料会員たちよ一つになれ。欲望をさらけ出せ」
HENTAIとSHIKOKUはその日の世界トレンドとなった。多くの人々がネットで議論を交わした。だが、渦中の日本ではトレンドにならなかった。いや不自然にもトレンドから抹消されていた。国内サーバ経由で関連記事へアクセスを試みると、肝心な情報は歪曲される。モザイク監視委員会が直ちにホームページを更新して新たに五つのネット禁止用語が追加された。エロティカ帝国とエロティカ憲法、dπ&π、独立、そして四国及びSHIKOKUだ。これらの発言はモザイク拡張法の元、削除又はAIによる適切な修正が加えられる。悪質な脱法行為が見つかれば発言者だけでなく、サーバー管理者までも逮捕され、全資産を没収されるか、塀の中で教育プログラムを施される。それは脳内に電極を刺して思想を改竄されると噂されているが、具体的なプロセスは公開されていない。
かくして事件のあらましと真実はネットの海で錯綜し、報道記者たちは明後日の方向に議論を重ねる。これらの話題は一週間もすればアヤフヤになって、また別の関心事へ世間の目は向けられるだろう。世の中は常にそうして流れて行く。それを執筆者の私も重々承知しているため、公に真実を暴くことはしない。
ここでは一人の男の話をしたい。
エロティカ帝国へ単身乗り込んだ男の話を――。
* * *
赤坂にあるメディア会社で働く奥川は、一連の出来事を記事にするためエロティカ帝国行きのビザの取得を行った。滞在期間は二日間と短いものだったが、それ以上の滞在を許可されるケースはそもそも稀であった。エロティカ帝国の独立発表を受け、四国行きの便はいまやほぼ欠便状態。限られた特別便だけが成田から出ている状況に置かれていた。個人的理由での渡航はほぼ全て拒否されているとネット記事で見かけた。奥川も個人でビザが取れなかった。そのため会社の取材という名目で何とかビザの取得にこぎ着けた形だ。渋谷区にあるdπ&π所有の持ちビル内三階フロアが全てエロティカ帝国領大使館となっている。奥川はそこでビザを発行してもらった。多くの人が押しかけていた。強固な入国規制は四国情勢が落ち着くまでは当面、続くと見られる。
奥川は赤坂にあるオフィスに足を運んだ。所属する社会部の島に課長である根岸がいた。奥川が自らの席に近づいてゆくと、根岸がパソコンから視線を離してこちらを見た。一瞬、眼鏡の奥にある細い瞼が大きく見開かれたかと思うと、すぐ呼び止められる。
「おい奥川。おまえ、ミーティングにも参加せず何してんだ。いまどうなってるか知ってるのか」
「すみません、課長。仕事どころじゃなかったんです。ビザが取れました。昼の便で徳島へ行きます」
奥川の言葉を聞いて、根岸が立ち上がった。学生時、バレーボールで全国大会に出場した経験を持つ根岸が頭二つ分、高い所から見下ろしてくる。威圧感とは対照的に、鳩に摘まれたような表情をしていた。
「四国に行くのか? なんで、どういうこと」
「ビザを取ったので取材です」
「いや、待て。落ち着け。行ってどうする」
「見てみないことにはなんとも。二日で戻ります」
「許可しないぞ。現地の取材班もいる。おまえが行く必要がどこにある」
根岸と会話しながらも、奥川は自らのデスクを片づけていた。アクションカメラ二台と胸元にマウントする部品を専用の小型の鞄に詰める。予備のリチウムイオンバッテリーを充電ハブに三つ差し込んでから席に着いた。机の引き出しを開けると1TBのmicroSDカードが何枚も入っている。その中から三枚を選んで、順番にカードリーダーに差し込みPCでフォーマットをかけていく。
根岸が空席だった隣席にまで寄ってきて、椅子に腰を落とした。ガニ股で、ふとももの上に肘を付くような格好で話しかけてくる。
「規制されているって聞いたぞ。四国はもう外国だ。ネットでもどんどん情報が書き換えられいる。行って取材したところで、記事に出来なきゃ意味がないだろ。下手するとまた倫理委員会から目を付けられて罰金だ。頼むから大人しく様子を見よう」
「すみません、こればかりは行かなきゃならないんです。有給申請はしました。今日も休みですよ俺」
「会社として行くんだろ。それなら許可できないぞ」
「個人での渡航許可が下りなかったんです。だから会社として行きます。ただ形だけですよ。個人的な理由で行く必要があるんです」
「何しに行くんだ?」
根岸の問いに奥川は少し考え、それから話し始めた。
「徳島に実家があるんです」
「ああ、そう言うことか。おまえ四国出身だったな」
「そうです。実家の妹から連絡がありました。今朝もメッセージがあって」
「どんなメッセージだ。無事なのか?」
「裸の男に追いかけ回されているって」
「なんだと? なぜだ?」
「アダルトビデオの撮影に巻き込まれたらしいです。勝手にセクシー女優に抜擢されて男が次々に追いかけてくるって」
それを聞いて根岸は一瞬、黙った。
腕を組んでから、静かに言った。
「正気の沙汰じゃないな。にわかには信じられん」
「嘘だと思いますか?」
「いや、ネットにある情報でも似たような発言があった。すぐ削除されてしまったが、本当なんだろう。だとしたら、国際的な人権侵害だ」
「ええ。だけど余計に頭がおかしいことに、エロティカ帝国が制定したエロティカ憲法では合法になっているんです。悪夢ですよ」
エロティカ帝国が勝手に作った憲法では、セクシー映像の制作においてあらゆる権利が保証されている。他人の権利を侵害することも含まれる。それが表現の完全なる自由に繋がるからだ。
「だから俺は一刻も早く徳島に帰りたいんです」
奥川が訴えた。語調を強め、さらに続ける。
「実家には妹だけじゃない。高齢の母もいます。妹が実家に暮らしてて面倒を見ているんです。妹は生まれつき足が悪くて、まったく歩けないわけじゃないですが、杖か車いすがないと遠くへは行けないんです。身を守るにしたって限界があります。俺が迎えに行かないと。ただでさえビザの取得に三日もかかったんです。これ以上、悠長なこと言ってられません」
握り拳を机に叩きつけ、苛立ちを露わにする。抑えていた感情が小さく破裂した。それを見て根岸が宥めるように言った。
「まあ落ち着け奥川。気持ちは分かる。だが、どのみち冷静さを欠いて向かった所で、どうにかなる問題じゃないだろ」
「俺が何とかしますよ。妹をまずは助けないと。裸の男どもを殴り飛ばします。家族を東京に連れ帰ればいい。このカメラは護身用です。奴らの醜態を世界に晒して、悪事を暴きます」
「ライブ配信でもするのか? 分かっていると思うが出来ないぞ。国内では既にエロティカ帝国全体が規制対象だ。おまえが頑張ってカメラを回しても、配信は直ちに差し止められる。そして、おまえが東京に戻ってきたら、空港で拘束が待っている。独房行きだ」
「百も承知です。そんな馬鹿な真似はしませんよ。このmicroSDで持ち帰ります」
奥川がフォーマットしたmicroSDをカードリーダーから引き抜いて答えた。しかし、根岸が首を横に振る。実現が難しい事を伝えていた。
「知っているだろ。録画も同じだ。記録媒体を持ち帰っても空港で検閲を受ければ即座に没収だ。エロティカ帝国に関する不都合な情報は日本に持ち込めない。海外サーバ経由の違法動画を視聴するのが一番、ちゃんとした情報にありつける」
「鞄に入れて持ち帰るとでも? 違いますよ」
奥川が小さなカードを口に近づけ、答えた。
「飲み込めばいい。何日か後に便から回収します」
それを耳にして根岸が眉をひそめた。
「持ち帰った情報は、後から海外サーバ経由で動画として公開します。現地にいるスタッフから映像をデータで送信してもらうよりも安全に、匿名性を守った上で真実を暴けると思うんです」
「なるほど」
根岸がうなずいた。
「ネット検閲の厳しいこの国では、アナログが一番、足が付かないな。うまく行けばの話だが」
「俺はそこまで熱くなってませんよ。冷静に勝算があります」
「だが、会社にとってのメリットはなんだ。その話だと、会社に利益が一つもない。おまえが捕まれば会社だって疑われる。倫理委員会から強制捜査が入るかも知れないんだぞ。会社の看板を掲げるのは、俺たちに迷惑がかかるんだ」
「持ち帰ったデータで公開できそうなものは会社で記事にすればいい。特ダネになる。ある仕入れ筋から聞いたとでも言えばいい」
「やはりリスクが高い。いったん様子を見よう」
「出来ない相談です」
奥川が反論した。
「私情なのは認めます。しかし実家が突然、別の国になって、しかも妹が追いかけ回されているんだ。変態どもに。この状況で指をくわえて待ってろなんて死んでも出来ません。なら俺は会社を辞めます。退職届を置いて出ていった事にして下さい。ビザも勝手に取得したと責任を擦り付けて下さい。構いません。たとえ会社を利用する事になっても、俺は四国へ行きます」
奥川が立ち上がった。予備のバッテリーも鞄に詰めて、残りの支度を整える。
根岸が大きなため息を吐いた。そして観念したような声でつぶやいた。
「分かった。じゃあ好きにしろ。ただし間違えるなよ。許可した訳じゃない。あくまで目を瞑るだけだ。もしもの時は、俺も相応の対応をさせてもらうぞ」
「はい」
うなずく奥川。
根岸が続けた。
「まあ、なんだ。行くからにはカメラはしっかりと回せ。あったことを全て記録して、現場のリアルを見せてくれ。俺もおまえの映像を楽しみにしてるよ。個人的にな」
「ありがとうございます。先輩が上司で良かった」
奥川が根岸に頭を下げた。それ以上は何も語らず、奥川はリュックを背負い、赤坂にあるオフィスを後にした。
* * *
奥川は駅までタクシーを使って移動し、成田行きの電車に乗り込んだ。座席が埋まるくらいには混雑している電車内で、吊革に掴まり、しばらく揺られる。頭上には電子吊革広告が表示されており、定期的に映像が移り変わっていた。今日の天気予報が始まり、日本地図がぱっと表示された。太陽と雲、傘のアイコンが日本全体を取り囲んでいる。北海道、本州、九州地方。奥川はすぐに違和感に気付いた。四国地方の表示が消えていた。気象予報士が全国のお天気を読み上げているが、四国の「し」の字も声に出さない。ニュースは何事もなく終了した。ニュースを見ていた隣の女子高生二人がその画面を見て「なんか消えてる」と小さく笑ったが、誰もそれに反応する者はいなかった。すぐに慣れる。みな経験からそれをよく理解していた。
予定時刻の一三時となり、四国行きの特別便が成田を飛び立った。九〇分後には徳島に到着する。四国行きという呼称は修正が加えられ、E国と表記されていた。みな脳内では答えが分かっているが、口に出す事はしない。徳島行きのボーイング機内は座席の七割以上が空席だった。それだけビザ取得の規制が厳しい様が見て取れる。
メッセージングアプリを開くと妹から届いた朝のメッセージが残されている。
「森に逃げ込んだ。身を潜めています」
最後の会話をしてから、すでに数時間が経過していた。
メッセージには乙場山の麓の座標が添えられている。徳島飛行場から車を一時間走らせた場所にある。実家からもそう遠くない。奥川にとっての地元だった。
トーク画面上に、AI判定による警告文が表示されている。
【警告】このトーク内容は不適切です。
【警告】直ちに会話を削除して下さい。
【警告】トークが継続された場合、アカウント削除対象となります。
急いでこの山の麓に向かえば、二時間半後には到着する。それまで無事で居られるのか、あるいはいま別の場所に移動しているのか。奥川に出来ることは、心配する他になかった。
携帯を胸ポケットに戻して、奥川は機内に置かれているディスプレイでニュースの報道番組を見た。AIキャスターが日本語で台本を読み上げて行く。国内ではエロティカ帝国についての報道は全て検閲がかかっている。モザイクが一面に広がることもあれば、過激な単語にはピー音が繰り返し挿し込まれる。日常茶飯事だ。現場がどうなっているか、まるで見えてこない。表現も抽象的な言葉が多用されていた。『セクシー映像の撮影によってホモサピエンスが暴行を受けている』とキャスターが発言した。暴行とはなんだ。不明瞭な言葉だ。男か女かも判然としない。外見だけで性別をはっきり出来ない以上、人であることを伝えるためにホモサピエンスという表現が使われている。モザイク拡張法によって、全てが曖昧になってしまった。
キャスターが次のニュースに話題を移した。『E国四州の首長、初の記者会見』というテロップが踊る。画面が現地カメラに切り替わり、記者会見会場の様子が映し出された。画面の中央に長机が置かれ、机上には無数のマイクが並ぶ。四国四県の知事たちが首を揃えて記者会見に望んでいた。シャッターがぱしゃりぱしゃりとフラッシュを焚く。カメラの画面がアップになり、四人の顔をはっきりと映し出した。左から香川、徳島、高知、愛媛の順に並んでいる。知事らはみな高齢で、左から白髪白髪白髪、一人だけ黒髪と見せかけて、実はカツラだとすぐ気付く。ずれたカツラを戻し、愛媛の知事が口を開いた。
「えー、この国の人口が増えたのはここ一年くらいだったと認識しております。ですから、えー、人口が増えることはとても良いことだと私どもも安心しておりました。私どもの様々な政治的な取り組みが実を結び、都会に行ってしまった若者がまた故郷へ戻って来たのだとばかり考えておりました。ですがやってきたのは、なんでしたか? え、ええ、エロ、エロチカ帝国の会員という方々が移住してきていたと、そういうわけでございます」
ろれつがあまりうまく回らず、聞き取りにくい声だった。
次に左端の香川の知事が少し滑舌よく話し始めた。
「先月に行われた統一地方選挙で初当選の議員がたくさん産まれました。みなさんご存じの通り、みなπ党の推薦候補です。π党というのは我々も当選するまでまったく聞き覚えのない政党でありましたが、いまや我が香川だけでなく、四国の議会はほとんどがこのπ党の議員となっております。晴天の霹靂でありましたので、我々も議会を掌握しきれなくなりました」
ある一人の記者が質問を投げた。
「そのような状況にあって、知事らはどのように今後、政治を担ってゆくおつもりですか? 進退についてお聞かせ下さい」
高知の知事がマイクを取った。
「それについては、私からお答えいたします。まず、先日の議会で決まったように四国は既に県であることを放棄し、エロティカ帝国の四つの州となっております。そんなことが出来るのかと我々も疑問でしたが、その後に実施された四国県民投票にて、賛成多数でエロティカ帝国としての独立が決まったところでございます。日本国憲法はあくまで一法律となり、その上に絶対的に守るべきエロティカ憲法が存在している法体系になったことを記者会見で伝えるようにと、我々も指示を受けました。私どもも旧四国県民、すなわち現π民のみなさまが賛成したのであれば、それに従い、引き続き州知事として政治を行ってゆくほか、やりようがありません」
投げやりな物言いだった。自分たちにはなんらの権限もないと白状しているようなものだ。実際にその通りなのだろう。生気を失った老人四人が表に立たされているだけの会見に見えた。
「一つだけ朗報があります」
最後に徳島の元知事が口を開いた。
「我々の国では、国家予算が潤沢にございます。なぜなら世界的IT企業の莫大な利益が、そのまま国家予算となるからであります。地方交付金なんて鳩の餌代にしかなりませんが、IT企業の利益は年間数十兆円にも上ります。これらの潤沢な予算のおかげでπ民が負担すべき税金はほとんどありませんし、我々の給与も五倍になりました。π民であれば世界的IT企業の手厚い福利厚生を受けることが出来ます。子育ても国を挙げて取り組みます。我が国は多夫多妻制です。東京へ去ってしまった独身男女のみなさまは、ぜひ移住をご検討下さることを心から願っており――」
記者会見の映像が、そこで不自然に途切れた。知事の発言に慌てたようにカメラがぐるんと一度、首を振って、次のカットでスタジオに戻されていた。キャスターが無表情で正面をじっと見つめている。なんらの説明も加えられることなく番組が終了した。流行りの発泡酒のCMが流れ出す。
奥川は携帯画面に視線を移した。既に瀬戸大橋を始め、四国へ続く三つの橋にも帝国が用意した自警団が配備されている。松山港に母艦が入港したらしいと噂が立っていた。確定的な情報にありつけないまま、奥川たちを乗せたボーイング機は紀伊山地の上空を通過し、まもなく徳島飛行場に着陸した。
* * *
入国審査と税関を済ませた奥川は、一階に降りて荷物を回収した。それからロビーを通り過ぎ、空港の外へと出た。初夏の徳島では肌寒さがまだ残る。雲一つない快晴の空が遠くまで続いている。地元の風の匂いがした。それは奥川にとって懐かしい匂いだった。
他の渡航者たちと同じ道を一定間隔で歩いた。カメラケースを持っているのは奥川と同様にメディア関係者のようだ。そして見るからにビジネスマンらしからぬ格好をしているのは、この国への入国希望者ではないかと思われた。
近くにあるレンタカー屋で手続きを済ませると、赤のコンパクトカーに乗り込み、急ぎ徳島駅へと車を発信させた。
数分もしないうちに、その町の異常性に気付いた。裸の男たちが何食わぬ顔で歩道を歩いているのだ。裸足の男もいたが、サンダルや白のスニーカーだけ履いている男もいる。犬を散歩している飼い主も産まれたままの姿をしていた。奥川は車を停車させると、ダッシュボードの上にアクションカメラを設置した。吸盤式のマウントで固定し、電源を入れる。そのまま撮影を始めた。これで何が飛び出して来ても身を守ることが出来る。車外の光景がまるで夢幻のように映った。別世界線にスリップして迷い込んでしまったかのような錯覚に囚われる。この撮影データを映画監督にでも渡せば、三流ホラー映画くらいは作れるかも知れない。奥川はふとそんなことを考えた。例えば、目の前の脇道から手を振っている正体不詳の男なんかは、見るからに危ない。こちらをじっと見つめて右手を胸の前で左右に揺らしている。夢の国に出てきそうなキャラクターの着ぐるみの頭部だけを被って、首から下はすっぽんぽんだ。男にしかないブツが付いているので男だと判断した。不気味である。他にも、ニーソックスだけを履いている小太りのおっさんが、目の前の横断歩道をスキップしながら横切っている。目的が見えない人間ほど怖いものはない。薬物でもキメているのか。あるいは残業のし過ぎで感性がぶっ壊れてしまったのだろうか。
奥川はペットボトルの水を口に含んで喉を潤した。それから再びハンドルを握り、アクセルを踏み込んで車を発信させた。次第に服を着ている人々の数が増えてきて、まもなくJR徳島駅周辺に到着した。そこは普段通りの光景だった。駅のロータリーに複数台のタクシーが停車し、商業ビルの一階ではテナントが立ち並ぶ。通行人らもみな正しく服を着ている。裸の男たちの姿を見かけなくなった。数年ぶりの地元は、いくらか新しいビルが建っていたが、昔ながらの街並みも残されていた。
駅から少し離れたホームセンターに立ち寄った。登山用具と非常食を手早くカゴに詰めてレジに持って行く。役に立ちそうなものは現地で調達することに決めていた。レジで応対してくれたのは清潔感のある五十代くらいの店員だった。ホームセンターのブランドカラーであるオレンジ色の制服に身を包み、一点一点バーコードを機械に読み込ませて行く。
「外で裸の男がうろついてますよね。大丈夫なんですか」
と奥川が店員に話しかけた。
「ああ、いるね。駅周辺は安全だよ。ただ駅から遠くへ行くと変な奴らが増えるから気をつけて」
「逮捕されないんですか? 警察は?」
「もちろん警察もいるよ。泥棒に入ったら掴まるし、刃物を振り回しても掴まる。ただ貞操観念が緩くても、そこだけは見逃してもらえるんだ。女は特に危険だよ。東京から来たのかい?」
「ええ、そうです。阿南市に実家があります」
「だと思ったよ。あんたのような人から色々と聞かれるよ。この街のこと。いやこの国のこと。俺はもう日本人じゃないんだとさ。π民って言うんだ。π民だよ?」
話したそうな口振りで、店員がそれを強調した。
「本州に行かないんですか?」
と奥川が尋ねる。
店員が首を横に振って答えた。
「出国が認められないんだ。仮に認められたところで、家族みんなここに住んでるから、行くあてもないけどな」
「乙場山に行こうと思ってるんです。そこに妹がいるらしくて」
「じゃあ、なおさら気を付けな。特に人気のない場所に行くのなら、車からはなるべく出ない方がいいよ。道中で声をかけられても窓を開けちゃ行けないよ。俺の友達もそれで車内から引きずり出されて、服をずたずたに破かれちまったんだ。その後は男どものおもちゃにされた。ケツが切れて痔が悪化したって言ってた。やつらは底なしの変態さ。地元の仲間はあいつらのこと野性のHENTAIって呼んでる。全国から集まった選りすぐりのHENTAIだ。とにかく、自分の身は自分で守るのが一番いい。それが正解だ」
そう言って店員がサバイバルナイフを袋に詰めてくれた。
奥川は買い物袋を受け取ると足早に店を出た。携帯を確かめる。座標に向かっている事を妹にメッセージして置いた。最悪、アカウントが二十四時間以内にBANされるだろう。そんなことはどうでも良かった。一度でも新たな返答が来ることを願った。
車に乗り込んだ奥川は、乙場山の座標まで移動するルートを検索した。赤信号が青に切り替わるのを確かめてから、ペダルを踏む右足に力を込めた。
* * *
国道を通って南下する。郊外の比較的、人の多い道を走った。四十分ほど車を走らせると、見覚えのある田園地帯が広がった。かつてはこの田園地帯を横目に奥川は小学校へ通った。麦わら帽子を被り、首にタオルを巻いている老人の姿が目に浮かぶ。彼らの九の字に曲がった背中は、いま何処を見渡しても存在しない。雑草の生い茂る放棄された畑だけが取り残されていた。国道から県道に移り、道はがたがたになった。一車線の山道を上ってゆく。途中、まばらに人を見かけた。どうやら、ふたたび裸体の男たちが出没する地帯に入ったようだ。クマ注意と書かれた黄色い標識が脇道に刺さっている。HENTAI注意の標識も作った方が良さそうだと、奥川は思った。
男どもは裸体を隠さない。股間のイソギンチャクを左右に揺らしながら数人で活動している。イソギンチャクが上を向いている奴もいた。興奮気味らしい。なるべく外に出ない方がいい。店員の言葉が脳裏に蘇る。奥川は換気のために開けていた半窓を閉めた。
さらに十五分ほど車を走らせ、現地付近に到着した。二十台くらい停車できる駐車場を見つけ、そこに車を入れた。前方は見晴らしがよく町が一望できる高台だった。奥川の車以外にも数台、キャンピングカーやワゴンが止まっている。三十メートルくらい離れた場所で、裸の男たちがたむろっていた。後方に、山頂へと続く細い階段が見えた。ここからは車を降りて歩いて行った方が早く目的地に着く。降りるかどうか悩んだ。
バックミラーを確かめる。裸の男たちが数名、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「やばいな」
奥川が、思わずそう漏らした。
「来てるんじゃないか。こっちに」
ハンドルを持ち直す。
やり過ごそうと思って、運転席でじっと様子を伺った。
バックミラーに映っている男らが車を回り込んできたかと思うと、右窓に中年の男が一人、ぬっと現れた。その男の後ろに二人、控えている。いずれも無精ひげを生やした不潔感の強い連中だった。言うまでもなく全員が裸で、さらに胸に洗濯バサミを付けている。挟まれている胸が見るからに痛そうだった。
正面の男が右手で窓をノックした。
こんこん、こんこん、と音が鳴る。
奥川は目を合わせずに無視した。
こんこんこん、こんこんこん、とノックが激しくなった。
男の方へ顔を向けると、窓を下げろとジェスチャーが入る。それでも無視を続けると、胸の洗濯バサミを左右の指で摘んで、引っ張り始めた。
「なにがしたいんだよ」
理解出来ない行動に苛立ちが募る。三十秒くらいそれを続けると、今度は窓に顔を近づけてキスを始めた。赤い舌が出てきて、窓をべろべろ嘗め回す。
「気色わりぃな」
窓を開けるボタンを押した。男の顔が窓に引っ張られて下がる。すぐに窓を戻した。今度は男の顔が、上に引っ張られる。
男が窓から顔を離し、頬を抑えた。むっとした表情になる。
奥川が窓を数センチだけ下げて、荒々しく言った。
「なに? 他人様の車の窓、嘗めないでもらえる?」
「開けてくれ。会話が出来ないじゃないか。あなた参加者か」
「参加者? なんの集まりだよ」
「撮影中なんだ。セクシー映像の。違うならいいけど」
「エキストラみたいな感じか」
「そんな感じ。この森でセクシー女優を捜索中なんだ。見かけなかった?」
「その女優の名前は」
「いや、それは知らんけど。車の中に隠れてないよね?」
「どんな特徴か言えよ」
「怒るなよ。怖いだろ。女優は、足が悪いんだ。車いすセクシー女優に百発出すまで終われませんっていう企画なんだ」
それを聞いて奥川は窓を閉めた。
急いで荷物を担ぎ、車のキーを抜いて車外へ出た。胸元にぶら下げているカメラは回し続ける。
男どもが諦めた様子で背を向け、離れて行こうとする。
「おい。ちょっと待て」
駆け足で男たちに追いつき、奥川が正面に立ち塞がった。
「俺も女優を探してる。何処にいるか情報を教えろ」
「なんだ、あんたも参加者なのか。服は脱ごうよ」
「おまえら女優を見たのか?」
「いや見てないよ。こっちも探してるの。あんたはどっちだ? 剣か盾か」
「なんの質問だよ」
奥川が苛立った。
別の一人が答えた。
「守る側か犯す側か、って聞いているんだ。このゲームは二つのチームに分かれて行われているの。女優を守ったり、犯したりするんだ。剣が犯す側で、盾が守る側」
おかしなルールが存在している。
「みんなが犯す側だと面白くないだろ。映像として。女優が簡単に犯されないように、守る側は全力で盾になるんだ。このハラハラ感が売りなの。ただ結局、最後は犯されるんだけどな。で、あんたはどっち」
奥川はポケットからサバイバルナイフを取り出した。皮製のカバーを外して十六センチある刃の尖端を、相手の股間に接近させる。
「俺はちょん切る側だ。妹に手を出して見ろ。おまえらの股間から真っ赤なミルクが吹き出すぞ」
「待て待て待て、冗談キツいよ」
目の前の男が、反射的に腰を後ろに引っ込めた。
「俺も守る側だって。女優の味方だよ。あんたも盾なんだな」
「クソみたいなルールなんて知るか。俺は妹を助けに来たんだ」
「分かったから、とにかく落ち着け。その物騒なものをしまえ。銃刀法違反になってもいいのか。犯罪だぞ」
「貴様の方こそ、その黒ずんだちくわをさっさと仕舞え。刻んでシーチキンサラダに添えてやろうか」
「この国では裸は権利だ。エロティカ憲法がそれを保証している」
男が二三歩、後ろに引いて反論した。もう一人の男が、間に入って宥めようとしてくる。先ほどレンタカーの窓をべろべろ嘗め回していた男だ。
「ここはエロティカ帝国領だぞ。裸の権利はエロティカ憲法第三十三条に明記されている。裸は迷惑なんかじゃない。誰にも迷惑をかけていない」
「バカ丸出しの理屈だな。そんな格好で、説得力の欠片もない」
奥川が吐き捨てた。
「それじゃあ、憲法に死ねと書いてあったら、おまえら死ぬのか?」
「子供みたいな屁理屈はよせ」
「自分の頭で考えろと言ってるんだ。裸が迷惑じゃない? 迷惑だろ。どう考えても」
別の男が反論に加わった。
「俺たちはdπ&πの思想に共感したんだ。服を着ると差別が生まれる。いい服着てる奴、みすぼらしい格好の奴。服は差別の象徴なんだ。服を着て公平を語るなんて矛盾にも程があるだろ。服はな、真実だって覆い隠す。己を偽り、他者を欺く為の道具になる。俺たちは裸の付き合いがしたいんだ。仮初めじゃない。真実の仲間を見つけたくて、この国に移住してきた。その欲望を表に出してどこが悪い。ありのままに生きたいんだ」
「なにがありのままだ。耳障りのいい言葉並べやがって」
奥川が男たちを睨んだ。
「人に迷惑をかける社会があってたまるか。さらけ出したいなら今すぐ森の奥地へ帰れ。猿どもめ」
最後に反論してきた男が、手にしている携帯のカメラをこちらに向けてきた。録音ボタンがぴろん、と鳴り響いた。
「なんのつもりだ? 煽ってるのか?」
奥川が不快そうに尋ねる。
撮影を始めた男が、腰を低く保ちながら、答えた。
「俺はクリエイターだ。この映像を動画サイトにアップして、お前の主義主張を社会に問う」
奥川がその男の手首を掴んだ。
「カメラを回せばクリエイター気取りか。こっちは長年、仕事で取材に関わっているんだぞ。舐めてんのか? カメラを止めろ」
「奪うのか。俺から表現の自由を奪うのか? エロティカ憲法二十一条、セクシー映像の制作において、他人の欲望を何人も阻止することは出来ない」
目の前の男が、語調を強めてそれを主張した。
奥川は男の腕から手を放すと、携帯でエロティカ憲法の条文を調べた。第二十一条を改めて読み直す。その後、自らが首にかけて撮影していたアクションカメラの向きを微調整した。
大股で一歩前に踏み出し、男の懐に入り込む。それから大きく振りかぶって、男の顔面を、右の拳で殴り飛ばした。
「あぁっ!」
男が転倒する。
「おい、やめろ。何してる」
二人の男が止めに入った。
「暴力沙汰はよせ。憲法違反だろ」
「俺もクリエイターだ。いまからセクシー映像の撮影を始めた」
胸元のアクションカメラを、目の前の男たちに向ける。
「認められるんじゃないのか? バイオレンスなセクシー映像を撮影したい欲望が、たったいま芽生えたんだ」
その言葉で二人の男たちは押し黙った。
転倒していた男が携帯を拾い上げて、立ち上がる。口から血を流していた。何かを口内から吐き出した。
折れた前歯だった。
男が口元を拭い、険悪な眼差しでこちらをじっと見てくる。他の男たちが背中をさすり、落ち着かせようと試みている。
「なんだよ。撮影を続けるのか」
奥川がサバイバルナイフを見せつけて言った。今度は拳では済まないことを暗に伝える。
少しの沈黙が流れた後、歯の折れた男が、悔しそうにつぶやいた。
「お前も撮影したい欲望があるなら、仕方ないな。憲法がそれを保証している」
互いに睨み合う。
そこで会話が途絶えた。
奥川はナイフをポケットに戻し、男たちから距離を置こうとした。振り返ったところで、山頂へ向かう階段から、また別の裸の男が駆け降りて来るのが見えた。
「おい、お前らなにしてる!」
男が呼びかけてくる。息を切らし、急いで側まで駆け寄ってきた。
「女優が見つかったんだ。盾が少ない。応援に来てくれ。ダメだ、剣ばかりだ。上の小屋に立て籠もってたんだ」
* * *
階段を駆け上がる。道がY字型に分かれていた。右の標識には山頂まで三.五Km、左の標識には見晴小屋一.四kmと記されていた。
山頂へ続く階段から、何人かの男たちが降りてきて、左の標識にある見晴小屋に向かってまた階段を上り始めた。
奥川も同じ場所を目指して急いだ。何人いるのか分からないくらい裸の男たちを追い抜いて行く。階段の終わりが見えてきた所で、女の甲高い悲鳴が、耳に届いた。
「沙織!」
妹の叫び声だ。聞き間違うはずもない。
奥川は息を荒げながら、残りの階段を上りきった。
目の前の小高い丘の上に、小屋が見えた。少し離れた場所にはトイレのような小さい建物がある。その隣に自動販売機が一つ置かれていた。
小屋の前で十人以上の男たちが群がっている。
扉にまで近づき、入り口付近にいる男たちに呼びかけた。
「邪魔だ。道を開けてくれ」
小屋の中から人が溢れている。裸の男が二人、こちらに気付いて振り返った。
「どっちだ、あんた。剣か盾か。ワッペンをちゃんと付けてくれ。見分けが付かないだろ」
そう言って男が、赤色の洗濯バサミを渡そうとしてくる。
奥川がそれを拒否した。
「うるさい。くそみたいなルールを押しつけるな」
「スタッフか?」
「いいからどけ。中に妹がいるんだ」
奥川が男たちを押し退けようと肩に手を掛けたその時、再び妹の悲鳴が聞こえた。痛烈な叫びだった。
「これ以上は入れない。狭いんだ」
男たちが抵抗の意思を見せる。視線を落とすと、いずれの男たちも、股間の肉棒がはち切れそうな程、そそり立っていた。
奥川が舌打ちを入れる。サバイバルナイフを一人の男の股間に押し当てて、横に引いた。
「いってぇっ!」
男の身体がびくんと跳ねる。電流が走ったかのような素早い動きで飛び退いた。ナイフの切っ先で、男の裏スジを切ってやった。
「なんなんだよ、おいい」
股間を押さえている男が叫んだ。指の隙間から赤い血が滴り落ちる。
「今すぐそこをどけ」
「待て待て。ルール違反だ。聞いてない」
もう一人の男が慌てた。
「これ、そんな作品じゃないだろ。ダメだって」
「うるさい、お前ら今すぐそこをどけ。邪魔だ。次は刺し殺すぞ」
奥川が怒声で答えた。血の付いたナイフを見せると、冗談ではないことを感じ取った連中が入り口から離れて行った。股間から血を滴らせている男を、何人かの裸体の男たちが介抱していた。
奥川が小屋の中に踏み入った。中にも男どもが溢れていた。十二畳くらいのスペースに三十人くらいの変態どもが収容されていた。みな直立して身体を密着させている。奥にあるベンチに熱視線を注ぎながら、誰もが股間をまさぐっていた。ベンチが三方に置かれている小屋の、奥にあるベンチで妹の白い太股が見えた。臭気を放つ男どもを何人かかき分けて、奥へと近づく。接近するに連れて、肉の壁が一つずつ無くなり、妹の姿が見えるようになった。
妹は、裸にひんむかれて、だらしのない肉体を持つ巨漢に覆い被さられていた。その巨漢のあり余った腹の肉が上下にぶらぶら揺れて、木製のベンチがみしみしと一定のリズムで軋みを上げていた。その背後でごついカメラを担いでいる男もいた。赤と青の帽子を被り、ジーパンにTシャツ姿だった。腰を振り続けていた巨漢が「ううっ」とうめき声を上げ、絶頂を迎えた。シミのある汚らしい尻を何度か前後させて「うう、ううっ」と気味の悪い声で悶える。妹の悲鳴が室内に響き渡った。
その光景に奥川は愕然とした。前にいる何人かをさらに押し退けて、最前列にまで出た。そこは特別、熱気が篭もっていた。臭気が充満している。脇汗のたまらない臭いで、立ちくらみした。
「なにやってる」
奥川が声を上げた。
絶頂を終えた男が妹の中から、半立ちのバナナを引き抜いた。妹の股の付け根から練乳みたいなものがどろっと溢れていた。
「順番。きみ、順番守れ」
そう言って、後ろの男が、奥川の手を引いた。
「何の順番だ」
「中に出す順番に決まってるだろ!」
その回答を聞いた奥川は、振り向きざまに後ろの男にナイフを刺していた。引き抜くと刺された男が腹を抑えて膝から崩れ落ちる。辺りが静まり返った。膝をついた男の首に、もう一撃、ナイフを思い切り突き立てた。
「入れて欲しいなら俺が入れてやる。これで満足か」
濁った黒い血液が迸る。奥川の上着と、近くにいた裸体の男たちの身体が一瞬で血に染まった。
「おわああぁ!」
男たちが次々に小屋の外へと飛び出して行く。
狭い小屋が、がらんとなった。
「ええっ! どういうことだよ」
ベッドの上でカメラを回していた男が言った。こちらにレンズを向けてくる。
「カメラを止めろ」
ナイフの切っ先を男に向け、警告する。
「止めなければおまえも刺すぞ」
カメラマンがレンズを下に向けて、ゆっくりと入り口へと遠ざかり始める。こちらからいっさい目を反らさず、野生の熊と対峙しているかのように、少しずつ距離を取って行く。カメラマンの身体が扉の向こうへと消えそうになった。しかしそこから再びカメラのレンズをこちらに向けてきて、撮影を再開した。
「出ていけ!」
奥川が叫ぶ。
カメラマンが答えた。
「俺はこの作品の監督だ。最後まで撮影をする義務がある」
「ふざけるな。こんな状態で監督もクソもないだろ。撮影を止めろ」
「それは出来ない。おまえのその行為は犯罪だぞ。理解しているのか」
「じゃあおまえらのこの行為は犯罪じゃないのか」
「権利だ。憲法で保証された権利だ。映像制作において表現の自由はどこまでも保証される必要がある。おまえ日本人か?」
と監督を名乗る男が尋ねてくる。奥川が答えた。
「おまえも日本人だろ」
「違う。俺たちはこのエロティカ帝国の民だ。π民だ」
「どっちでもいい。おまえらの作る作品はクソだ。なにが表現の自由だ。表現の自由を盾に好き放題欲望をまき散らしたい奴らが群れているだけだろ。この映像に何の価値もない。なにがエロティカ帝国だ。自由を主張する前に常識を身につけろ」
監督を名乗る男が「ふん」と鼻で笑った。
「犯罪者がナイフを振り回しながら常識を語るな。ここはエロティカ帝国領土内だ。民が選挙で選び、その結果生まれた憲法の上に成り立っている。憲法がそれを保証しているんだ、法を犯しているのはお前だけだ。武器を捨てて自首しろ。他国からの来訪者が、我らがエロティカ帝国の憲法に口を出すことは許されない。イヤなら祖国へ帰れ」
「妹はこの国に参加する意志なんて表明していない」
「住民票が徳島にあるんだろ。それはエロティカ帝国民である事を肯定している証だ。憲法が代わり、レイプされたくらいでガタガタ言うな」
「こんな国は成立しない。社会が成り立つはずがない。まるで猿の集まりだ。国じゃない」
「なぜそう思う? 夜道で女がレイプされる国は他にもたくさんあるぞ。おまえの頭に存在しないだけじゃないのか。平和な国がいいなら、さっさと日本へ帰国することだな。安心と安全がおまえを歓迎してくれる」
価値観が噛み合わなかった。
奥川が監督を名乗る男へ近づこうとする。
「ナイフを捨てろ。このままだと法に則り、お前を射殺する」
入り口の向こうから、猟銃を持った男たちが現れた。二人が横に並び、銃口をこちらへ向けてくる。
奥川はふと我に返った。手元を見ると、赤く血で染まったナイフが握られている。返り血を浴び、野性動物のように気持ちが高ぶっていることに気付いた。この国へ来て、感覚が狂わされてしまったのだろうか。裸の連中を相手にしていると、己の内側に潜む破壊衝動が増幅されて、抑えきれなくなる。夢を見ているような錯覚がますます強くなった。現実が何処か遠くに飛んで行ってしまったらしい。夢なら醒めて欲しいと願った。
振り返ると、一つの死体と、裸で転がっている妹の裸体があった。妹がこちらを悲しそうな目で見つめている。声を上げようと口を動かすも言葉が出てこない様子だった。恐怖で顔が歪みきっていた。男たちに乱暴された恐怖か。それとも、兄の殺害現場を目撃した恐怖か。
「武器を捨てて投降しろ」
監督が再度の警告をした。
奥川は観念して、ナイフを床に放り投げた。両手を頭の後ろに回して降伏の意を示す。
男たちが猟銃を下ろした。
後ろで見守っていた裸の男たちが、次々に部屋に入ってくる。死体の周りを取り囲み、どうするかを話し始めた。そのままにして警察に連絡を入れよう、と一人が提案した。悲惨な現場を見て、嗚咽を漏らしながら屋外へ待避する者もいた。
見覚えのある男が一人、近づいてくる。駐車場の近くで言い合いをした前歯のへし折れた男だ。ガーゼを唇に貼り付けている。奥川が立ち尽くしていると、その男に肩をぽんぽんと叩かれた。
そして奥川にだけ聞こえるように、男が、小さく耳元で囁いた。
「これから二部の撮影が始まるんだぞ」
奥川がその言葉に反応を見せる。
ガーゼを口元から剥がして、男が嬉しそうな笑みをこぼした。
「剣と盾は攻守交代だ。早く妹さんに、俺の欲望をぶち撒けてやりたいな!」
その言葉を聞き、奥川は男を押し倒していた。馬乗りになり首を絞める。床に落ちているナイフを拾った。奥川が叫んだ。
「その前におまえを殺してやる! 俺の欲望で! 死にさらせこの変態が」
ナイフを突き立てた。
一瞬の出来事だった。
奥川の胸に、銃弾が撃ち込まれていた。
* * *
徳島へと発ってしまった奥川の足取りはその後、掴めなかった。二日で帰国すると約束してから三週間が過ぎた頃、ある一つのセクシー映像が業界を密かに賑わせていた。舞台が徳島らしいと小耳に挟んだ私は、その映像を規制の及ばない違法な形で視聴した。そこで事後的に奥川が死んだことを知った。
その映像は、車いすに乗った女優が迫真の演技で百回レイプされるという企画もののアダルト映像だった。折り返しの五十二回目のレイプの後に、突如、現れた兄を名乗る男。その男優役が奥川であった。奥川は場を荒らして、エキストラを一人殺害した後、猟銃で撃たれて死んでしまった。その後も映像は続いた。四十八回の乱暴が繰り返されて、エンドロールが流れた。奥川の名前もキャストにちゃんと並んでいた。
この映像はバイオレンス系セクシージャンルとして、一部マニアから高く評価された。この映像で心を鷲掴みにされたHENTAIクリエイターたちは、自由を求めて四国への移住計画を立てている。映像だけ見ていれば十分だと言って日本に留まる者もいる。命の危険があるからだ。しかし多くの日本人はこの映像を知らない。報道では規制が厳しく話題にすらされないし、報道されたとしても、間接的な表現で僅かな時間しか情報が与えられない。四国という地域は日本地図から知らぬ間に抹消されていた。最初からなかったかのように。だが、それが大多数の国民にとって幸せなのかも知れない。知ることは、必ずしも正義にはならないからだ。今日も何処かで誰かがひどい目に遭っていようと、それを知ることで誰の人生が華やかになると言うのだろう。悲しみを共有し、怒りを以て国民をまとめ上げたとしても、そこから生まれる答えが必ずしも生産的だとは私は考えていない。だから、奥川の行動の是非を問うことは止めた。
ただ、少しだけ後悔が残っている。あのとき奥川を止めておけば、また違った未来があったのかも知れない、何度かそんなことを思い返した。しかし過ぎた事を悔やんでもなにも生まれはしない。それはよく分かっていた。
今回この筆を執ったのは、ある思わぬ偶然だった。
奥川の死を知ってから、さらに三ヶ月が過ぎた頃だ。
夏が終わりに近づく季節に、東京の赤坂にあるオフィスに一人の男が現れた。男は、観光客のような格好をしている一見、普通の日本人に見えた。しかし彼は自らをπ民だと名乗った。オフィスへとはるばるやってきたのは、ある物を渡したいからだと、男が言った。
男がショルダーケースを開けて取り出したのは、ビニール袋に入っている見覚えのあるカメラだった。会社の備品として奥川があの日、持って行った物と同じだった。
「これは、あなた方の所有物だと分かった。データもここに入っている」
男の言葉で、私は尋ねた。
「映像も残っているのか?」
「もちろん。彼が残したデータは、あなたたちが持つべきだ」
「こんなもの、よく国内に持ち込めたな」
所有しているだけで罪に問われる。エロティカ帝国の情報は、それだけ厳しい規制下に置かれていた。政府が触れたくない、触れて欲しくない歴史なのだ。
π民である男が続けて言った。
「我々の国家は自由を尊重する。このデータを世に広める権利はあなた方にある。誰もそれを阻止する事は出来ない。エロティカ帝国は自由の国だ」
男はそれだけ言い残して、オフィスを去って行った。
私は受け取ったデータをどのように処理しようか悩んだ。会社のデータとして使う事は出来そうもない。かと言って捨てるのは薄情な奴だと我ながら思った。
そこで奥川がオフィスで話していたように、彼の意思に従うことにした。
私は映像記録を時系列に整理し、極力自らの意図が介在しない形で編集を加えた。そして日本政府の検閲の届かない海外サーバ経由で、今は亡き一人の男の生き様を、ネットの海へと放流した。
了