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エッセイ集

創作活動を行うに当たって

作者: 令月和邦

  これから自分の作品を書く。その上で、本を書き上げるという意味を考えてきた。

  一昔前には信じられない事だ。誰もが自分の作品を書き上げて、不特定多数の人間に向けて公開するというのは。かつて文章を書くというのは、一種の権威的な行いであった。英語で本の著者を表す言葉は''author''であり、それは日本語で「権威」を表す''authority''の派生語である。要するに少数の「権威たる著者」が多数の読者を啓蒙し教化する、というのが文学の形であった。日本でも夏目漱石、森鴎外のような文豪が燦然と存在しており、 彼らの作品には読む者を惹き付ける凄まじい力があった。優れた発想、洞察力、取材への執念。だからこそ、長きに渡って、彼らの作品が語り継がれているのであろう。

  しかし、現在、文学を巡る環境は大きく変わった。インターネットが発達し、誰もがパソコン、タブレット端末、スマートフォンを所持するようになり、誰もが気軽に言葉を発信できるようになった。その事によって、誰もが小説を書く事が出来るようになった。その事には確かに光明な面もあった。これまで陽の光が当てられて来なかった小説でもボタン1つで読まれる事が出来るようになった。しかし、それは逆に言えば、作品的な質を担保する事が出来なくなった事を意味する。これまでの小説は、作者と読者の間に編集者という存在が挟まって内容を吟味した上で、ある程度質を担保した状態で公開が為されてきた。しかし、ネット上の創作活動では、そうした吟味がほとんどされずに、気軽に発信出来てしまう。その結果、現代の文学は自然と当たり障りのない玉石混交の作品ばかりになってしまった。ネット上の小説をいくら探し回っても、大概は同じような題材ばかりだ。

  元々、人間の思考回路には限界がある。だから他人と全く考えの異なる小説を書く事は出来ないが、そればかりかネットから他人のあらゆる情報が必要以上に入って来るので、益々同じような題材になってしまうのである。

  そんな時代にあって、文学を紡ぐ意味を真剣に考えてみた。自分にとって文学とは何か。それは「生きてきた証」だと思う。人間には寿命がある。死を逃れる事が出来る人間はいない。如何に功績のある人間であっても、死んでしまっては、その足跡を残す事は出来ない。だが文字ならば、それが出来る。人間が過去の歴史を辿る事が出来るのは、言葉によって記録を紡いできたからだ。あるエッセイにかかれていたが「ありのままの気持ちを書く」というのが、文学の本質では無いだろうか。だから、私はこれから今ではまるっきり少なくなってきた王道の作品を執筆していきたいと思う。今の時代に私はそれが求められていると感じているからだ。

  元来私は創作活動は野球と似ていると感じている。作者が投手で、読み手が打者という形だ。投手は言葉という球を打者に投げる。打者は批評という形で、球を打つ。投手のミス一つでこれまでの戦いを一気に無駄にしてしまうこともあるのだ。つまり創作活動とは、語り手と受けてとの対話であると同時に戦いなのである。

  現在ある程度アイデアは浮かんでいるが、これから完成させるまでどれだけかかるかは分からない。しかし、それはより完成度の高い作品を求めるが故である。誰かがいったが、小説を書くというのは、「監獄に入る」のと同じような事である。自分が生きていた証として、心血を注いで作品を執筆していきたい。


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