浦島太郎、蓬莱へ行く
武奈貴は神がかり的な戦略で秀真を追い詰めた。三島の地、伊豆に兵を集め、円陣を組み、駿河を取り囲む。
次第に秀真は富士の麓まで追い詰められた。
これで秀真は潰れる。そう思われた時、狗奴の葛城から援軍が来た。狗奴国南端から船を出し、駿河湾へたどり着く。背後から攻められた武奈貴は板挟みになり、其処から根の国の円陣は崩れて逆転。
根の国は負け、狗奴の兵はそのまま船で紀伊半島へ向かい、せっかく取り返した伊勢と奴国は再び狗奴の地となってしまった。
武奈貴は捕らえられ、天鳥船は箸を突きつけこう言った。
「無事帰れると思うなよ」
そして武奈貴には秀真の姫でなく奴婢、つまり奴隷を与えた。それを天鈿女と云う。
天鈿女命は古代シュメールの神殿娼婦の名残りで、秀真では「野分け」に必要な巫女だった。
野分けとは恵那 、つまり2歳の子供を天鈿女命が養父に届ける儀式でそれは9月に行われた。
武奈貴は姫を1人産ませるのに20年かかり、その後2年後にやっと王子を1人産ませ、根の国に戻る時には25年が経過していた。
武奈貴は秀真を出る時に地形を変えると云う潮干玉を渡された。
天鳥船にそう言われ武奈貴は恐れおののき、伊豆の真澄鏡の剣の元へ戻り、
その玉を封印して根の国へ戻って行った。
根の国へ戻った頃には秀真に捕らえられ、死んだと思っていた武奈貴が戻ってきたと国中が喜んだが、三島の須佐王の地位は既に泄謨觚と秀真の向津比咩の子、出雲健がついていた。
出雲健は別名を向津比古と云う。
なのでもはや武奈貴の居場所はないように見えたが、出雲健は武奈貴を根の国の王位に戻し、自分は摂政として補佐をする事にした。
そして出雲健は根の原の播磨へ戻り、布都御魂と経津主の補佐もする事となった。
だが、さらに面倒な問題があった。当時、弥真登の習慣で兄弟のどちらかが死ぬと、残ったほうの長子に叔父の名を付ける習慣があった。
そんないきさつから健比古と彦波瀲比咩との子に「ムナジ」と名付けてしまっていた。
つまり武奈貴は2人の布都御魂、高比古の弟、そして健比古の兄だったのだ。
健比古と彦波瀲比咩の息子なので彦波瀲健とも云ったが、周りの者は秀真の名残を残したその名をあまり喜ばなかったので「己貴」と名を改めさせた。
己貴は津国の日嗣御子だったが、民が王位につく事を許さなかったので根の国へ戻される事になった。
父の健比古は根の国の周防へ呼び寄せ、奴奈川耳の治める越を引き継がないか、と持ちかけた。そして己貴はそれを承諾し、越へ向かった。
越の奴奈川耳を勤めていた布都健は越根の国、難波へ向かったのち、健の名を返上した。
その後は健持、或いは三奈津比古と名乗り、難波から越を治めたが、日嗣御子がおらず、越の王位は空席のまま25年が経っていた。
そして己貴は難波で戴冠し、奴奈川耳の娘、布都姫を貰い、越で政をした。
布都比売は霊能力があり、越の危機が分かっていた。未来に秀真が越を狙う事も知っていたので
「秀真が来たら迎えておきなさい」
と言っていた。越で王位について数年した頃、秀真は使者を遣してこう言った。
「秀真の姫を娶られよ。娶れば秀真の庇護を受けよう。だが断れば越を攻める事となりますぞ」
己貴は布都比売の意見を聞き、秀真の姫を迎えた。天羽々斬が奴婢に産ませた娘、名を日向姫と云う。秀真からはこう言われていた。
「姫が産まれたら秀真にください。そうしたら将来、三島の王に嫁がせましょう」
日向比咩は色が黒く醜女で生活は朝が遅く夜も遅い。元々狗奴の日向に嫁ぐ予定だったのだが、醜女で返されたので越に嫁いだ。だが己貴は早寝早起きな上に生活の何もかもが合わず、姫が産まれたら祖国へ帰された。
秀真からは「確かに」と返事が来た。
日向比咩のその後は秀真で姫を育て、秀真の兵と2人の男子を産み、その地で果てた。
狗奴国に嫁いだ異母妹の吾田津姫と何かと比較されたが健気に生き、地味ながらもその一生を閉じた後、日向比咩は石長姫の1柱として祀られた。