小判虫と寄生人間
いつからだろう、物心ついた時にはいたのだ。
腕や脛を虫が這う。5mmにも満たない黒い小さな甲虫。痒いわけでもない。ましてや刺すわけでもない。毎日ではない。時折。それからずっと。もう20年は経つだろうか。
ほおって置いたというわけでもないが、虫などどこにでもいる。誰だって這われた事くらいあるだろうと。ただ、いつも同じ虫なのだ。図書館で昆虫図鑑を調べたが、こんな虫はいない。
子供の頃は走り回って遊んでいると必ず現れた。外だけではない、家の中でもだ。
最近では蛍光灯の下、夜遅くまで本を読んでいると脇の下辺りから袖を抜けて出て来る。私は出て来た虫を人差し指でポイとやる。床に落ちた虫をジッと見ているとクルリと向きを変え、また私の裸足の踵から攀じ登ってパジャマのズボンの裾に消える。
しかし、慣れとは恐ろしい。それが日常になればなんともない。またか、となる。
私はこのコバン鮫の様にまとわりつく虫に名をつけた。
「小判虫」
この虫が居たからといって、なにか健康を害するわけでもない。それどころか風邪さえひいた事が無い。転んだ膝の傷もあっという間に治る。子供の頃から病院に行った記憶もない。
しかし、この年になって考えたのだ。この虫と一緒におっては彼女すら出来ない。ましてや結婚など。
友人と食事に行く事さえも気が引ける。いつまた出て来るかわからない。
意を決したが、どこで診てもらえばいいか分からないのだ。痛いわけでも熱があるわけでもない。ただ虫が一週間に数度身体を這うだけなのだ。
私の下宿の裏に、明治から代々続く個人病院があった。内科医だが80近い爺さんが先生だと聞いたので行ってみる事にしたのだ。
大きな病院に行って様々な面倒な検査を受けた上、「虫が這っているだけです」、、 恥を掻きに行くようなものだ。
80の爺さん医師との対面なら恥も何もない。「あっそうですか」と意気揚々と帰って来れば良い。
そこは明治からの板張りの壁。有形文化財。待合室の真ん中には、使われていない囲炉裏が、灰を残したまま鎮座していた。
「先生。いつも同じ虫が身体を這うのです。そう、もう20年」
「何か変な薬をやっておられんか?」
「いえいえ、幻覚とかそのようなものではありませんよ」
「どんな虫なのだ?」
「黒い米粒の様な小さな甲虫であります」
「飛ぶの?」
「?飛んだところは見た事ないです。いつも這っています」
「一度レントゲンでも撮りましょう。どこを撮っていいのかわからんが、、胸とお腹の辺り」
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「ここ見えます?」
「えっ、心臓。」
「このね。右心房の上。黒い塊のような影があるでしょ」
「ちょっと待って下さい。心臓って?私は虫の事を聞きに来たのですよ」
「だから。良いから聞きなさい。この影。その虫の巣のようだ。脈と共にざわついておったようだ」
「体の中に?しかも心臓?私の身体は大丈夫なのでありますか?」
「人というのはまず心臓から作られるのだ。その虫の巣、そこを拠点にあなたの心臓が作られておる」
「は?」
「これね。こっちが先なの」
「言ってる意味がわかりませんが」
「わしの見解だが、あなたはまだ胎児にもならない前、胎芽と呼ばれる人の形どころか細胞の塊り。
あなたには人になる為の何かが不足していた。そこでだ、母上様のお身体に寄生しておったこの虫に擦り寄った。その虫にはそれを補える何かがあった。つまり、」
「つまり?」
「あなたがこの虫に寄生したのだ」
「では私はまるで、、」
「そう。寄生人間」
「あなたが走ったり、夜遅くまで起きておると心臓のポンプが脈拍同様あがるのだ。するとその虫は上下動に押し出されポンッと血管の中に流される。血管に流されればシメたもの、尻の穴だろうが鼻の穴からだろうが表にはどこからでも出れる。傷口などあったらラッキー。だから蛍光灯の明かりは関係ないの」
「治るのでしょうか?」
「治るも何も、その虫は言ってみればあなたの血液のようなもの。その虫がいて『あなた』だ」
「という事はこれからもこの虫と共存していかなければならないと?」
「共存ではないよ。虫がご主人で、あなたが寄生人間なのだから」