暁月 - 二
荷を簡単に整理した。野営した森に置いたままになっていたアダムの荷袋を、気を利かせた村の者が持ち帰ってくれていたのだ。
どうしてもと療養を勧められ、しばらくは与えられた空き家で大人しく寝起きしていたが、いつまでも村に留まるつもりはなかった。
腰をあげ、真新しい套衣を羽織る。村長の娘がアダムのために用意したもので、着るものはすべて新しくなっていた。どれも柔らかい生地で着心地がよく、この村で手に入る最上のものだということは、触れてすぐにわかった。
水や干肉、薬草なども好きなだけ持っていって構わないと言われたが、最小限に控えた。越冬に向けて充分に備えなければならない時季である。村にも蓄えは必要で、まして蔵がひとつ焼けたばかりなのだ。
屋敷の火事で、死人は一人も出なかった。夕刻に蔵のそばで作業していた者の、火の不始末が原因だったそうだ。火事から、すでに十日が経っている。
アダムが屋敷から村長を担いで出てきたときは、村民から大きな歓声があがったらしい。駆け寄った火消し衆が水を浴びせかけ、肩から村長の躰を降ろしても、アダムは気づかない様子で歩き続けようとしていた、と聞かされた。覚えはない。倒れまいと自分に言い聞かせたような気はするが、それ自体が夢だったようにも思う。
荷袋を肩に掛け、小屋を出る。まだあたりは薄暗く、しんとした夜の気配が残っていた。
「もう、行ってしまわれるのですね」
手に執った杖先で地を突いたところで、村長の娘に声をかけられた。村長が寝泊まりしている、隣の小屋から起き出てきたようだ。出立は昨日のうちに伝えてあったので、わざわざ見送りに出てきたのだろう。
アダムが目礼を返すと、娘は口もとを両手で押さえながら何度もうなずいた。その仕草や表情からは、はじめて会ったときよりも、どことなく穏やかな印象が漂っている。
娘は義父である村長に、これまでのことを謝っていた。両親を亡くした自分だけが不幸なのだと、どこかで思いこんでいた。闇雲に周囲を恨み、そのなかでも村民から同情の念とともに、長としての評価を得ていた義父に、特に嫌悪感を抱いてしまった。甘えていた。いまにして思えば、そうだった。娘はそう言い、深く恥じている様子だった。
行き場のないつらさを黙って受け止める、その相手がいるだけでも、ずいぶんと違うものだ。村長はその役を引き受けることで、彼女の父親として生きてきたのかもしれない。
片脚に重傷を負った村長の回復は、時を要するだろう。屋敷は建て直すと言っていたが、しばらくは仮の小屋で、長の仕事をこなすつもりのようだ。アダムが懐に抱いていた赤子のほうは、かすり傷で済んでいた。
アダムも煤で全身が真黒になっていたものの、大きな傷はなかった。数日の間は耳や鼻から黒い汚れが出るだろうと言われたが、汚れのひどい煙突の掃除を手伝ったときのようなもので、すでに治まっていた。腕や脚に軽い火傷と、掌などに擦り傷はあったが、どれもたいしたことはない。
だからといって、アダムは自分の運などというものを過信するつもりはなかった。必ずできる、という確信があったわけでもない。ただ、できることをやった。焼け死んでいれば、火に飛び入る羽虫になぞらえて嗤われただけだろう。それでも構わなかった。自分が、思うさま生きた結果だからだ。恥ずべきことだとは思わない。
誰も死なせずに済んだ。それは喜ばしいことだ。しかし一方で、アダムの心はどこか晴れなかった。
悔悟の念に、衝き動かされた。そう思った。慄えながら涙する村長の娘と、闇を染めて燃えあがる屋敷。自分はそれらを、繰り返し夢に見る故郷と重ね合わせ、意地になっていたのではないか。
晴れるわけはなかった。罪滅ぼしのような真似で、赦されるはずもない。過去は、冷たい塊のように心の底に横たわり、アダムをじっと見つめている。どれだけの歳月を経ても、故郷はアダムの心のどこかを灼き続けているのだった。
「お元気で」
笑顔で、村長の娘にそれだけを伝え、歩き出す。振り返りはしなかった。
陽の出を待つ村に、鶏が朝を告げている。生きている。聞く者の耳に痛いほど、それを伝えて余りある、芯の太い鳴き声だった。
明け方の緩やかな風を分けるようにして少しばかり行くと、あたりを見渡せる丘の端に出た。
眼下に広がる原野や森に、正面に昇る陽が射しはじめる。周辺一帯に裾を広げる赤土の丘も、まぶしく照らされている。アダムも眼を細めながら、暖かな陽を全身に浴びた。爽やかで気持ちのよい朝だ。朝露を抱き、金色に煌めく草木の息遣いさえも、かすかに聞こえてくるような眺めだった。
北西に向け、また歩きはじめる。
背から受ける恰好になった陽光が、行く道にアダムの影を落としている。先を越されたような気分になり、自然と歩調を速めた。
焼け落ちた故郷をあとにしてからというもの、あらゆる土地を旅してきた。いまや旅がアダムの生活だといっても過言ではないだろう。
しかし、道すがら捜し続けている足取りは、どこに行っても掴めなかった。はじめから、望みは限りなく無に等しい。それはわかりきっているので、いまさら落胆はしない。ただ、いまもどこかで泣いているのではないか、という思いは絶えずつきまとった。
実際のところ、生きているのかどうかも定かではない。自分が諦めなければいいのだ、とアダムは思っていた。諦めさえしなければ、望みが完全に潰えることはないのである。
気持ちを切り替え、歩く。もともと無聊を慰めるための旅ではない。遠い地平の彼方へ、『聲』が、呼んでいるのだ。
木々の開けた前方に眼をやる。晴れ渡る空に、どこまでもまばゆい夜明けの色が広がっていた。
ふた月近く、アダムは移動を続けながら野営を重ねた。
秋もすっかり深まっているはずだが、温暖な地域であるためか冬の気配はまだあまり感じない。火を熾し、風除けに岩壁などを利用して寝床を設置すれば、宿の恋しい夜を過ごすこともなかった。
長く歩いた日はよく眠れたが、どういうわけか今朝はやけに早く眼が覚めた。あたりは暗かったが、かといってもう一度寝る気にもならず、燠に薪を足して火を大きくし、湯を沸かした。しばらくはそれに口をつけてのんびりしていたものの、飲み干すとこれといってやるべきこともなくなり、陽が出るのを待たずに歩きはじめることにした。
多少腹も減っている。一昨日獲った兎の肉は適当に切り分けて持ち歩いたが、昨日の夕餉で残りを焼いて食ってしまっていた。残っているのは灰汁抜きが必要な山菜くらいのものだ。あとは酸味の強い木の実、火のそばで炒るようにした種子など、歩きながら口に放りこめば済んでしまうようなものばかりで、いかにも物足りなかった。
歩く。歩いていれば、そのうちなにか獲れるはずだ。現状を変えたければ動く、そう決めていた。青臭くてもいい。なんでも知ったような顔をして、じっとしたまま内側から腐っていくのはごめんだった。
森に、蒼白さが滲み出していた。
やがて東の空に黄金が燃えて揺らぎはじめると、夜気が吹き払われるように夜が明けた。
秋風が、アダムの羽根の耳飾りと髪をそっと揺らす。海に近く、少しばかり潮の香も混じっている。薄く漂う朝霧や、射しこむ朝陽も心地よく、心なしか足取りも軽い。
アダムは西方の白い残月に眼をやりながら、丘を越える街道を進んでいた。
周囲は森である。街道といっても歩く箇所が踏み固められただけの小径で、両側は草地だった。往来に難渋する隘路というわけではないが、馬車が通るだけの広さはない。
静かで、さわさわと風になびく枯れ草の音や、遠くで啼いている水鳥の声もよく徹った。しばしば樹間を縫うように潮風が抜ける。風向きによっては、木々の戦ぎに波音も重なって聞こえてくるようだった。
この丘をくだれば、内海に面した小さな港街がある。潮のにおいが強くなったということは、それはそのまま街が近いということを意味していた。
朱や黄の落葉に覆われた池のそばで足を止めた。
雨水の残る岩の窪みに小さな羽虫の屍骸が浮いており、それが風に吹かれるままに水面をくるくるとまわっている。アダムはなんとなく気になってそれを見つめたあと、荷から水入れの革袋を取り出した。
畔の黒岩に寄りかかり、水袋に口をつける。喉を鳴らして飲んでも、まだ充分な水が残っていた。
すぐにまた歩きはじめる。先を急いでいるわけではないが、歩みは速かった。荷袋を肩に掛け、白杖の先で地を突きながら進む。いつもと変わらぬ、アダムの旅の姿だった。
しばらく行くと、ふと妙な気配が肌を打った。
男の声。向かう先を覗き見ると、細い街道を挟むような恰好で、丸刈り頭の少年が二人の男と向き合っているのが見えた。アダムは歩調も変えず、そのまま近づいていった。
五、六歳くらいか。風に擦れ合う葉音に呑まれて端々が聞き取れないが、男たちになにかを訴えているようだ。
かなり近づいても、二人の男はアダムのほうに気づかなかった。
声を荒げた男に肩を押され、少年は派手に転んだ。男はそれでもやめず、地に尻を落としている少年に蹴りを浴びせる真似をしてみせた。少年がそれに怯んで身構えるさまを、指差しては嗤っている。
「爽やかな夜明けの光景とは思えないな」
アダムが歩きながら声をかけると、二人の男が弾かれたように振り返った。
男たちはどちらも陽に灼けた二十歳かそこらの若者だった。一人は背が高く、背の低いほうは赤ら顔で、編みこんだ髪を後ろに流している。
二人がアダムに気を取られていると見たのか、少年は思い出したように跳ね起き、なにも言わずに駆け去った。幼い頬は涙に濡れてはいなかったようだ。
「余所者だな。おまえ、そこで止まれ。この先になんの用だ」
男の一人が、アダムに言った。
あからさまに不遜な態度の二人は、駆け去る少年には眼もくれず、アダムに歩み寄ってきた。血の気が多く、いまにも掴みかかってきそうだ。二人とも腰に剣を佩いてはいるが、たいした技倆ではない。足運びなどの挙措からしても、およそ街道を守る衛兵とも思えなかった。
アダムには誰何される覚えはなにもない。構わず街道の真中を通り抜けようとしたところ、先ほど少年に手をあげていた長身の男がアダムの腕を掴んだ。振りほどこうとするが、執拗な力がこめられている。
「おい。聞こえねえのか、止まれってんだ」
腕を掴んだ男が繰り返す。アダムが見あげるほどの背丈に加え、筋肉質で腕力には自信があるようだが、それだけで露骨に態度が大きくなるというのは、いかにも小者のすることだった。
「用件を言えよ。なんで街のほうに向かってる、え?」
「言う必要があるのか、野盗に」
「この野郎、俺たちが野盗だとっ」
声をあげた次の瞬間、アダムの腕を掴んでいた男は膝を折った。抜けの技で、上から押さえる相手の力を利用して体勢を崩させ、自由になった手で今度はアダムが男の小指を掴んだのだ。握った小指をぐいと捻るようにするだけで、相手は立っていられなくなる。背丈の差は関係ない。どれだけ鍛えても弱い場所というものがある。
もう一人の髪を編みこんだ男が慌てて剣の柄に手をやった。遅い。アダムが左手の白杖の先で男の肩を突く。軽く突いただけだが、男はあっと驚いたように跳びあがり、一歩退いた。
「そいつの手を放せ」
「その剣を抜きさえしなければ、誰も怪我はしない。吹っかけてきたのは、おまえたちだろう」
言って、アダムは肩を竦めてみせた。アダムの足もとで這いつくばった男は額に汗を浮かべ、顔を赤くしている。脚を使って腕を固められているうえに、なにかしようとするとアダムが握った指に力を加えるので、それを恐れてまるで動けなくなっているのだった。
「野盗でないのなら、街道を塞ぐ理由は?」
「この先の港街で、子供と女が六人、姿を消した。だから俺たちは、街道を通る怪しい者に声をかけている」
間合いの外で剣に手をかけたまま、吐き捨てるように男が言った。
「私も怪しい者というわけだな」
「街を守るためにやっていることだ」
「ほう、小僧を突き飛ばすことがか」
「危ねえから追い払ってただけだ」
「そうかな」
アダムがじっと見据えると、赤ら顔を引きつらせていた男が眼を逸らした。
それ以上、訊くことはなかった。道が通れさえすればいい。アダムは足もとで呻く男の指を放り出すように手放し、街道の真中を通り抜けた。男たちはもうアダムを引きとめず、あとを追ってもこなかった。
いつの間にか丘をくだり終え、平地になっている。泱街の港はすぐそこだ。
両側の草地には香料や傷薬になる植物もいくつかあった。わざわざ分け入って探すことはないが、手近なものは摘み、荷袋に仕舞いながら歩く。
白羊の月。ずっと北の大陸では春先だが、南洋、精地大陸の北西部にあたるこの地域では逆で、深秋の時季に差しかかっている。
見あげると、両手を広げた秋色の枝葉の間から、吹き流したような雲と青空が覗いていた。切り株にでも腰掛けていれば、すぐに瞼が重くなりそうな陽気だ。
波音がさらに近くなっている。右手に広がる木立が途切れた先は岩場になっていて、打ち寄せる波は力強い。まばらな木々の向こうには、高くなりはじめた朝陽を受け、銀色に輝く海も見え隠れしていた。秋の海は荒れ気味で、どこか淋しげな色をしている。この時季になるとアダムは決まってそう思うのだった。
泱街に到着して知人の男を訪ねると、船溜まりのそばの商館に案内された。
飲みたい気分ではなかったが、酒があるからと強引に連れてこられたのだ。すぐに卓に麦酒の注がれた木杯が運ばれてきた。
「さあ遠慮なくやってくれ、アダム」
男はこのあたりでは名の知れた商人であり、みなにシュルグの旦那と呼ばれていた。愛称らしく、精地の古い言葉で『地を這うもの』を意味するようだ。アダムは何度かこの街に立ち寄るうちに親しくなっていたが、シュルグの本当の名は知らなかった。
アダムは杯に手を伸ばし、眼の高さまでちょっと掲げてから、舌先を湿らす程度に口をつけた。
戸口からは絶えず港の潮騒が聞こえている。石造りの商館には、ほかに隅で話しこんでいる商人らしき者が数人いるだけで、静かなものだった。
「どうも穏やかじゃないね、シュルグの旦那」
「わかるか?」
シュルグは息を吐いて困ったように笑い、指先で鼻の頭を掻いた。
「街道で、衛兵の真似事をする若者に絡まれましたよ」
「このところ衛兵が手一杯でな。街の人間の要望をすべて聞いてはおれん。それで我こそはと、のぼせて勝手をやってる若いのがいるんだ」
いくらか強面で体格がよく、発するのは肚に響く低声だが、笑うと眼尻に刻まれた皺が深くなり、眉尻もさがって人懐こさが表に出てくる。シュルグは六十に手が届く歳になり、後ろで束ねた髪だけでなく、眉や鬢、蓄えた髭にも以前より白いものが増えていた。
「六人が行方不明だとか」
「若い女が三人、子供が三人。みんな夜の間にいなくなってる。それに今朝また女が一人消えていることがわかって、全部で七人になった」
シュルグがやれやれといった様子でかすかに首を振り、ひと口舐めただけのアダムの杯に麦酒を満たす。
酒肴にブフカという獣の腿肉を焼いたものが運ばれてきていた。ブフカはその太い脚を干肉にして保存し、炙って食う場合が多いのだが、皿に乗っているのは干肉ではなかった。こんがりと焼き色のついた肉の表面は脂で光っており、添えられた香草の柑橘に似たにおいが、湯気と一緒に漂っている。
アダムは香草をつまみ、指の腹で擦り合わせた。そうすると柑橘のにおいが一層強くなるのだ。
「対策の見通しは立っているんですか?」
「街の長も、禿げあがった頭を抱えてるよ。衛兵は見張りを多く立てたり、巡回を増やしたりしているがね」
「人喰いの獣か」
アダムが呟くと、シュルグが身を乗りだしてきた。
「やはりそう思うかね、おまえさんも」
獰猛な獣の噂は、前にこの街を訪れたときからあったのだ。時をかけて警戒していた街にも近づくようになり、いよいよ被害が出はじめたと考えることはできる。
「妙な話と言ってはなんだが、衛兵だけでなく、街の男衆は怪我人だけが数を重ねるばかりで、誰も姿を消しちゃいない」
「女と子供、つまり柔らかい肉ばかりってことになりますね。人喰いの獣であれば、ですが」
川辺や海岸付近で人を襲う可能性があるという点で、一番考えられるのは精地鰐だ。繁殖期には通常より上流や陸にも姿を現し、凶暴性が増す種でもある。しかし鰐が肉を選り好みするという話は聞いたことがなかった。それにいくら屈強な男であっても、人を喰うような鰐に水に引き摺りこまれれば喰われるだけで、怪我で済むとは思えない。
「それとな、男どもの怪我の具合は、どうもそこらの獣に襲われたようじゃない。爪の引掻き傷みたいなもんは確かにあるが、それとは別に火傷のような痕ができてる」
「誰も姿は見ていない?」
「決まって夜闇だからな。気が動転した人間の言うことなんてのは、どこまで信じていいかわからんが、すすり泣くような声と、なにか引き摺るような音がして、手灯りを向けると見あげる大きさの影が森のなかに見えた、ってな話をしてるのは何人かいる。襲われる前にその影を見たやつらは、怖ろしくなってみんな街に逃げ帰ってるよ」
不意を衝かれて襲われた男たちはその姿を見る余裕もなかったということなのだろう。闇で得体の知れないものに襲われたなら、なりふり構わず逃げ出して当然だ。
このあたりに熊が出るという話は聞かない。見あげるほどの大きさというのは、やはり得体が知れない獣だ。火傷痕というのも気になるところだった。
シュルグは指の腹で目頭を押さえて息をついた。そうやって眼を閉じると、疲労も老いも一層、濃くなったように感じられる。
アダムは切り分けられた肉を口に入れた。ブフカの太く発達した腿の肉は歯応えがあるが、干肉にする前のものは想像したよりも柔らかかった。きちんと筋切りをしてあるようだ。香草のおかげで独特の臭みもすっかり消えている。繊維質が多く、顔はどこか似ているが鹿とも駱駝とも違う。淡白な味ではあるが、しばらく噛んでいると、甘く香ばしいような肉汁が滲み出てくる。ブフカは木の実を好んで食うらしいので、肉からもそういった風味がするのかもしれない。
シュルグのあつかっている荷からして、商売にも少なからず影響が出ているだろう。この商館に肉や麦酒の樽が山ほど置いてある理由は想像できた。主としてあつかう飲み水はともかく、夜に街を出歩く者がいなくなれば、料理も酒も売れない。そういうことだ。
ブフカの肉を飲みこみ、それからあふれんばかりに注がれた麦酒を呷った。
「腕自慢が次々に襲われて、まともに剣を執って闘える者はもういない。だが夜が明けるたびに、また一人、また一人と消える。十日で七人だぞ、アダム」
「まずいな」
「なに、状況は最悪だが、おまえさんの手にかかればどうということもないさ。そう顔をしかめることもなかろう」
「酒の話ですよ。厄介な頼みごとをするときくらい、もう少し美味い酒を出すべきだ」
アダムは口もとを拭い、苦笑しながら酒杯をちょっと持ちあげて振ってみせた。決まりが悪そうに、シュルグが軽く咳払いをする。
「それに私は猛獣狩りを生業にしているわけじゃない。それはご存知でしょう、シュルグの旦那」
杖を手に席を立った。薄々感じてはいたが、強引に商館へ連れてきたのはそういう話の筋書きがあったのだ。
「どうか頼まれてくれんか、アダム。ひと晩明けるごとに誰かが姿を消しているんだ。これ以上、犠牲が増えるのを黙って見過ごせんよ」
白杖に眼をやっていたシュルグが視線を戻し、真直ぐにアダムの眼を見つめた。
老けこまず強い光を湛えた眼だ、とアダムは思った。