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夜明けの続唱歌  作者: hidden
一握
11/37

一握 - 四

 二日が過ぎた。

 アダムは、甲板で船員たちと残り少ない食料を摂りながら、穏やかな海に眼をやっていた。どこまでも続く海。見えるものはそれだけだ。陽は中天に差しかかっている。

 (おか)は見えない。

 一度、大きな尾のある人影を見た、と言う船員がいて騒がしくなったが、それきりなにもなかった。

 船長によれば、目指していた炳辣国(ペラブカナハ)地方の南海であることは間違いないらしい。ただ、思った以上に西に流されていたようで、いまはやや東寄りの進路をとりながら北上を続けているということだった。後押しするように、風も西からのものに変わってきている。

 怪我で動けない者もおり、残った六挺の(かい)を、動ける者が交代しながら()った。アダムも何度か加わったが、その後は左手首の()れが治まるまでは休むように、という船長の指示に従っている。船員でなくとも、ひとたび船に乗れば(かしら)の言うことは絶対である。

 金牛(きんぎゅう)の月。

 炳辣国(ペラブカナハ)の夏にはまだ少し早いが、真上からの昼間の陽射しは強く、航海に慣れた船乗りたちもみな一様に疲れきっている。こういった状況では、耐えきれずに気が触れて暴れはじめる者が出てくることもあるが、船員たちのぎらついた眼には未だ覇気があり、気力まで()えさせている者はいないようだ。赤黒く潮に()けた全員が、紛れもない海の男たちなのだ、とアダムには思えた。

 たどり着けるのか。陸を踏めば、アダムはまたそこから北西を目指すことになる。やはり、(こえ)に呼ばれているのだ。

 聲は、さまざまなものがその囁きを伝え、アダムの耳へと運んでくる。アダムにとっては、自分の耳にだけ聞こえる、(しら)せのようなものだともいえた。他者がまったく聞こえないのか、あるいはすべてを空耳として聞き流しているのか、本当のところはわからない。ともかく、聞こえる自分にはその聲に応える義務があるのだ、とアダムは受け止めていた。

 ふと思い出し懐を探る。くすんだ色の小さな金貨を一枚つまみ出した。

 陽にかざす。出立の直前に、精地大陸(ルービンクォード)の砂浜で拾ったもので、かなり古いものだ。表には精地(せいち)を救ったとされる、太陽の英雄ソルスの紋章が刻印されている。

 不意に、(とも)のあたりに立っていた船員が声をあげた。陸だ。右手前方に陸の影が見える。船乗りたちの間で、歓声があがった。アダムもほっと胸を撫でおろす思いだった。

 潮風が運ぶ聲が、また耳をくすぐる。左耳にさげた、青い羽の耳飾りが静かに揺れていた。

 聲を頼りに放浪するアダムの旅に、いつも明確な目的の地があるわけではない。だからこそ、居心地がいいという理由だけでひと所に留まることは、みずからに禁じてきた。出立を引きとめられたり、なぜと理由を問われたりすることも少なくはない。

 それでも、問いに答えて本意を敷衍(ふえん)しにかかることはなかった。ただ決めたことをやる。そのための理由を、いくつも用意する必要はない。

 旅は、生きる場所を得るために続けているようなものだ。生きる場所。自分の命を活かせる場所、といってもいい。穏やかな旅ではなかった。嵐の海をさまよったこの船のように、陸を望みながらも宛はなく、大波に揉まれるままに流れてきたようなものだ。

 さまざまなものを内に載せた船ではなく、なんの戸惑いも、わだかまりも抱えずに身ひとつで波に任せることができたなら、あるいは水そのもののように流れていけたなら、この眼には違ったものが映るのだろうか。時折そんなふうに考えてもみるが、すでに背負ってしまったものが、消えてなくなるわけではなかった。

 雨は大地に染み、湧き出ては流れ、大河を経て大海に至る。水は低地へと向かい、そこにはあらゆるものが流れ着くのだ。なにも天の落とした雨粒ばかりではない。民の流した汗や涙、戦に流れた血。運命などと呼ばれるものも、流れのうちのひとつなのかもしれない。

 それら人の世をめぐり流れる哀しみの発端が、はじめに放たれた火種から飛び火を重ねた争いにあるとしたら。みずからの命を水として、流れ着いた先々でその戦火を滅することに活かす道はないか。アダムは、ずっとそう考えてきた。

 それが死んでいった者たちへの(とむら)いとなるのかはわからない。しかし、ほかにしてやれることなどなにもなかった。誰かのため、と口にしたところで、結局のところそれは、自分のためでしかない。死とは、そういうものだ。アダムは嫌というほど、身をもってそれを知っていた。

 陸を目指す。残った櫂で懸命に進路を変え、みなが渾身(こんしん)の力を振り絞った。

 知らぬ間に船底からじわじわと水が染みこんできていたらしく、最後は船体を大きく右に傾かせながら、やっとの思いで岸にたどり着いた。沈みこそしなかったが、ほとんど漂着したようなものだった。

 接舷を許されたのは滄港(ソニフテモール)と呼ばれる、ごく小さな港である。建物も少なく、漁村のような印象を受けた。

 船員と港の者の間に、炳辣国(ペラブカナハ)の言葉が飛び交う。

 もともと商船が目指していた場所と同じ大陸の港ではあったが、西海に面するここ滄港に対し、本来の目的地は東海側のはずだった。この炳辣国地方は、南に広がる海に剣先を向けたような陸のかたちをしており、嵐に襲われた船はその切先を、東から西へ大きく迂回するように流されてきた、ということになる。

 港には倉が並び、船溜まりには三隻の小型の櫂船が舳先を並べて停泊している。それとは別に小舟もいくつかあり、荷の運搬だけでなく、漁も行われているらしかった。

 陸を踏めたことを喜ぶ暇もなかった。疲労困憊であっても、船員たちは荷役(にやく)を優先しなければならない。いつ沈むとも知れない船に、荷を載せたままにはできないのだ。

 麻袋の半分は浸水で駄目になっているようだったが、アダムも手伝い、港の者も船員と一緒になって積荷を降ろした。

 無事だった積荷は精地の地方特産である塩湖の岩塩や、食用となるクロビリアの花種、またはそれを加工した油などの品などが大半で、あとは少々の砂金だった。とにかく濡れたものも船艙(せんそう)からすべてを運び出し、港に借りた倉に押しこむ。

 ここで新たな船を得るか、陸路で東へと横断するか。彼らが荷を運ぶには、どちらかを選ぶことになるだろう。

 アダムも自分の荷物を受け取った。愛用の白杖と、肩掛けの荷袋である。濡れて困るほどの荷物ではない。

 作業を終えるころには陽は西に傾きかけており、そのまま人夫が寝泊まりしている小屋を借り、休むことになった。

 全員が疲れ果てているが、空腹を満たすために白身の魚を煮こんだ汁などを(すす)っている。わずかずつだが、居合わせた漁師の好意で酒も振る舞われていた。噛みしめるように食っているせいか、みな口数は少ない。時折、鼻を啜る音が聞こえた。安堵(あんど)し、涙を浮かべている若い者も何人かいるようだ。

「おまえら、助かったんだからよ、めそめそするんじゃねえよ」

 言いながら、船員に(ねぎら)いの声をかけてまわっていた船長が、アダムの隣の椅子にどかっと腰掛けた。船長は、すでに三杯目の汁椀を掻きこんでいる。

「俺ゃ、傾いた船に乗ったまま、みんなで黒月晶(こくげっしょう)の森に向かってるのかと思ったよ」

 黒月晶の森。死者の舟が渡る川がある、と伝わる場所だ。実際に嵐に遭った船員たちにとっては冗談にもならないような話だが、この船長は過ぎたことを引き摺らない性格なのだろう。大声で言い、豪快に笑っている。太眉に、大きく張った顎。屈託がなく、人を惹きつける笑顔でもあった。みながそれにつられて笑い、場はどこか和やかなものになった。

「確かにいい女でしたね、彼女。おかげで、誰も死者の川を渡らずに済んだ」

 アダムが言うと、船長は太眉の根を寄せてちょっと考えるような表情をしたあと、にやりと笑った。年嵩(としかさ)の男が言っていたことだが、いい女というのが船のことだと、あの船の男たちならば誰でもわかるらしい。

「ほとんど婆さんみてえな船だったがな。最後の最後まで、沈みゃしなかった。それよりあんた、たまたま乗りこんだおんぼろ船で、ひでえ目に遭ったと思ってるんじゃねえのか?」

「なに、同乗を望んだのは私。多少の難はあっても、文句はありません」

「多少か、あれほどの嵐が」

 肘を横に突き出して汁椀を掻きこんでいた船長が、声をあげて笑った。仕草や表情に、船員たちの命を一手に預かる頭領らしい豪胆さと、嘘のない剛直さが滲み出ていた。

 椀には、葉野菜と一緒にぶつ切りにした魚の身がごろごろと入っている。口に入れた魚は骨だけを残してほろほろとほぐれ、骨を卓に吐き出して汁を啜ると、磯の香りと一緒に辛味のある風味が鼻を抜ける。たまらず掻きこむと、魚と野菜から溶け出た旨味が、腹から全身に染み渡るように(からだ)を温めていく。美味い。生きているのだ、と思った。

 アダムも思わず三杯目の椀に手を伸ばした。

 様子を眺めるように座っていた地元の漁師が席を立ち、大きめの戸板を開ける。潮騒とともに涼風が吹きこんできた。食うことばかりに夢中で気づかなかったが、船員であふれる小屋のなかは、鍋から昇る湯気も加わって、熱気がこもったようになっていたらしい。

「船長。降ろした荷は、やはり陸路で?」

「おう、そうだな。海を迂回するよりはずっと早く着くはずだ。連中は、船に乗りたがるだろうがな」

 白いものが混じった無精髭を、船長はちょっと手で触れた。棚に置かれた(あか)りが、吹きこむ潮風に揺れながら小屋のなかを照らしている。

 ほかの船員たちは昼間大騒ぎした、尾のある人影の話でまた盛りあがっていた。うってつけの話題だった。どんな噂も尾鰭(おひれ)がついて酒の(さかな)になる席で、はじめから尾鰭がついているものについての話なのだ。

「誰も船を降りないんですね。あれほどの嵐で、命を落としかけたあとも」

「そういうもんさ。途中で降りるような野郎は、俺の船には乗ってねえよ。降りるときは死ぬとき、そんなやつらばかりだ。だからかえって、あんな嵐でも死なねえのかもな」

 決死の覚悟。それでも死ぬときは死ぬ。そう思ったが、口にはしなかった。いまは素直に、全員が生き抜いたことを喜び、美酒に酔うべきだ。

 陸路となれば数日はこの港に滞在し、負傷者の回復を待つ必要があるはずである。その間に馬や荷車を調達し、遠からず南東の炳都(ペラブーハン)の方面へ向けて荷を運ぶことになる。東の港はさらにその先だ。つまり彼らとは、ここでお別れだった。

 みなに礼を言い、アダムは翌朝早くの出立を決めた。

 外へ出て近くの河原で水を浴び、躰の潮を落とす。陽に灼けた肌がひりひりと痛んだ。眼のまわりや口もとも、潮灼けして多少腫れているような感じだった。潮まみれの衣服も丁寧に洗い、木の枝に掛けて干す。そのまま荷袋を置いた小屋へ入り、倒れこむように床に寝転がると、すぐに眠気が襲ってきた。

 床が、揺れているような気がする。船旅のあとは、よくあることだった。

 周囲の(いびき)で眼を覚ます。深く落ちこむように眠ったせいか、眼を閉じたほんの一瞬で、すぐに夜明けが訪れたように感じられた。

 東の空が明るくなったころ、荷袋を肩に掛けて滄港のはずれまで歩いていくと、街道沿いに客待ち馬車が停まっていた。せいぜい二、三人が乗れるほどの馬車で、いささか脚が短くも、がっしりとした体躯の黒馬が鼻を鳴らしている。

 馬の毛並みは朝露で濡れており、黒光りして見えた。(うまや)から()き出してきて、準備を終えたばかりのようだ。

 左手首の腫れはほとんど治まっていたが、最近のこの地方のことをいくつか訊きながら、しばらく馬車でいくのもいい。アダムはそう思い、男に声をかけた。

「どちらへ?」

 背を丸めて座っている男は手で陽光を(さえぎ)りながら、アダムの顔を覗きこむようにして尋ねた。馬車の通る街道は、いくつかの方角へ分かれているようだ。

 アダムは懐から古びた金貨を取り出し、親指で弾いた。りん、と澄んだ音が響く。朝陽を受けて輝いた金貨を宙で掴み、引き寄せて指を開く。太陽の英雄ソルスの刻印がある、表。

「街道を北へ」

 手綱を()る男が、そんなもので決めるのかという顔をしたが、アダムがその金貨を男に握らせると、満面の笑みを浮かべてうなずいた。

 馬車に乗りこむ。

 動きはじめた。ゆっくりと流れる景色は故郷の地と似ているわけではないが、どこか郷愁を感じさせる気配が漂っている。船上で夢を見たせいか、とアダムは思った。

 朝陽がまぶしい。風も爽やかで、天気のいい日になりそうだった。

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