一握 - 三
月も星も、夜闇に呑まれて姿を見せなかった。
いくつもの小さな島が散在する海域である。
暗礁を避けるため、いくらか沖の路を選んではいたものの、それでも陸伝いの航海であることに違いはなかった。商船として幾度も往来を重ねた櫂船の船乗りともなれば、星の導に頼ることなく、沖から見てとれる陸のかたちだけでも、およその位置はわかるものだ。
案ずることはなにもない。そのはずだった。
夕刻にぱらぱらと降りはじめた雨は、宵にかけて突如として激しくなり、やがて雷鳴が天を震わせるまでに至った。荒れやすい海域だとは聞いていたが、ここらの海に通暁した船乗りですら遅れをとるほどに、急激な変化だったのだ。
猛烈な嵐。帆は早くからおろされていたが、吹き荒れる強風で帆柱にくくりつけていた縄が切れ、裂けた帆布の端が、ばたばたと音をたてて暴れている。
アダムは渡された縄を腰に巻きつけ、船員で一番年嵩の男に手を貸していた。甲板の隅で、木板を打ちつけているのだ。
嵐を避けようと手近な陸地を求めていたところ、思わぬ潮流に喰われて難所に入りこみ、避けきれずに岩礁にぶつかった。そのときに傷んだ船腹を、内側に板を重ねることで補強しようというのだ。船縁に近い位置で、やるべきこと自体はそれほど難しくないらしい。ただ、風雨巻く船上での作業だった。客として迎えられている自分も、ただじっと見ているわけにはいかない。そう思い、アダムはみずから船長に願い出たのである。
二十人ほどいる船員は、それぞれが持ち場を離れられずにいる。肩の触れ合う近さでも、互いが声を張りあげていた。そうでもしなければ、風に吹き飛ばされてまともに聞こえないのだ。アダムが勧められたように、躰と船を縄で繋いでいる者はおらず、みな勇敢で、慄えている者など一人もいない様子だった。
「この調子では」
言いかけたアダムの言葉を、大きな揺れが遮った。
船体がぐっと持ちあがり、次には船底が海面に叩きつけられた。海に放り出されそうな衝撃。耐えるため、近くの縁にしがみつく。それでも全身が強く揺さぶられた。続けざまに横波が船腹に打ちつける。船体が左右に傾くたび、白く泡立つ波が甲板を洗った。
船底に荷を満載した商船で、吃水は浅くない。小舟に比べればそこそこの安定はあるはずだが、それがこの煽られようである。跳ねまわり手に負えぬ、悍馬の背にしがみついているようなものだ。命をひと呑みにする凶暴な海が、すぐそこで口を開けて待っている。
叱咤する声が飛ぶ。揺れに足をとられた若い船員が甲板で転倒していた。無理もない。激しいうねりに揉まれ、縦揺れと横揺れがめまぐるしく襲いかかってきているのだ。
「なにか言ったか、兄ちゃん」
年嵩の男が、アダムに向かって叫ぶように言う。その間も、板を打ちつける音は続いている。飛沫を浴びながらも、男の手先は動いているようだ。
「夜明けまでこの調子では、船のほうが保たないのではありませんか」
「乗ったばかりのおめえにゃ、わからねえか。こいつはこれでいい女なんだ。ちと歳老いちゃいるが、根性はある。岩にぶつかって横腹を打ちつけたってどうだ、この通りだ」
男はやけに嬉しそうな声をあげた。暗くて表情まで見えはしないが、語尾にはこの状況を愉しんでさえいるかのような響きがあった。
夜明けまで十二刻(約六時間)はあるだろう。男がいい女だと言う、この船を信じて保たせるしかない。そういうことだ。
船と同じように、アダムの全身も濡れている。舳先が大きく上下するたび、大量の飛沫を頭から浴びた。雨も激しく、海水とどちらが多く降りかかっているのかもわからない。叩きつける潮風が、顔に貼りついた濡れ髪を吹き飛ばすように散らす。
「強がりかと思ったが本当に酔わねえんだな。櫂を握らせたときも漕ぎ方はさまになってたし、船乗りでもねえのにたいしたもんだ」
男が言う。幸い、激しい揺れのなかでもアダムに酔いはなかった。これまでにも大小さまざまな船に乗ったが、もともと酔わない体質らしい。酔いに苦しむ者であれば、とっくに腹のなかのすべてをぶちまけているのだろう。
稲光。激しい閃光が切り取るように、あたりを照らし出す。その一瞬が瞼の裏に焼きつき、白く残った。
あまりにひどい荒れようだった。雷神が天蓋を叩き割り、そこからとめどなく滝が落ちてきているのではないか、と思えるほどの猛烈な時化である。
陸伝いに北上を続ければ、いまごろは目指す大陸にたどり着けていたはずだった。この嵐に遭わなければだ。それをいま思ってみたところで、意味はなかった。
軋む音。風は鳴り続け、揉まれ続ける船が喘いでいる。呼び交わす、船乗り特有の割れた濁声すら暴風に遮られ、切れ切れに耳に届く。
「舌を噛むなよ、兄ちゃん。噛み切ってどっかに落としても、一緒に探してやるのはごめんだぜ」
男の笑い声。前歯が欠けているせいか、息が漏れるような声だった。アダムの躰を支える縄が、ぎりりと腰を締めつける。こうして船と繋いでいなければ、慣れない自分など躰ごと吹き飛ばされかねない。暗い荒海に落ちれば、まず助からないだろう。
手もとなどほとんど見えないが、アダムが手伝っている男にはなにか見えているのか、大きな揺れをものともせず、手際よく板を打ちつけていく。瞬く間に、船の横縁の補強を終えた。
この程度の損傷で済んでよかったのだ。岩に乗りあげ擱座していれば、この船の命運もそれまでだっただろう。
ぶつかったあと、再び暗礁の多いあたりに近づき過ぎないよう、やっとの思いで舳先を沖に向け、陸から離れた。流されて近づいた陸は岩場が続いており、接岸できる場所が見つからなかったのだ。
それから風に押されて再び望まぬ潮流に乗り、いまは西に大きく流されているらしい。アダムにはそれすらも定かではない。膝を柔らかくして揺れに身を任せ、転ばないようにしているのがやっとだった。
雷霆。何度目になるのか。天が、頭の芯を痺れさせるような雄叫びを轟かせる。白く照らされた船乗りたちが、船尾のほうを指差し、声をあげているのが見えた。
とっさにアダムは身構えた。海に巣食う妖魔か。違う。度重なる閃光に切り取られたのは、山のように聳え立つ高波だった。
アダムの瞼に白く焼きついたその山は、瞬間、すべての声も音も、時さえも消し去ったように感じられた。静寂。そして次の瞬間には、咆哮をあげる巨大な海獣のように、船をめがけて襲いかかってきた。
海水。いや、海そのものが覆い被さろうとしている。そうとしか思えなかった。衝撃とともに船体が持ちあげられる。アダムはそれを全身で感じながら、そばの柱を抱くようにして耐えた。濁流が、全身を打つ。すぐに自分が立っているのか、流されているのかもわからなくなった。眼を開くことができない。まだ耐えられる。まだ、立っている。本当にそうか。腕。脚。まだ力がある。それがなんだというのか。柱から手を放さなかったところで、船が転覆すれば同じことだ。
ふっと暗い底に引きこまれるような感覚に包まれた。激しい揺れに、我に返る。滝のような水流。躰を絞られるような痛み。腰に巻いた縄が、躰に食いこんでいる。轟音。波の音か、それとも天の音なのか。やはり、眼は開けられない。このまま暗い海へ、夜の底へと引きこまれるのか。息ができない。
風が運ぶ聲が、耳をくすぐった。
暗い空が見える。星。波の音。潮のにおい。
首を動かし、視線をめぐらせる。座りこんでいる数人の船乗りの姿を捉えたところで、視界を覆うように髭面がぬっと出てきた。そばにいた年嵩の船員が、アダムの顔を覗きこんできたのだ。それでようやく自分が、甲板で仰向けに寝そべっていることに気づいた。
アダムは男にうなずいてみせ、手をついて上体を起こした。潮まみれの衣服が躰にまとわりつき、どうしてものろのろとした動きになってしまう。
背、それから手足を伸ばす。躰のあちこちが痛んだ。左手首は捻ったらしく、動かすと鈍い痛みが走る。右肩もどこかに打ちつけたようだ。肩を押さえながら片膝をつき、どうにか立ちあがった。
静かに、星空が広がっていた。船の揺れは大きく、風が鳴っている。まだ海は多少荒れているが、雨はあがっていた。凌いだ。嵐は、去ったのだ。
アダムは意識を失ったが、腰に巻きつけていた縄で命を繋ぎとめたらしい。
また、故郷の夢を見ていた気がする。どれくらい気を失っていたのか。すでに夜明け前の気配が漂っている。
負傷者は少なくないようだ。船の傷みも激しく、帆柱は真中あたりでへし折れ、水を掻くための櫂も充分な数が残っていないらしい。いまは船員を休ませ、ほとんど潮流に任せているとのことだった。状況はいいとはいえない。ただ、二十数名の船員は全員が生き残っていた。それだけでも僥倖だといえるだろう。
波に揺れるたび、船はぎいぎいと軋んだ。すでに老いていた船の、限界を大きく超えていることは容易に想像できた。
ほぼ船尾からの波であったことが幸いだったようだ。高波を浴びながらも押されるように波に乗り、かなりの速度で北上したという。あの高波を真横からまともに食らっていれば、ひとたまりもなかっただろう。船もろとも全員が海に沈んでいてもおかしくはない状況で、運よく嵐を抜け出た恰好だった。
波も風も穏やかになった。夜明け前に訪れる、束の間の凪。腰の縄も、もう必要のない程度の揺れへと落ち着いている。
どこか呆然としていて、頭に浮かんでくるものはなにもない。死は、また自分を迎えには来なかった。なんとなく思ったのは、それだけだ。
アダムは縄を解き、船縁に手をかけて海を眺めた。
闇を切るように、横ひと筋の光が走る。東の水平線だ。
「夜明けか」
光に眼を細め、誰ともなくアダムは呟いていた。
黎明の空に光が滲み出すように広がり、海と空とがそれぞれの境界を認め合う。次第にあたりが色を帯び、いつの間にかすっかり明るくなっていた。
くたびれた櫂船の舳先が、黄金に揺らめく波を断ち割るようにして進んでいる。濡れた甲板もまた、朝陽を受けて輝いていた。
アダムはしばらく遠い波間に眼をやったまま、じっと立ち尽くしていた。
嵐が嘘であったかのように、海原は鎮まっている。空には吹き散らされた白雲の切れ端が、わずかに残っているだけだ。
どれくらいそうしていたのか。すでに陽は高くなりはじめている。
頭上には抜けるような、気持ちのよい初夏の蒼天が広がっていた。かなりの時をかけて北上を続けたため、秋の終わりの気配を漂わせていた精地大陸とは、季節がすっかり逆転しているのだ。
深い群青が陽光を照り返し、海面がぎらぎらと煌めく。白い波頭が幾重にも連なり、生まれては消えてゆく。人の波にもよく似ている、とアダムは思った。
遠い波間に、飛び交う海鳥の姿も見え隠れしていた。




