第69話 正しい女
「なんだお前は。いま忙しいからすっこんでな!」
御手洗は女だろうと構わずに、強い口調で那須野に言い放つ。
「それは無理なご相談です。私はこの病院の看護師です。目の前で当院の患者が殴られようとしているのを見て見ぬふりをするなんて私にはできません。」
殺気立ってる御手洗をよそに、冷静に対応する那須野。先ほどまで壁を殴りながらお経じみたエニシングを唱えていたとは思えないほどの『冷静さ』。それは、榊原にさんざん言われたことによって生まれた悔しさをバネに、榊原の要望に見事応えてやろうという那須野の覚悟の結晶であった。
榊原の要望とは、松山に衝撃を与える因子を排除し、病院の尊厳を守ることに他ならない。紅蓮早乙女連合十七箇条の詠唱は那須野の精神を落ち着かせるための1つの儀式にすぎなかったのだ。
「これ以上騒ぎを起こそうというのなら、警察を呼びますが構いませんか?」
那須野が御手洗に追い打ちをかける。
「うっせぇなババア!呼べるもんなら呼んでみろや!!もっとも、呼んだらどうなるか分かってんだろうなぁ!?」
御手洗が再び叫ぶ。元暴走族の看護師相手に脅しをかけるという恐れ知らずの行為をしたが、それ以前に那須野の怒りに火をつけるワードを口走ったことを御手洗は自覚していない。
「バ、ババア・・・?」
28歳という若くもなく老いているわけでもない微妙な年齢である自分に対してデリカシーもなくババア呼ばわりをしてきた礼儀知らずで生意気なガキを、看護師という自らの立場を忘れて怒りのままに殴ろうと、いつもの那須野ならそうしただろう。しかし、今の那須野は違った。
「紅蓮早乙女連合 十七箇条其の十壱 『下劣な誹謗に我忘れるべからず、我忘れるは友の誇りを汚された時なり。』・・・。」
明鏡止水の境地に達した彼女は、「暴力禁止」という榊原の制約に従い、相手を殴ることはしなかったが、代わりに荒んだ精神を安らげるために小声で詠唱をおこなった。
「・・・今すぐその患者さんから離れてください。さもなくば本当に警察を呼びますよ。」
ゆっくりと御手洗に警告する。何を言っても屈せず、なお野望の邪魔をしてくる那須野に、御手洗は激怒寸前だった。御手洗はミツルから離れ、そのまま那須野のもとに迫ってきた。指を鳴らしながら那須野の前に立つ。
「たかが看護師の分際でいちいち見舞い人のやることに口出ししてんじゃねぇぞ!!!二度と無駄口叩けねぇようにしてやろうかクソ女がァ!!!!」
そう叫んで、御手洗は那須野を殴ろうと拳を振り上げる。那須野は『殴られる』と悟った。
しかし、彼女はそれでいいと思った。それで済むのなら、暴力を使わないという榊原からの約束を果たしながら、己の覚悟を曲げないままに殴られるのなら、気の済むまで殴ればいい。「暴力に屈しないのが正しさだ」という彼女が更生するきっかけとなった恩師の言葉を思い浮かべながら、安らかな気持ちで目を閉じた。
頬を殴る鋭い音がした。しかし全く痛みは感じない。奇妙に思った那須野はゆっくりと目を開く。するとそこには頬を手でおさえ、床に倒れている御手洗の姿があった。
「よく耐えた、那須野くん。」
声を聞いて那須野は気がついた。御手洗を思いっきり殴った後であろう構えをしている榊原が、那須野の横にいたことを。




