其の一
ーーー昔々、あるところに日本狼の兄弟が居りました。
彼らは先祖代々「月見山」と呼ばれる大きな山に住んでいました。
兄弟にはすでに両親を亡くしており、まだ大人と呼ぶには足りない年齢でした。
かつては獅子や鹿などの農作物を荒らす獣から村の田畑を守り、神として崇められた一族でしたが時代の流れと共に物事は変わってゆくものです。
とうとう人間たちは知恵をつけ自力で田畑を守る術を身につけました。
すると今度は狼が自分たち襲うのではないかと邪推するようになりこれ迄の恩も忘れ疎み始めました。
その風潮は村人の心の隅に確かに存在していた「恐れ」を巻き込みながら大きく、また大きくなってゆきました。
肥大化した懐疑心は遂に村人逹に狼を駆除するかどうかの会合を開かせる迄になりました。
「今すぐ奴等を皆殺しにすべきだ!」
「待て、俺たちの先祖は代々狼と共存してきた。その証拠に彼らを奉る神社まであるじゃないか」
「''昔は''な。 今はもう不必要だ。」
「必要かどうかの問題か?彼らはずっと俺たちを守ってくれていただろう。」
「じゃあ俺らは日々食われるかもしれない恐怖と共に過ごさなければならないのか!」
「そんなことはない!現に狼が人を襲ったことなどないじゃないか!」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」
議論は白熱を極めました。
早夜から始まった会議は空が白むまで続き、遂に結論が出されました。
残念なことに村人は長年の恩よりも目先の不確定な脅威の排除を選択したようです。
信仰され畏れられてきた神獣は、恐れられ駆除される害獣へと成り下がり、奉られている神社も取り壊されてしまいました。
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「兄上!このままでは我ら共に殺されてしまいます!!私をおいてお逃げ下さい!!」
「何を言うか!お前をおいて逃げようものなら黄泉の国で父上に噛み殺されるわ!」
右脇腹を弾丸により負傷した弟はもはや走ることはかなわずすぐ後ろでは猟銃を持った村人逹の声が聞こえてきています。
「ふざけている場合では御座いませぬ!」
「ハッハッハ!こういう時こそ落ち着く器量がお前には必要だな」
「ではどうやってこの状況を切り抜けるおつもりですか」
「儂が奴等を巻く。その隙に逃げろ」
「無理です!兄上がいかに俊足だとしても銃には撃たれまする!!」
「人間どもの下手な鉄砲なぞあたらぬ」
「兄上!!鉛玉の速度がわからぬほど耄碌なされたか!」
「ともかく時が惜しい。やれるだけのことはやってみようではないか」
「お待ち下さい!」
「では達者でな。何が起きようとも生き延びるのだぞ」
「兄上!!」
兄は進行方向から小道にそれるとありったけの力を込めて遠吠えをしながら駆け出しました。
「追え!狼が向こうへ逃げたぞ!」
村人逹も同じく小道へそれ、兄を追いかけてゆきました。
遠ざかる遠吠えと幾度の銃声を聞きながら弟は逃げ、兄の無事を祈りました。
しかし遠吠えは一瞬の苦しみの叫びとともにすぐに消え最後の銃声が鳴り響きました。
その叫びに弟は言いつけも忘れ無我夢中で兄のもとへ駆けつけました。
弟の目に飛び込んできた光景は筆舌に尽くしがたいほど衝撃的なものでした。
兄の真っ白だった体は血で染まっておりもはや息はありませんでした。
傍らには仕留めたであろう村人が数人集まり何やら談笑しています。
茂みの影から見ていた弟は我を忘れて襲いかかろうとしましたが傷からの出血がひどく数歩のところで倒れこんでしまいました。
その姿に村人は気がつき銃を向けながら近寄って来ます。
「なんだ。生き残りが居たじゃないか」
「わざわざ戻ってくるとはとんだ阿呆だな」
弟は最後の力を振り絞り村人逹を睨み付けます。
「よくも兄上を!!我らが一体何をした!!危害を加えたことがあったか!!この恨み死しても忘れぬ!!」
村人の一人が銃口を弟の頭へ向けます。
もはやこれ迄。父上、母上、兄上。今からそちらへ向かいまする。
死がそこまでせまり、もはや逃れられぬと悟り目を閉じたそのとき
ガキッ
薄目を開けた弟には何が起こったのか到底理解出来ませんでした。
玉が射出される筈の銃口はその者により握り潰され本来の役目を果たせずにいました。
人間?の女性、金の長髪、美しい容姿、紫がかり無数の星が刺繍されている藍の着物、腰に一対の日本刀。
様々な情報が飛び込み混乱する弟の目にとまった絶対的な象徴。
彼女の額には一本の真紅の角がありました。
鬼です。
弟は過去に父から聞いた話を思い出しました。
その者逹、事強さにおいて比肩する輩なく一度怒りをかえば良くて命を落とすだけですむ。
嘘を嫌い、また万の能力を使うことができる。
会うことはないと思うが見かけたら必ず見つかる前に逃げろ、と。
しかしもはや意識さえ確かではない弟にとって状況は絶望的でした。
数人の武装した村人、目の前には血のような真っ赤な目で自分を見下ろす鬼。
弟にはもはや残された道はありませんでした。
(人間の手にかかり命を落とす位なら鬼に頭にを踏み潰された方がましだ。)
そう考える最中、弟の意識はぷっつりと切れてしまいました。
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目を覚ますとそこは質素な畳張りの部屋でした。
弟は部屋の隅の布団の上で寝かされていました。
脇腹の痛みはもうほとんどなく傷口も塞がりかけていました。
「おかしい」
「あの大きな銃創がこんなに早く治癒するはずがない」
「それに此処は一体・・・・」
それを考えているやいなや襖がガラリと開き'その者'が入ってきました。
弟はとっさに身構えようとしましたが、足に力が入らずに畳の上に崩れ落ちました。
「動くな」
その者の言葉は強烈に心に突き刺さりましたが何故か安心できるものも含んでいました。
「私は怪我を治しただけだ。失った血液はどうにもならないがねぇ」
「・・・・・・・・・・・・・治した?」
「ああ。私が治した」
「一体どの様にして?そもそも・・・・・」
「うん。まずは落ち着きな。これから全てをを説明してやる」
いまだに事情が飲み込めない弟はその者からことの顛末を聞きました。
村人逹はその後一目散に逃げ去ったこと。
もう一匹の狼はすでに息を引き取っており家の裏に丁重に埋葬したこと。
瀕死の弟を担いで月見山の自宅に運び'能力'を使い治療したこと。
自分はは弟の母親である母狼と古くからの友であり、もし何かあれば子狼逹を守ってやると約束したこと。
そして自分は月見山の守を任された鬼だということ。
洪水のごとく流れ込んだ大量の情報により、弟の頭は破裂寸前になりました。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・」
「まずはお助けいただきありがとうございました。誠に勝手ながらしばらくお時間を頂けないでしょうか?」
「無理もないね、うん。わかった」
「何かあれば言え。家の者を寄越す」
そう言い残すと鬼は部屋から出てゆきました。
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弟が気が付くと幼少の時よりよく駆け回っていた草原に立っていました。
「兄上!!ご無事で御座いましたか!!!」
見間違える筈もないその後ろ姿。いつか追い抜こうと必死で追いかけ、されど届かぬその背中。
兄狼はゆっくりと弟の方とは反対に歩いて行きます。
「兄上!私です。弟で御座います!!」
その叫びも虚しく兄は気づかず、どんどん遠ざかって行きます。
弟は追いかけようとしましたがどんなに早く走ろうとも何故か追い付くことが出来ません。
「兄上!!私は何一つあなたに及ばず常に目標として今日まで来ました!!川の魚取りも、野を駆る速さも、獅子を相手取る勇猛さも、そして・・・・・・・・」
そう言うや否や突然兄狼は歩を止め、弟の方を一瞥し、くわえていた何かを置くと何事もなかったかのように再び進んでゆきました。
しかしその早さは一段と増し、一瞬にして姿が見えなくなってしまいました。
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弟が再び目を覚ますとそこは先ほどの質素な畳張りの部屋でした。
「ああ」
「本当に兄上はこの世を去ってしまったのだな」
「・・・・・・・・・・・・・・」
弟はしばらく考えると部屋を出ることにしました。
そこには鬼の召し使いとみられる小鬼が居りました。
「一体その体で何処へ行かれるおつもりですか。」
「すまぬがしばらくここを離れたい。この恩はいずれ返すとあの鬼に伝えてくれないか。」
「かしこまりました。どうかお気をつけて」
「ああ」
そう言い残すと弟は家の外に出てゆきました。
弟は駆け抜けます。
長年飽きるほど走り続けたこの獣道を。
ただひとつ異なった事があるとすれば。
今は前を駆ける者がいないということ。
追いかけ、届かず、模範とした姿。
時には嫉妬し、時には争い、されど尊敬していたあの背中は。
二度と、もう二度と前を走ってはくれないのです。
先導し、道を示してくれることは無いのです。
弟はようやく夢に見たその草原にたどり着きました。
すでに夜も更けておりました。
虫の声。例年通りの蛍の光。空に浮かんだ見事な満月。心地よい初夏の夜風。
山の頂上付近にある村を見下ろすことができるその草原は。
いつも通り何事もなかったかのように時を刻んでおりました。
しかし、草影からの突進も、大きな岩の上でくつろぐその姿も、月を震わすほどの咆哮も。
待てども待てどもありません。
「・・・・・・・・・兄上」
かつて兄狼が気に入っていた岩の上に座り込むとそう小さく呟きました。
弟はその上から草原を見下ろすと何かを見つけました。
すぐさまそこへ向かうとそこには一匹の歯形のついた血だらけの兎が息絶えておりました。
そのとき弟は突然雷に打たれたかのように過去の記憶が蘇ってきました。
(もっと食え。そんな小柄では鹿にも勝てんぞ)
(相も変わらず細い食よ)
(腹が減った?よし!待っておれ!)
不器用な弟が空腹とならぬよう兄はいつも凄まじい早さで狩りを成功させ、嬉しそうにねぐらに帰ってくるのでした。
(沢山喰らいもっと強くなれ!)
気がつけば弟は溢れる涙を止めることは出来ませんでした。
「死してなお私の事を気に掛けてくださるとは」
「やはり貴方には到底敵いませぬ」
弟狼はその兎を平らげると一晩中岩の上で月に向かって遠吠えを続けました、とさ
空を流れる宙の月
時を流れる年の月
二つの月を感じ、そして見続けた
ある一匹の狼の物語
はじまりはじまり