表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

白い背中

作者: そば茶

 白い背中。丸みを帯びた胴体。おじいちゃんのようなその笑顔。初めて会うはずなのに、どこか懐かしい。

小さいころ、時間が経って濃くなった渋みのある紅茶のような笑顔をするおじいちゃんに憧れた。そのまま危うく目を閉じ空想の深海の底へと旅立ちそうになり、あわててまぶたを押し上げた。いつもより寒い冬で冷え切った心に、ぐつぐつと沸騰した記憶がしみこんでいく。

君がいる水槽の前に立つだけで、僕はもうこんなにあたたかい。どれだけの人たちを、君はあたためてきたのだろう。

君はなかなか答えてくれないので、僕は水槽から少し離れたところにある紺色の椅子に腰かけて、しばらく時間を置くことにした。

ジュゴン。海牛目に所属する哺乳類。僕は、好きなアーティストがジュゴンのことを歌っていたこと。調べたら日本ではここでしかジュゴンが見られないこと。その二つのことが誘惑したこともあり、僕をこの水槽の前へと連れてきた。

いま水槽の前では、青色のNIKEの靴を脱いだ男の子がパパに怒られている。その怒られてもなお屈託のない笑顔を見せる息子の姿を、ななめ後ろからママが写真に収めている。

いいなあ。僕は真似をして自分の靴を脱いでみたけど声はいつまで経っても後ろからかかってこない。僕は仕方なくまた靴を履きなおした。当たり前といえば当たり前だった。僕は一人で来ているのだから。そう。僕は俗に言う、家出をしてきたのだ。

小学四年生の僕はジュケンセイというやつだった。なんで三年生までは外で自由に遊んでいたのに、四年生になった途端にジュクというものに行かなくてはいけないのか僕には理解ができなかった。ママは「ショウライのためだよ」としか言ってくれなかった。

僕は大人たちがショウライという言葉を使うたびに、自分とは関係がないどこか遠くのところのことの話をしているような気がして、迷子でずっと置き去りにされているみたいな感覚を覚えた。

そんな僕は、ジュクのテストがとても悪くて、家に帰ると怒られると思い、テストをびりびりに破いた。

あとはもう体が勝手に動き、最寄りの駅から電車に飛び乗って、五駅先のこの水族館にやってきたのだった。

時計を見ると十六時半だった。あと三十分で水族館は閉まってしまう。お年玉の残りの三千円を持ってきたけど、入園料を払って、もう今は五百円しかない。

このお金ではどこにも泊まることができないことは、小学四年生の僕でもわかりきっていることだった。どうしよう。 

でも、このまま家に帰ることだけは嫌だった。

気が付くと、さっきの家族連れはもう水槽の前から居なくなっていて今は誰もいなかった。ジュゴンはというと、餌のアマモを食べている最中で、水槽から近い位置まで来ていた。僕は腰をあげ、水槽のほうへと歩き出した。

そのときだった。制服を着た巡回の警備員さんが遠くから僕の方に近づいて来ているのが見えた。やばいやばい。いま声をかけられたら一人でいるのがばれてしまうかもしれない。そしたらこの家出も強制終了になっちゃう。あ、目があってしまった。あああ警備員さんがくるっっ。


目をあけると、目の前が緑で一色だった。あれおかしいな。警備員さんに捕まったと思ったのに。それに自分の頬のあたりがひっきりなしに動いている感触がして、じれったい。足元を見ても、緑色の景色が広がっていたが一つのことに気づいてしまった。

さっきまで履いていた靴がない。靴どころか、あるはずの足が二本ともないということに。夢でも見ているのだろうか。

すると、頭上に灰色の空が出現しその陰から猛スピードで自転車のような黒い物体がこっちに突っ込んでくる。ぶつかる、と思ったとき自分の体がすっと右に動きその黒い物体を交わした。近くにきたとき一瞬全体が見えたが、流線型の形をしていた。なにより自分の体があんなに速く動いたことは生まれて初めてだった。足もないしやはり夢の中であるのだろうか。

「はっはっは夢じゃないぞ」

 突然の声で僕は驚いているとまた声が聞こえた。

「さっきのやつは気性が荒いやつなんだ。勘弁してやってくれ」

 どうやら声の主は灰色の空の上から話しているようだった。さっきのやつとはあの黒い物体のことだろうか。不意に、僕はどこからかわからないが、いくつもの視線を感じた。

 大きな二つの黒白の円。しかもどんどんと現れる黒白の円。ホラー映画を実体験しているみたいだ。こんな怖い夢は久しぶりだ。もう帰りたいよ。そんな僕を見透かすように灰色の空は僕に語りかける。

「こわがらなくてだいじょうぶ。あれは子供たちだから。わたしが食べている姿をなるべく近くで観たくて、水槽のガラスに張り付いているのさ」

 子供たち?水槽?ますます僕はわけがわからない。

「ああ混乱させてしまったようだね。申し訳ない。わたしは順序立てて話すことが苦手なんだ。よおし。お腹いっぱいになったし君に自己紹介しよう。といっても近すぎてわたしのことが見えないね。ちょっと待っていて。少し離れるから」

 そう言って灰色の空はどーんと音を立てて動き始めた。あまりの勢いに目をつぶってしまった。しばらくすると音はもうしなくなり、おそるおそる目を開けた。

 頭上にはきらきら光る水色の空が広がっていた。昼間の空に満天の星空が広がっているみたいでとてもきれい。あまりの美しさに僕は時間を忘れていた。

「やあ。わたしのことが見えるかい?」

 どこからかさっきの灰色の空から聞こえた声がする。声の主を探して、目を凝らすとそこにいたのは、ジュゴンだった。

「驚いたろう。初めまして。わたしの名前はエレナ」

 開いた口が塞がらない僕を置き去りにして、ジュゴンはどんどん話していく。

「まあ驚くのも無理はないよ。ごめんね。わたしが勝手に君をここへ連れてきたんだ。といってもあのまま放っておいたら、君はあの警備員に捕まっていたと思うけども。さっきもちらっと言ったけれど、ここは水槽のなかだ。君はいま魚の姿になっているんだ」

 なんだって。水槽のなかで僕は魚になっているらしい。到底信じられないが、足がないことは合点がいく。

「君は用心深いんだねえ。試しに泳いでみたらどうだい」

 ジュゴンはやれやれといった表情をしてそう僕に告げた。まあたしかに何事もやってみないとわからないもの。試しに泳いでみようかと思ったが、そうだ僕は泳げないのだった。

「ねえ、僕泳げないのだけど。溺れたりしないかなあ」

「ははは。泳げない魚なんていないさ。さあわたしについてきて。」

 そう言うとジュゴンは僕に白い大きな背を向けて奥へと泳ぎだした。学校のプールですぐに足がつくっていうのに。僕に泳げるわけがない。このまま動かないほうがいいのではないか。逡巡している僕にジュゴンは笑いながら話しかける。

「ときには思い切って行動してみるのも大事なんだ。さあ走るようにしてこっちまできてごらん」

 手はないはずなのにジュゴンはまるで手招いているようだった。どうせ失敗したところで、ここは水の中だ。泳げない魚って水面に浮くんだろうかなどと思っていたら、体が前に動いた。そしてどんどん体が水を切っていく。

これは、泳いでいるではないか!水を切る度に違う感触が頬をなでる。魚だからエラというほうが適切だろうか。そのなでるような水は思いの外気持ちがよく、生まれて初めて、泳ぐことってこんなに楽しかったんだと知った。

「ねえジュゴン。僕いま最高の気分かもしれない」

「ははは。君の気分であるのだから、かもしれないという表現はおかしいぞ。それとエレナって呼んでくれ。あと遅れてしまったけれども君のことも名前で呼びたいから名前を教えてくれないか」

 ジュゴンは得意げな表情から話し始め、それから、まごまごした表情へと変わって語りかけてきた。余計におじいちゃんのように愛おしく感じられて、知らない大人に対して抱く警戒心のようなものはとっくに消えた。

「いしいかずや」

「おっ、じゃあかずやって呼べばいいんだな。」

「いいよ、エレナ」

「早速名前で呼んでくれたね。ところで、」

 エレナはここからが本題だという顔をした。

「かずやはどうして一人で水槽の前にいたんだい?」

 目の前をすーっと僕と同じくらいの大きさをした一匹のエンゼルフィッシュが横切っていく。角みたいなものが水になびく姿はかっこいい。痛いところをつかれたときに違うものに注意を向けることが、かずやの悪い癖だった。

「一人でいたかったんだ。それだけだよ」

 自分を嘘のカーテンで覆い隠し、エレナから少し顔をそむけながら、かずやはそう言った。

「そう。そういうときもあるよね。わたしは一人という瞬間がない。あ、君たちの間では一頭って言うんだったね」

ああ。気遣われたとわかったし、もっと別な理由があるんだってことを見抜かれたと思った。

「エレナ、僕さ。」

 右方から、黒い大きな魚の吐き出した気泡が、目の前を横切る。

「一人で居ないといけないと思ったんだ」

 エレナは目を細めてゆっくり近づいてきた。

「どうして」

 その目。僕には駄目だった。包み込むような白い顔。

「だって。怒られると思ったから、そしたら嫌になっちゃったんだ」

「どうして怒られると思ったんだい。かずやが何かしたのかい」

 エレナは目と鼻の先の距離で、ゆっくり泡をはきながらそう言った。泡が額あたりに着地し、少し僕の体が後ろに動いた。

「テスト。テストの点数が悪かったんだ」

「はははははは。テストの点だって、、」

 エレナは体をくねらせて笑った。なんで笑うんだよ。こっちは真剣に悩んでいるのに。僕は少し不機嫌になった。

「うるさい。笑うなよ」

「だっておかしかったからさ。じゃあかずやにとってテストはそんなに大事なものなのかい」

「大事なのかな。でもとりあえずは、いい点数じゃないとママに怒られるんだ」

 エレナはきょとんとしている。目の奥には優しさが香り、少しイライラしていた僕は自然とおだやかになる。

「なんでいい点数をとらないといけないのだい」

「ジュケンで点を取らないと受からないからさ」

「そのジュケンはかずやにとってそんなに大事なものなのかい」

 えっ。ジュケンは僕にとって大事なのだろうか。でもママが大事と言うし。あれ、なんで僕はジュケンしなきゃいけないの。そんなこと考えたことがなかった僕は当惑した。そんな僕の心を悟ったようなエレナが、少し真面目そうな顔をしている。

「かずや。自分にとってよくわからないものを、やらされて時間をとられ、その結果に一喜一憂するのは意味があるとは思わないなあ。自分がどうなりたいのか、どうありたいのか。そういうことを考えて動いたほうがいいんじゃないかなあ。かずやは得体のしれないものに振り回されているようにしか見えないよ。」

 急にエレナが難しい言葉を使いながら話始めた。出会ったときとは違い、目の前の僕への単純な興味から、僕自身の内側に入り込んでくる訴えへとエレナ自身の心境が変わっているように感じた。エレナはさらに続けた。

「当たり前を疑ってごらん。少し楽になるよ。同時に世界が広くなる。大丈夫。広がった分、抱き締めてくれる人が増えていくから。わたしにはこの水槽が世界の全てさ。でも、かずやはどこへでも行ける。」

 寂しさを含んだ笑顔だった。過去を追いかけていくときの人と一緒。捨てきれなかったものに対峙しようとするときの変なモヤモヤ。どう乗り越えたのだろう。

「エレナは強いんだね。」

「強くないさ。人間と一緒で、年をとったんだよ」

 そう言うと、エレナは泳ぎ始めた。強さと年の関係を聞こうと思ったのに。並ぼうとして僕はあわてて、追いかける。右を向くと、水槽のところにはたくさんの目が見えた。あれ。おかしいな。とっくに閉館時間は過ぎているのに。そういえばさっきもそうだ。この時間に人がいるのはありえない。

「おーいエレナ。なんでまだ人が水槽の前にいるの」

 少し先を行っていたエレナは振り返り、僕を見つめる。

あ、あのおじいちゃんみたいな顔をまたしている。

「よく気づいたね。実は5時間時間を巻き戻したんだ」

 エレナは淡々と言った。時間を、巻き戻しただって、、、

「そんなことできるの」

「年をとったからね」

 まあ水槽に連れてくるぐらいだからあんまり不思議には思わなかった。それより、また年の話だ。長く生きることはそんなになにかあるのかな。

「年をとるといいことがあるの」

「はははははは。かずやはいいという言葉が好きだねえ。年を取ると経験が増えていくのさ。いいとか悪いとかじゃない。そのときそのときに思ったことが降り積もっていく。ああ嬉しいなあ、ああ悲しいなあとか。」

 エレナはふうっと息を吐く。

「だから経験を振りかざしてはだめなんだ。これから経験する人の先入観になってしまうから。経験は、悲しいときや寂しいときあるいは失敗したときに、寄り添うことができるんだ」

「そんなものかな。まだわからないな」

「まだかずやはこれからだからね。寄り添うということだけど、他人の気持ちは絶対にわからないんだ。限りなく百パーセント近くまで寄り添うことができても百にはならない。だってその人自身ではないから。僕だってあそこに泳いでいるホンソメワケベラの気持ちはわからないんだ。何度か話をしたことはあるし、くっついて泳ぐのは楽そうだなあとは思ったりするけどね。だから、かずやもママの気持ちはわからない。でもかずやのママも実は色んなことを考えて、かずやに勉強をさせているんじゃないかな。ママも経験から何かを感じて、かずやに残そうとしてるんじゃないかな。もしかしたらちょっと経験を振りかざしているかもしれないけど、そこは大目にみてあげてさ」

 ぶわあっとエレナは泡をはいた。泡は何層にもなってやがて萎んでいった。

「わたしが言ってることもまた経験の一つに過ぎないよ」

「いや、なんかうまく言えないけど」

 そう、うまく言えないんだ。でもなにかが変わった気がする。僕の中に新しい部屋が生まれたみたい。

「なんとなくなんだけど、ありがとう。楽になった」

「ははははは。わたしは感謝されるようなことはしてないよ。ちょっと泳ごうか」

「うん」

 僕はエレナと水槽を一周した。泳ぐ感覚ではなく、もう飛び回る感じだった。手はないのに、手をつないでいる。エレナと僕は同じ部屋をルームシェアしてるのかな。そう思うと、胸の中がぽっと明るくなった。

「もう、かずやは大丈夫だね」

「なにが大丈夫なの?」

「目さ。目だけはごまかせないんだよ。わたしは、この水槽の前に座る人の目を見続けてきた。最初かずやを見たときは怯えた弱気に潤された目だった。でも、今はちゃんと目の奥が私を捉えて、自分の芯を抱えながらそこにいる。だから、もう大丈夫なんだ。さあ、もう帰る時間だ。」

 いきなりエレナは特大のリングを飛ばしてきた。僕の意識はリングに吸い込まれ次第に深くへとおちていった。


 時計を見た。昼の十二時ちょっと手前。エレナの話は本当だった。数時間後に塾で悪いテストが返される。でも、今はもう怖くない。そのテストをママに持っていって、受験がどういうものか聞いてやるんだ。ふと、水槽をみる。エレナは相変わらずのんびり泳いでいる。水槽の中に向かって心の中で問いかける。

「エレナ、もう少しだけ君を見ていようかな」

 エレナがこっちを向いた。あのおじいちゃんのような顔。もうエレナからの言葉はいらなかった。ふと、財布の中を見る。おにぎりを食べるお金はあることに僕は気づいた。

 僕は椅子から立ち上がり出口へと向かう。その足取りは軽く、なにより、背中を誰かに押されている。そんな気がした。もっと話したかったのかもしれない。でもエレナはしばらくの間あそこにいるはず。

 もう少し大きくなったら、またエレナに会いに行こう。僕の背中はきっと大きくなる。うん。大丈夫だ。

駆け出した青空の中にでっかい雲。まるでエレナが水槽で笑っているみたいだった。

(完)




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ