変わった運命 太平洋戦争 その後
思いついてから1週間で
考えつくしただけのことはやった
1945年8月7日
大日本帝国帝都 東京のある旅館
「ドイツ帝国が降伏したそうだ」
「終わったんだな、世界大戦が」
「飛龍、瑞鶴、よく頑張ったな」
「山口長官、この戦争は、始まりの終わりにすぎません」
「・・・・・・ああ、日ソ不可侵条約は、今もなお健在だが、いつ破棄されるかもしれないからな」
「戦艦は、ビッグ7と呼ばれた長門と陸奥は健在しているし、その上にいる大和も存在している、ソ連海軍となら、我々だけでも戦い抜けられるが、陸軍が心配だ」
「関東軍(在満日軍)も士気は高いのは良いが、此処で負ければ」
「だよな・・・・・・、われわれは勝ったと言っても、正しくは太平洋戦争に限ってだ。インド洋、シベリアでは一戦もしていない」
「山本長官」
「正直、ハワイまで落とせたこと事態が奇跡だ、ミッドウェーで赤城と蒼龍が沈んだときは負けたと思った、第五航空戦隊を投入していなければ、敗戦に繋がっていたとも思っている」
「もし、飛龍もやられていたら、私も運命をともにしていたと思う」
「山口君」
彼らは、ウィスキーや日本酒で乾杯した
多くの国民を動員した戦いに、彼らは深く後悔していた
その後
大日本帝国は、大きく変わっていった
民主化が加速したのだ
1 49都道府県(樺太、台湾を含めるため)知事を官選から公選に
2 天皇の軍の統帥権放棄(政府に一任)
3 大政翼賛会の解散と政党政治の復活
4 女性の参政権容認及び選挙権20歳に引き下げ
5 陸軍省と海軍省の統合及び陸軍航空隊の陸軍からの分離(国防省に統合)
6 客体的文民統制導入 軍隊を政治から分離し専門化させ、介入を防ぐ目的
7 軍需産業を中心に財閥の一部解体(主に鉄道と銀行、車両)
大きくこの7つが基本となっているが
衆議院の解散権に関しては、憲法では最長4年というのは絶対条件というしたに
天皇陛下が解散権を保持することになった
つまり 内閣不信任決議案が可決されて、内閣が期限までに衆議院を解散したいと言っても天皇が許可しなかったら、総辞職確定という面倒な話
ついでに、天皇個人の判断でも解散要求ができるため、国民世論次第では一番有力になっている
これらには、多くの軍人政治家が反発したが
天皇の命令で
従う人もいれば
テロに走って殉教したりしたものもいれば
自決するものもいれば
インドや朝鮮、東南アジアに渡り、地元軍の指導にいくものもいた
海軍艦艇もも駆逐艦を中心に独立国への売却やスクラップ処分がでた
主に
睦月型就役以前から現在まで残存している駆逐艦や
吹雪型と松型が売却された
戦火に負けず売られず残った吹雪型と松型は
吹雪と朧と潮
梅、桜、楓の6隻だけだった
PS 改吹雪型(別名 暁型)は全艦無事で
史実では北方戦線行動中に響が空襲でやられるが
此処ではその前にあったミッドウェー海戦で日本が空母3隻と重巡三隈を喪失しながらも勝利し
第六駆逐隊での艦隊編成のまま 最後まで残った
奇跡の駆逐隊とも言われている
1945年以降
欧米各国は、アジア全体の植民地の独立を認めていった
原因は2つ
ドイツとの戦争で大赤字になったこと
日本により 東南アジア諸国が独立軍(国軍)と政府の設立ができたため
日本も代償として、朝鮮半島の独立を認めたが
案外それが正しかったという政治家もいた(どの植民地も赤字状態だったため)
満州国も、いろいろと話し合いの結果、存続が認められるかわりに
1947年8月28日
日米朝満安全保障条約がむすばれることになった
その後、1950年日ソ不可侵条約破棄と第二次満州事変を機に
米ソ関係が悪化し
欧州との連携のために
1951 年
アジア大西洋条約機構AATOが発足した
史実で言うNATOの拡大版である
日本は アメリカとイギリスに
日本海軍の佐世保鎮守府の一部共用
岩国基地の日米共用
横須賀鎮守府の隣にアメリカ太平洋艦隊寄港基地新設
三沢でもAATO合同基地として運営していくことになった
これにより
青森県、山口県では基地効果で商工業が発展した
特に山口県は、本州から下関が朝鮮半島への最短距離のため
経済効果があった
日本海側の都市も朝鮮半島の元山との貿易等で発展した(主に、秋田、新潟、富山、舞鶴)
東京、大阪、名古屋、仙台、広島、福岡では
日本の五重の塔を参考にした高層ビル計画も始まり
さらなる発展をした
その後
1962年 キューバ危機(カリブ海にある社会主義国がソ連にミサイル基地の土地を提供して起きた騒動)
日本では、在満日本陸軍、樺太県駐屯陸軍が警戒に当たった
一部の艦艇も日本海に展開し、対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡等で臨検措置を執るなどして
ソ連の動きを牽制した
幸いにも、ソ連がおれ
戦火を交えずにすんだが 日本の負担は厳しすぎた
その後、ベトナム騒動が起きるが
中華人民共和国の援軍が乏しい結果
分断国家のまま終戦を迎えた
その後、緊迫が続いたが
1980年
戦争状態になりかけた事件が起きた
北サハリンから20人のソ連の学生が南樺太に亡命
ソ連は学生20名の亡命を許さずに、大日本帝国に侵攻
軍事衝突が起きたのだった
戦争は半年に及んだ結果
双方お咎め無しで停戦になった
日本側は、賠償金請求をしたが結局とれず
ソ連側も、学生20名が最終的に米国、カナダに亡命してしまい
悔しがった
その後、14年間の間に
日本はバブル景気に突入
ソ連崩壊時には、樺太県出身の資産家達が日本政府に大金を積んで
北樺太を買収させた(4割はドル建て、残りはカップめんなどの食料)
これにより
米ソの冷戦は
アメリカ陣営の勝利で幕を閉じた
日本では、自治体再編が行われ
2001年4月に 北東から
樺太州、北海道、東北州、北関東州、東京都、中部道、京都州、紀伊州、大阪都、陰陽道、南海州、九州、沖縄州、台湾州の
3道2都9州に再編された
その5ヶ月後
東京、ニューヨーク、ロンドンを標的としたテロが発生
世界は、冷戦が終わった平和からテロとの戦争に突き進んでいった
終わり