098.毒 呪
「なぜ、こんなことに……」
「グレアム様。侯爵様は、あなた様にお話があるからと……ラッセル侯爵邸から別邸には行かず、こちらの本宅にお戻りに……その最中、突然具合が悪くなったようでして……」
倒れ伏した前長官の周囲で、ターナー家の者たちが医師の手配を声高に叫んでいる。そこに現れたグレアムに、家人の一人が状況を説明した。
「突然具合が悪くなった? そんなもの、自身の魔法で癒せばいいではないか。何をこんなところで素直に倒れているのだ」
怪訝そうに片眉をあげ、呆れきった口調で言い放ったグレアムの言葉は、アナベルも思うものだった。
水魔法を得意とする白魔法使いが、具合が悪いのを放置して倒れるというのは、正直にありえない。
「馬車の中で侯爵様は何度も治癒魔法をおかけになっているようでした。ですが、まったく効き目がなく……効かない、どういうことだ、とのお声が馬車の外まで……」
家人が言い難そうに答えた。
「効かない? 父は治癒魔法が効かないと言っていたのか?」
グレアムが顔色を変えて問い質すと、報告した家人は怯えた様子で、こくこくと何度も頷いた。
「ぐ、うっ……ううう……」
苦悶の表情で硬く目を閉じていた前長官が、唸り声をあげた。
「父上! 一体、何があってこのようなことになったのですか?」
グレアムが前長官の傍に膝をつく。前長官はどす黒い泡を吹いているだけでなく、顔も手も……おそらく服に隠れて見えない部分も、肌がすべて黒く変色していた。
「……わ、わからない……ラッセル侯爵は私を見捨てた。王太后様にも紹介してやった……奴隷買いの便宜も図ってやったのに……陛下に罷免されるような人間は、不要なゴミだと言い放ったのだ。あの下衆めが……」
安定しない呼吸の中、声を絞り出すようにして前長官は恨み節を連ねた。
セインが予想していた通りに、悪事の露見した後まで、ラッセル侯爵は前長官の味方となり金を運ぶことはしないらしい。
虫の息の前長官は、アナベルの見るところ何かの呪いに侵されているようだった。
「……どうして……おまえがここにいる? すべてを失った私を、嘲笑いに来たのか?」
前長官がアナベルの視線に気がついた。血走った目でこちらを見上げて毒づき、激しくせき込んで再び泡を吹く。
「あなたがひどい目に遭わせた奥様の治療に来ただけです」
「ああ……グレアムが呼んだのか。……私を蛙にするおまえが、私の妻は助けるとは……よくわからない、中途半端なお人よしだな」
前長官は身体の不調にあえぎながらも、アナベルを嘲るように笑った。
「毒の呪いのようですが……これは、黒魔法ではない?」
お人よしだからこの場にいるわけではないのだが、アナベルはつい、グレアムの隣に膝をつき、前長官の身体に手をかざして調べてしまった。
しかし、前長官を苦しめるものが毒呪であることは読み取れたものの、それをかけたであろう黒魔法使いの存在は認識できなかった。
アナベルのまったく知らない毒呪だった。
「私との縁を無かったことにしたいラッセル侯爵の仕業と思うが、私に呪いをかけられるような魔法使いは、あの家にはいないはず……この呪いは読み解けない……」
「……うそ。解呪できない……」
悔しげな前長官の呻きと、アナベルの驚愕の声が重なった。
光の上級白魔法で呪いの浄化を試みたのだが、弾かれて効かない。まさかの展開は、ブルーノに填められた呪いの腕輪をアナベルの脳裏に彷彿とさせた。
背筋がぞくっとして寒くなる。
「おまえであっても解呪不可能か……ははっ、ならばマーヴェリット公爵が私と同じ目に遭えば、死ぬのだな。それは、愉快だ……」
前長官が晴れ晴れとした様子で笑った。
アナベルはその内容にむっとする。
「セインは絶対に死なせません。たとえ、誰がどのような毒呪で襲ってきたとしても守ります」
「……口先だけとならぬといいな。公爵が奴隷買いを認め、イブリンの婿になっていれば、私の権勢に揺らぎはなく、ラッセル侯爵ごときに侮られることなどなかったものを。私に都合よく動かなかった公爵など、毒にやられて地獄に落ちればいいのだ」
前長官はアナベルを小馬鹿にするような目で見た。
逆恨みとしか思えない暴言にますますムッとするも、泡ではなく血を吐いた姿に、再び光の白魔法をかけてみる。なんとか解呪できればと思うも、やはり無駄だった。
その時ふと……アナベルは長官の全身を覆いつくす呪いに、ブルーノの気配を微かに感じた。
「なぜ?」
「父上!」
訳がわからず呆然として呟くと、今度はグレアムの叫びが重なった。
「こんなところで死にたくない。私は誰よりも陛下のお傍で……権力を……富を手に、この世を楽しむはずだったのに……グレアム、ラッセル侯爵を許すなっ!」
無念と恨みが綯い交ぜになった声を最期に、前長官は毒呪に抵抗しきれずこと切れた。
「やはり、母が心配でこちらの屋敷に来たわけではないのだな。私に、ラッセル侯爵へ報復させるため、か……」
無表情で死したる父親を見ているグレアムと、突然の死に衝撃を受けた家人たちの嘆きの声を後にして、部外者であるアナベルはその場を去った。
◆◆◆
『きゅう!』
セインの屋敷に移動すると、頭上から愛らしい声が降ってくる。
玄関扉を開けるより先にアナベルは顔を上げ、声の主を探した。
【お帰りなさ~い!】
朗らかなきゅきゅの声が意識に響いたと同時に、二階の窓からアナベルの傍に飛んできてくれた。
「隊長。ただいま」
【あら? とても疲れて見えるわ。魔法屋で難しい依頼が多かったの?】
差し出した右腕に乗ったきゅきゅが、心配そうな目をしてアナベルを見ている。
「全身治癒魔法が連続して、疲れてはいるのだけど……それよりも……」
前長官を死なせた呪いにブルーノを感じたことが、妙に引っかかっているのだ。
彼が魔法使いでないことは確かで、呪いをかけるなど出来るはずもない。ましてや、前長官の白魔法に勝る呪いとなれば、上級魔法使いでなければかけられないはずだ。
それなのに、アナベルは彼の気配を感じた……。
はたしてこれを気のせいですませて良いものか。
自身の魔法がまったく効かなかったことにも、そこはかとない不安を覚え、アナベルはなんだか足元がおぼつかない心地だった。
【無理しないでね。情報などより、あなたが笑顔で傍にいてくれることこそが、セインの何よりの力になるのだから】
腕から肩へと移動し、その翼で労わるようにアナベルの頬を撫でてくれる。
きゅきゅの優しいおこないと声に、アナベルは少し鬱屈が晴れた。自然と口元がほころぶ。
「ありがとう」
【あなたがとっても嬉しくなる食べ物を、たくさん用意しているのよ。ぜひ食べてほしいわ】
きゅきゅは自信ありげな笑みを浮かべていた。
「嬉しくなる食べ物を、たくさん……」
なんとも心躍る申し出に、アナベルの目が輝く。
「この屋敷の料理長は何でもおいしく作れる天才なの! こっちよ、セインも待っているわ!」
アナベルの肩からきゅきゅが飛び立つ。
アナベルは屋敷の内へと続く扉を開ける。先導する彼女の後を喜んでついて行った。
「おまえなあ……いくらアナベルがケーキ好きと知ったからと、これはおかしいだろう? このありさまは大勢招く茶会だぞ。喜ぶどころか困らせるだけだ。それともなにか? 食べるより先に、彼女が胸焼けする姿でも見たいのか?」
きゅきゅに案内されたのは、二階の部屋だった。
アナベルが扉の前に立つと、中からジャンの呆れきった声が聞こえてきた。




