097.取引成立
「地位も財産もなく、魔法も使えない。その状態でベリルから出されたあなたは、異国で奴隷商人に捕まってしまうかもしれないわね。鞭打たれながら過酷労働を強いられても、逃げ出すことは出来ない。人生は明日、何があるかわからないものよ」
「…………」
グレアムはアナベルの言葉を否定することはなかったが、無言だった。
「これからは是非とも、立場が逆転して自分が奴隷になったら怖いとか、嫌だと考えてほしいわ。他者を奴隷とする。それは人としてやってはいけないことなのよ」
「おまえがそう思えと命じるなら、してはならぬことと意識に刻む」
グレアムは顔を強張らせたまま、目蓋を伏せるようにして言った。
アナベルが脅すから渋々、との感情が垣間見える。完全に理解してくれたとは思えない姿だったが、それでも少しは、奴隷買いが悪事であるとの認識が芽生えたようにも見えた。
「その、してはならない奴隷買いの……ラッセル侯爵が、言い逃れできない証拠の品が欲しいわ」
「…………」
要求に、グレアムは口を真一文字に引き結び押し黙った。挙句に少し俯き、アナベルから視線を逸らす。
「私のために何でもするとの誓いは、さっそく嘘? 適当なことを言って騙せば、お人よしが無条件で治療してくれると高をくくっているなら、甘いわよ」
アナベルが険しい目で見据えると、こちらに視線を向けたグレアムは小さく首を横に振った。
「おまえは適当な嘘に騙されるお人よしではなく、非情な女だ。それくらいのことは理解している。……ラッセル侯爵に言い逃れさせない奴隷買いの証拠が、はたして存在するのかと考えていただけだ」
「父君から何も聞いていないの?」
まさかの返答に、アナベルは呆然としてしまう。
前長官はグレアムを信頼していたように見えたので、そうした秘密事項も共有しているものとばかり思っていた。
「ラッセル侯爵と秘密裏に奴隷買いをしていることは聞いている。だが、ラッセル侯爵を追い詰められる確たる証拠となると……父は所持しているだろうか」
嘘を吐いて誤魔化そうとしているのではなく、グレアムは腕を組んで真剣に考えていた。
だが、その姿を見ても俄かには信じがたい……。
「あなたの父君は自身の持つ、誰にも交易の荷を検められない特権を、ラッセル侯爵にも貸し与えているのよ。それで、どうしてラッセル侯爵の奴隷買いの証拠がないなんて……」
「証拠となるような書類の記載は、すべて、父が単独でおこなった事となっている。ラッセル侯爵の名が出るようにはしていない。それが父の望む資金援助と、父好みの奴隷を侯爵が調達する条件だったのだ」
「そんな……では前長官のすべてを没収して調べても、ラッセル侯爵の悪事は出てこない……」
前長官やグレアムに証言させたとしても、そこに確たる証の品がなければ、上級貴族を罰するには至らないだろう。
アナベルはがっくりして肩が落ちそうになる。
祖母がそっと手を伸ばし、慰めるように背を撫でてくれた。
「ラッセル侯爵の悪事の証拠はないと言っておきながら……信じてもらうのは難しいが、必ずおまえの望む物を見つけてみせる。侯爵が上級貴族でいられなくなるような品を。だから頼む。母を見捨てないでくれ」
グレアムがこちらに向かって深々と頭を下げた。
「アナベル……おまえたちに何があったかは知らぬ。だが、このばばが見る限り、おまえは心も身体もこの男に傷つけられているようには見えない。何事か腹立ちはあるのかも知れぬが、それは少し脇に寄せて……この頼みは聞いてやったほうが、おまえは気持ちよく眠れると思うよ」
祖母から、母を思わせる優しい笑みを向けられる。
とても逆らえるものではない。
アナベルは祖母に小さく頷くとグレアムに向き直った。
「ではもう一つ。今後、あなたは何の罪もない人に向かって即死魔法を撃たない。それも取引条件に入れるわ」
「それは……」
グレアムは正直に嫌そうな顔をした。
「あなたが自身の母親が死ぬのを嫌がるように、あなたの快楽のために殺される人にも、その死を嘆く人がいる。それを無視して自分の母親ばかりを優先されても、私の心は冷めるだけよ」
「……わかった。即死魔法は封印する」
躊躇いなく承諾せず、苦渋の選択であるのがわかるグレアムの姿に、アナベルは逆に信じることができた。
大好きなことを大して考えもせず、あっさりやめると言う人間を信用するのは難しい。
「取引成立ね。治療を引き受けるわ」
承諾するとグレアムが手を差し出してきた。
アナベルがその手に自身の手を重ねると、周囲の空間が歪む。
グレアムが移動魔法を使ったのだ。
アナベルは一瞬で魔法屋から、洗練された白色系の調度品に囲まれた瀟洒な部屋に立っていた。
目の前には白木の大きな寝台。天蓋の布が巻き上げられたそこには、やつれた中年の夫人が、固く目を閉じて横になっていた……。
「イブリン嬢はいないようね……」
母親を案じて付き添っているかと思ったのだが、部屋にはその女性が一人きりだった。
「自分の部屋で眠らせている。家の取り潰しと父の乱心……母のこの状態にも精神が参ってしまったのだろう。半狂乱になって手が付けられなくなったのでな」
「そう……」
アナベルに投げたように、手当たり次第に物を投げたのかもしれない。
それならば、眠らせて精神を安定に導いたほうが、家人は安心だろう。睡眠で安定するかどうか、正確なところは判断できないが、イブリンのことを解決するのはアナベルの役目ではない。
アナベルはそっと、土気色となっているターナー侯爵夫人の額に手を触れた。
「酷い怪我とは思うけど、大丈夫。助けられるわ」
治療が難しい状態であるとのグレアムの言葉を嘘とは言わない。それでも、先ほど治療したプリシラに比べれば状態はずっと良好だった。
これならば、傷さえ癒せば生命力のほうは時間と共に自然と元に戻るだろう。
『水、集え! ターナー侯爵夫人を苦しめる傷の治療を。痛いの、ないない!』
「……ふざけた呪文だ」
アナベルがその身体の上にかざした両手から、侯爵夫人に向かって青い光が吸い込まれるように飛んでいく。
その全身を治癒の光が包む光景を見ながらぼそりと呟いたグレアムに、アナベルは明るく笑う。
「難しい呪文も長い呪文も面倒だもの。短く単純、自分が唱えて楽しいのが一番だわ」
「……だが、父の使う治癒魔法より何倍も優れているのは確かだな。感謝する」
回復して目覚めた侯爵夫人に、安堵の眼差しを向けるグレアムがしみじみと言った。
「グレアム? 私は……」
不思議そうにこちらを見ている侯爵夫人に、グレアムは穏やかに笑ってその額に触れた。
「もう大丈夫ですよ母上。この先は己のことしか考えぬ父のことなど忘れて、心穏やかにお過ごしください。生活の心配はしなくていいです。魔法使いの私がなんとでも致します。どうぞ、ご安心ください」
「…………」
侯爵夫人は何か言いかけるも、グレアムの眠りを促す強制魔法に逆らえないようで、すぐに眠りに落ちた。
「証拠の品は長くは待たせない」
「お願いね」
期待薄と思うも、せっかく言ってくれているので、そう返しておいた。
今日は、お客の令嬢たちには高度な美容魔法を使わなかったものの、全身治癒魔法を連続で使うことになるとは思わなかった。眠気が来そうなほど疲れたアナベルは、そのまま暇してセインの屋敷に戻ろうとした。
ところが……。
「なんだか妙に騒がしくない?」
この部屋の下のほうで、多くの人間が大音声で何か言っている。
「玄関の辺りだと思うが……」
アナベルが感知したことはグレアムも気づいていたようだ。怪訝そうに首を捻り、部屋の外へと向かった。
アナベルは用事が終わったのでこの場を去ってもいい身である。が、不思議と騒ぎの原因が気になり、その後をついて行った。
グレアムは無言であったが、自身の後ろを歩くアナベルを邪険にはしなかった。
廊下に出て長い螺旋階段を降り、アナベルは大勢の人で騒然となっている玄関ホールに出た。
「父上!」
前を行くグレアムが驚愕の叫びをあげ、駆け出す。
「え? 前長官……」
玄関ホールに人が倒れている。
口からどす黒い泡を吹いているその人は、確かにクラーク・ターナー前王宮魔法使い長官だった。




