009.恩返しは偽装婚約で
「頭をあげなさい」
公爵の手がそっと肩に触れ、促される。
言うとおりにすると、公爵は静かな目をしてアナベルをまっすぐに見ていた。
「月の欠片が、解呪道具だったのかい?」
「はい。解呪に使っても月の欠片が消滅しないのであれば、すぐにお返しいたします。ですが、おそらく呪いを消す代償として消滅すると思うのです。ですから、私に頂きたく……もし頂けるなら、この先もあなた様のお役に立ちます。私の全力で、マーヴェリット家が没落の憂き目を見ぬようお助けいたします。ですから何卒、お願いいたします!」
飛竜を癒した。ただそれだけで譲ってもらえるなど、そんな都合のいいことは考えない。
公爵が満足するまで、己の魔法力を駆使して誠心誠意お仕えする。
「月の欠片か……。恩に報いる為なんでもすると言ったのは私だ。予想もしない物だったが、あげるよ」
「え、ほ、ほんとうにっ?!」
信じられないほど簡単に返って来た望みの言葉に、アナベルは呆然として公爵を見つめた。
もしかすると願望を夢に見ているのかもしれない。頬でも足でもつねって確かめたいと本気で思った。
「恩人の君に嘘など言わぬよ。これからわが家に行こうか」
「ありがとうございます! もう何でもします。あなた様と公爵家の変わらぬ繁栄の為なら何でもしますっ!」
この場で公爵に出逢えた奇跡と、呪いが解けてこの先も生きられる安堵に目頭が熱くなり、涙が出そうだった。
「そのように恩に着なくとも良い。月の欠片は世に言われているほどの影響力は持たない物だ。きゅきゅの命の対価とするには安すぎる品だよ」
「え?」
影響力がない?
きょとんとして目を丸くすると、公爵は面白そうに笑った。
「あの欠片は三代前の公爵が庭で拾った物なのだが、だからと特別家が栄えたということはないのだ。前公爵であった父も欠片を崇めるようなことはせず、宝物庫に適当に放り込んでいる。私も、我が家が所有しているのは知っていたが、その存在を特に気にしたことはなかったな」
「そうなのですか……」
月の欠片を手に入れたのは三代前の公爵ということだが、アナベルが歴史に知るマーヴェリット公爵家は、それ以前からベリル一の名門を誇っている。
そうした家が手に入れた場合は、神の恵みといえど大した影響は及ぼさないという事なのだろう。
やはり、マーヴェリット家は月の欠片に頼って今日まで権勢を維持しているわけではないのだ。
公爵に自分の全力で恩返しをする気持ちに変わりはないが、欠片を失うことによる悪影響はない方が良いに決まっている。
「だから、君は何も気にする必要はないのだよ」
「ありがとうございます! ですが、飛竜を癒したというだけでいただくわけにはまいりません。私の気が済まないのです。どうぞ、何なりとご用命ください!」
マーヴェリット家が崩壊するような悪影響は出なくとも、神からの贈り物が消えるのだ。
他に何らかの影響が出る可能性はゼロではない。
それを黙って見ているのは嫌だ。感謝の気持ちを返して、この公爵の役に立ちたい。
「君は、義理堅い真面目な人なんだねぇ……」
公爵は感心したように微笑むと、アナベルの頭に手を置いて撫でた。その手を頬まで滑らせる。
「…………」
父以外の男性にこのように触れられるなど初めてで驚くも、柔らかな手は心地良く嫌悪感はまったく芽生えなかった。
ブルーノに触られそうになったことはあるが、気持ちが悪いとしか感じず、その手を叩き落として逃げている。
「おまけにとても綺麗な顔立ちをしている。この先もっと美しくなるだろうに……何の不満があったのか知らぬが、君のような女性を捨てる婚約者とやらは、真性の馬鹿だと思うよ」
公爵はにっこりと笑うと、アナベルの肩をポンと叩いて手を離した。
「月の欠片をいただけるばかりか、慰めてまでいただき、ありがとうございます」
どうしてこんなに優しいのだろう。
この若さで宰相となるだけあって、人間の出来が普通の人とは違うのだ。その人となりに感動さえ覚える。
ブルーノなど同い年であったとしても、相手にならないだろう。
「慰め、とは?」
不思議そうな顔をする公爵に苦笑した。
「婚約者は、私の顔は地味だと言っていました。それなりに整ってはいるが華がない、と……それに、私は婚約者に魔法使いであることは言っていません。ですから、出世の役に立たぬ詰まらぬ人間としか思われていないのです」
ブルーノにとってのアナベルは貴重な魔法使いではない。
一般市民の血が混じる、気に入らぬところしかない不満だらけの人間だ。
だが、顔を気に入ったと言われて付き纏われるなど冗談ではないので、アナベルは彼から受ける評価はそれで構わないと思って過ごしていた。
「なんだ、その言い草は。どうしようもなく見る目のない男なのだな……私は慰めではなく、本気で思うことを言っただけだ。婚約者の目に君がどう映っていたのかはわからぬが、私は君のような容姿だけでなく心根も美しい人間が好きだな」
「え?」
好き、との言葉を聞いた瞬間。心に、ぽん、と大きな花が咲いたように感じ、アナベルは狼狽えた。
社交辞令だろうに……何だろう、胸が弾む。
「きゅきゅを癒してくれた君の魔法は確かに素晴らしいものだ。だが、それだけが君という人間の価値ではないと私は思う。それを見つけられなかった婚約者の言った言葉など、もう二度と思い出す必要はない」
「はい……」
魔法使いでなくともアナベルには良いところがある。真顔でそう言ってくれる公爵に、アナベルはますますこの人の役に立ちたいと強く思うようになった。
「本当になんなりと頼んでよいと言うのなら、言葉に甘えて二つ言いたいが、構わぬか?」
「はい」
思わぬ真剣な目に見据えるように見つめられ、アナベルは息を飲んで居住まいを正した。
「一つ目は、私の婚約者となってほしい」
「へ?!」
予想だにしない申し出が耳に入り、アナベルは頓狂な声をあげてしまった。
「私は君が気に入った。君の結婚相手に他の男を探すよりも、私の妻として迎えたい」
「公爵様。それは……」
真っ直ぐにこちらを見ている黄金の瞳は真剣そのもので、冗談を言っている余地は微塵も感じられない。
それでもアナベルは心に受けるあまりの衝撃に、うまく言葉が返せず口中でもごもごと、どもってしまう。
「君と私では年がかなり離れているように思うし、私はこの通りの姿だ。何でもするとは言っても、結婚となるとやはり気味が悪いかい?」
寂しげな目を向けられて、アナベルは盛大に首を横に振った。
「違います! そのような事は関係ありません! そうではなくて、今の私は公爵様の婚約者となれる身分ではありません。ご結婚は、家格の釣り合う方となされた方がよろしいかと……」
年の差……十五歳ほどだが、公爵はずいぶん若く見えるのでアナベルは気にならない。
体型も……太りすぎというのは健康によくないとは思うのだが、ずっと見ていると何となく愛嬌が感じられる。
そして立派な心根の持ち主なので、身分違いということを除けば、アナベルに公爵を拒否する理由はない。
「そうかい。年や体型は関係ないのか……ではなおさら聞いてほしい。私は、その家格の釣り合う令嬢というのと結婚したくないのだ。君にその為の協力を頼みたい」
こちらを見る公爵は嬉しそうに声を弾ませ、最後は悪戯っぽく笑った。
「! もしや……」
アナベルはその言葉と笑みにピンときて目が輝いた。
「そう。そのもしやだ。……結婚しろと周りがうるさくて堪らぬのだが、押しに負けてどこぞの令嬢を娶れば、次に期待されるのは後継者だ。当然妻となった娘もその気でいるだろう。しかしな、私は子も欲しくないのだ」
「そこで、実家のしがらみのない、結婚を考えなくていい婚約者を演じる女がご入用ということですね!」
後継者となるお子が欲しくないとはおかしな話だ。
そう思うも、ここで偽装婚約を承諾すれば、月の欠片を頂くお礼ができる。
アナベルは高揚し、全身に力がみなぎった。