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083.前長官の娘

「私はオリヴィアが公爵様と結婚すると思ったから諦めたのよ。それがなによ。魔法使いという理由一つで公爵様の妻になるなんて、一般市民の身で図々しいにも程があるわ!」


令嬢は叫ぶと同時に、自身の前に置かれていたグラスを掴んだ。

大きく腕を振り、アナベルに向けて思い切りその中身を浴びせかけた。


「なっ!」


結果は、令嬢から驚愕の声があがるのみだった。

グラスを満たしていた水は、アナベルに一滴も触れることはなかった。無数の丸い球になり、アナベルの周囲をふわふわと浮いて舞う。

令嬢がその光景に愕然とし、柳眉を吊り上げたまま目を見開いていた。


「魔法使いに、正面からまともに攻撃を当てようとしても無理ですよ」


とはいえ、いきなり水をかけられるとは思っていなかったが……。

アナベルは苦笑しつつ、軽く右手を上げる。周囲を舞う水球すべてが集まり、そのまま令嬢の持つグラスに戻っていった。


「では背後から隙をうかがえば、当てられるの?」


からかうような口調のその問いは、悔しそうに唇を噛みしめる令嬢ではなく、オリヴィアの発したものだった。

アナベルは小さく笑う。


「やってみますか?」

「やめておくわ。あなたの顔を見ればわかるもの。どのような攻撃も当たらないようにしているのでしょう?」


正解を言い当てたオリヴィアに隠さず頷く。

大切な人を守るためには、自分が先に倒れるわけにはいかない。アナベルはそう考え、自身にもセインにかけているのと同じ、盾となる魔法をかけている。


「名乗りもせず怒鳴って水をかけようとするなど……彼女の恥ずかしいおこないを、付き添いとして詫びるわ」

「そんな、オリヴィア……」


アナベルに謝罪したオリヴィアに、令嬢が身を強張らせる。自分の味方ではないのか、と言いたげなその顔に、オリヴィアは棘のある冷めた目を向けた。


「私はあなたに付き添うことは承諾したけど、それだけよ。愚かしい真似をして、私に恥をかかせないで」

「あなたは悔しくないの? いきなり出てきたこんな女に、公爵夫人の地位を奪われるなんて……」


令嬢は椅子に座ったままではあったが、大仰な身振り手振りを交えて嘆いた。

必死の形相で、オリヴィアがセインと結婚しないのであれば自分が妻になるのだと訴える姿を、当のオリヴィアはつまらなそうに眺めて、しまいにはあくびまでした。


「……だからと、婚約者となった彼女に水をかけても、マーヴェリット公爵はあなたに心を開いたりなどしないわよ。どうしても結婚したいなら、公爵本人にかけあわなければ無駄よ」

「それでも私たちがしっかり教育することで、公爵様と結婚するなどしてはならないことだと自覚し、この女は身の程をわきまえて消えるはずよ!」


語気を荒げて令嬢が主張する。

すると、オリヴィアは黙ってやり取りを眺めていたアナベルに視線を向けた。楽しそうにその唇が微笑む。


「あなたは、私たちが罵った程度で公爵の傍から消えてくれるの?」

「セインが私を不要とおっしゃるまで、お傍を離れることはありません」


まっすぐにその紅の瞳を見つめて答えた。

女性たちに少々罵られた程度で傍を離れては、偽装婚約者となった意味がない。


「セインですって……あなた、公爵様の御名を呼び捨てにしているのっ!?」


アナベルの宣言に令嬢の顔が大きく歪んでいた。


「あ……」

「一般市民の分際でなんと無礼な……お父様とお兄様にお願いして、その顔を焼いてやるわ。あなたがいくら魔法使いでも、私のお父様とお兄様には敵わないわよ!」


どんなに泣いても許さないのだから、と令嬢は喚きたてた。


「あなた様の父君と兄君は、魔法使いなのですか?」


セインの名を呼んでしまったことはまずいと思うも、それ以上に令嬢が口にした家族の存在が気にかかった。


「そうよ。私はイブリン・ターナー。父は王宮魔法使いの長官を務めている、クラーク・ターナー侯爵よ!」


イブリンと名乗った令嬢は、胸を張るようにして己の身分を誇った。


「長官様の、ご令嬢だったのですか……」


言われてみると、神経質な性質が透けて見える面立ちが、少し似ているような気がする。


「今から謝っても遅いわよ。グレアムお兄様は、長官職はお父様にと考えてくださっているから、皆には内緒にされているけど、お父様よりも強力な魔法が使えるわ。二目と見られない顔に焼かれたくないなら、このまま黙ってベリルから出て行きなさい。言うことを聞かないなら本当に焼くわよ」


イブリンが、地の底から響くかのような低い声でアナベルを恫喝してくる。

こちらを睨んでいるその目は、脅しではなく本気で焼くぞとアナベルに伝えていた。


「お父様とお兄様から、私に関して何か聞いていませんか?」

「何かって、何よ? あなた、お父様とお兄様にお会いしたの?」


アナベルの問いかけに、怪訝な顔をしたイブリンは、本当に何も知らないようだった。

長官たちは昨日の襲撃の件を彼女には教えていないし、兄がベリルを離れることもまだ話していないのだろう。

そして、家が取り潰しとなることも……。

これに関しては、現在セインが王宮で王と話し合っている最中なのだから、当然彼女は知らないはずだ。


「……お家に戻られたら、おわかりになると思います」


ここで自分が話して聞かせても、おそらく彼女は信じない。

それどころか、おかしな作り話をするなと逆上し、いつまでも不毛な会話が続くように思う。

そんな目に遭いたくはないアナベルは、それ以上は語らないと決めた。


「偉そうに……それより、早く跪いて誓いなさい。ベリルから出て行くと!」

「出て行きません」


間髪入れずに返したアナベルに、イブリンが怒りに身を震わせた。


「な、生意気な……お兄様は、私の言うことなら何でも聞いてくれるのよ。女だからって、手心を加えたりなんてしないわよ!」


確かに、兄のグレアムというのが即死の闇魔法を人に向けて撃つのを好むあの息子であるなら、女相手であろうと火魔法で顔を焼くくらいのことは、簡単にやってのけそうだ。


「焼かれたくないので、私も魔法を使って戦います」

「なんですって……」

「ふふふ。アナベルが魔法使いということを抜きにしても……イブリン。あなたでは彼女に勝てないわね」


席を立ち、今にもアナベルに掴みかかってきそうなイブリンの動きを止めたのは、オリヴィアの涼やかな笑い声だった。


「オリヴィア、あなた……この女の味方をするつもり?」


イブリンが眉を顰めて嫌そうな顔をするも、オリヴィアはまったく頓着しなかった。


「私はどちらの味方でもないわ。ただ、ここにいるだけの人間よ。でも、あなたとアナベルでは気迫がまったく違う。アナベルからは、何があってもあの公爵の傍にいるとの覚悟が感じられるけど……あなたは、上級貴族の金持ちで自分を甘やかして湯水のように金を使わせてくれる男であるなら、誰でもいいのでしょう? だから勝てないと思うの」


「そ、そんなの誰だってそうでしょ! この女も、公爵様がベリル一のお金持ちだから、あんなに太っていることを気にせず結婚を承諾したに決まってるわ! 私は、ちょっと痩せてほしいと言っただけなのに……痩せさえすれば、この美しい私と結婚できるというのに……頑固に痩せない公爵は、痩せろと言わない狡猾なこの女に騙されているのよ!」


イブリンは最後にはまるで鬼のような形相で叫び、アナベルをぎっと睨み据えた。

マーヴェリット家の財産が大好き。その上、痩せろと言った……それは、イブリンとしてはベリルの常識を説いただけなのかもしれないが、セインには花嫁から除外としかならなかっただろう、とアナベルは思う。


「ベリルでは、男性は痩せているのが当たり前という風潮が強いですが……おでぶさんはそんなに駄目ですか? 私は柔らかくてあったかくていいと思うのですが……」


太っていることをそこまで毛嫌いしなくても……という思いが強すぎて、アナベルはつい、そんな言葉を口に出してしまっていた。



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