077.あいさつ
夢のように食べさせてくれるというのは……当然だが、ない。
アナベルとしては食べさせてもらうほうが困るので、もちろんそれで構わなかった。あのような願望を抱いた覚えなどないのだ。
それなのに夢に見てしまうとは、まったくもって不思議である。
心の内で苦笑していると、ふっくらとしてとても香りのよい、焼きたてのパンが運ばれてきた。
パンは他にも用意されていて、すでにいくつか食べているのだが、そのパンを見たセインときゅきゅが揃って目を輝かせた。
「アナベル、クリームパンだよ。昨日、君は食べられなかっただろう。だから、私たちが料理人に味を知らせて、再現させたのだ」
「え? 再現?」
にこにこ笑うセインから、食べるように勧められる。
それは、昨日のパンを残しておいてそれを食べさせるのではなく、アナベルのために朝食の席に出せるよう焼かせたということなのだろうか……。
【私とセインが一生懸命味を伝えて、ちゃんと同じ……いいえ、もっとおいしい物を焼いてもらったの。パンは焼きたてが美味しいのよ!】
きゅきゅが心持ち胸を張るようにして教えてくれた。その言葉にセインも頷いている。
二人の姿に、自分が感じたことに間違いがないと知ったアナベルは、目の前に置かれたクリームパンが途轍もなく大事な物に思えた。
「隊長……」
【なかなかうまくいかなくて試作品をたくさん食べたから、おなかがぱんぱんになっちゃったわ】
悪戯っぽく言ったきゅきゅの背を、セインが少し手を伸ばしてちょんちょんとつついた。
「完成しているのに……何度も何度も焼くようにと要求して料理人を困らせたのは、君のほうだろうに……」
【それは言わない約束だったでしょ! だって、とっても美味しいのですもの……】
セインを詰り、少しすねた顔をしたきゅきゅに、アナベルは目を細めて微笑んだ。
「ありがとう。とっても美味しくなるように再現してくれて」
一つ残しておいて、と自分が言ったあの言葉を二人は覚えていてくれたのだ。
アナベルはそれに特に重きは置いておらず、正直忘れていた。それなのに、そんな些細なことまで二人はアナベルのためにと叶えてくれる……。
もし、ここで口に入れているクリームパンが砂でできていたとしても、きっと自分は美味しいと言うだろう。
アナベルは本気でそう思いつつ、これまで食べた中で最もおいしいパンを堪能させてもらった。
【美味しいでしょう? 一つじゃなくてもっと食べて……】
「ええ。……セインも、ありがとうございます」
きゅきゅに頷き、あったかい目でアナベルを見てくれているセインにもお礼を言うと、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「君が喜んでくれるのが、何よりだよ」
「…………」
夢の男性が言ったのと同じ言葉。自分を大事に思ってくれるそれを耳にして、アナベルは胸がどきんと高鳴った。
夢はアナベルが無意識に作り上げてしまったものなのだが、その言葉が重なったことで、姿かたちが変わってもセインの魂が変わるわけではないのだと当たり前のことに気が付いた。
かわいいぽっちゃりさんであろうと、信じられないほどの美男子であろうと、セインはセインなのだ。
だから、美しいのは苦手、というのは失礼にあたる。
「あとそちらは……チョコレートを入れて焼かせた物だ」
中に入っているのはクリームだけではないと教えられて、アナベルはますます感激した。
美男子にいい思い出がないからと、セインの本来の容姿に関して思い悩んでいた自分が、とても愚かに思えた。
「セインは私の中で最高の殿方です」
「それは……」
アナベルが心に思う気持ちをそのまま言葉にすると、セインは驚いて目を見張り、次いで頬を赤らめた。
その表情がアナベルの心を物凄くくすぐるもので……やはりこのままで……と、ついつい思ってしまったその時。
食事室の、庭に面したガラス窓がすべて破壊された。
「そんなに、蛙になりたいのですか?」
こちらに向かって飛んできた細かな破片の一つでさえも、セインときゅきゅに当たらないよう防いだアナベルは、静かに席を立った。
炎の鳥をその背後に従えて窓辺に立つ魔法使いを、厳しく見据える。
「あの攻撃魔法は、おまえに向けて放ったものだ。私はマーヴェリット公爵に悪意などまったく抱いていない。その証拠に、おまえが私の魂にかけた魔法は発動していないだろう?」
「少しでもセインに破片が掠っていたら、悪意はなくとも危害を加えたことにはなりましたよ」
まだ、この屋敷を覆う外敵除けの魔法結界は完成していない。それさえ完成していれば、こんな破壊は許さなかった。
やすやすと長官の息子をこの場に立たせてしまったことを、アナベルは苦々しく思う。
「おまえが傍にいるのに? この程度の攻撃を防ぎきれず公爵に傷を負わせるとは考えられないな」
すべて見越して攻撃してきた息子は腕を組み、アナベルを鼻で笑うようにした。
「……何用ですか? 私と戦って変身魔法を解くつもりでしたら場所を移しましょう。ここで戦うと言うのであれば、容赦しません」
アナベルは魔法力を高めた。
扉の外からセインを案じる声が数多く聞こえてくる。
息子はセインには危害を加えないだろうが、他の人間に何もしない保障はない。それに、セインの屋敷をこれ以上破壊させるもの嫌だった。
「今……おまえと戦って勝てると思うほど、私はおめでたい人間ではない。ここに来たのはただのあいさつだ」
「あいさつ?」
他人の屋敷の窓を魔法で破壊して、朝食の席に乱入する。
常識という物が完全に抜け落ちている、とんだあいさつに、アナベルは呆気に取られてしまった。
「おまえに勝てる力を手に入れるため、私は外国に行く。このベリルよりも魔法に詳しい国……魔法使いの力を高める術を知る国に」
「…………」
それは祖父の祖国だろうか、と脳裏にふと思う。
「それまで暗示をかけている。マーヴェリット公爵のことをなんとも思わないとな。関心を寄せなければ悪意を抱くことも、危害を加える気にもならない」
「外国に行ってセインと関わらないあなたはそれでいいかもしれませんが……父君はどうされるのか聞いてもいいでしょうか?」
扉のほうを向いて誰も入らないようにと命じていたセインが、アナベルの問いを耳にして息子へと視線を転じた。
「もちろん父にも暗示をかけた。父親が蛙になった姿など、一度見れば充分だからな」
「自身の地位を脅かす私のことをなんとも思わない……そんな暗示がそう容易くかかるものなのか?」
息子の返答にセインは納得しがたい様子で、少し唇を歪めた。
「もちろん、すんなりとはかかりませんでしたよ、公爵。ですから、蛙になるのとどちらがいいのだと説いたのです。その際、蛙になった姿を父の脳内にたくさん投影しました。それで納得してくださいましたので、なんとかかかりました」
セインに向かって愉快そうに笑った息子に、アナベルは顔をしかめてしまう。
長官を蛙にしたのは自分だが、それでも、その姿を後で長官本人に何度も見せるというのは悪趣味だと思うのだ。
「それは、納得するしかなかっただろうな……」
「父は、私が外国で修業を終えて帰国するまで休暇を取ります。地方の領地で、公爵のことは忘れて暮らすということで私たちの話はまとまりました。長官職は、父と私に次ぐ魔法使いが引き継ぎます」
感情の見えない声で呟いたセインに、息子は淡々と語った。
そうして、挑戦的な目でアナベルを見る。
「父と私が戻るまでの繋ぎとなる魔法使いは、確実におまえよりも力が下だ。長官職が欲しいなら、その力を見せつけて奪ってもいいぞ。すぐに私が奪い返してやるがな」
「私は王宮魔法使いにはなりません。ですが、あなたと父君が再び王宮魔法使いになることもないでしょう。もし変身魔法を解くことができたとしても、あなた方が王宮魔法使いになることは必ず私が阻みます」
セインの邪魔になる、そして王のためにもならない魔法使い。そんな彼らが王宮魔法使いとして権力を握るなど、あってはならないことだと思う。
毅然と返したアナベルに、息子が深い闇を連想させる眼差しを向けてきた。ひしひしと押し寄せてくる怒りの波動を、アナベルは瞬きすることで跳ね飛ばした。
「そなたは……父君が長官職から身を退いただけで、何事もなく済むと思っているのか?」
「…………」
まるで氷の刃のように響いた酷薄な声に、息子が息を呑んでセインを見た。




