068.青空の下で食べるパン
しばらく馬車に乗って到着したパン工房は、赤レンガの壁に薄茶色の木による扉と窓の、ぬくもりが感じられるほんわかとした建物だった。赤茶色の瓦屋根も可愛らしい。
さすがに、公爵家の家紋の入った馬車を店の前に停めるのは目立ちすぎるということで、少し離れた人通りの少ない場所に御者は停めた。
「公爵様がご自分でお買い求めになるなどとんでもないことでございます。どうか、われらにお任せを」
セインが馬車から降りようとするのを、御者をはじめ護衛騎士が総出で引き留める。
つまらなそうな顔をするセインには悪いが、それは当然だろうとアナベルは思う。
おいしいクリームパンに期待が高まっているのだろうが、自身の身分を忘れてはいけない。
それに、あの扉の大きさでは間違いなく入れないと思う。
「騎士の方々であっても目立つと思いますので、私が買ってきます」
アナベルが見るに、店内には女性客ばかりだった。男性の、しかも騎士が入って来たとなれば客たちは皆、委縮して買い物を楽しめなくなる。
「ご婚約者様にそのような真似は……」
「いいですから」
アナベルは止めようとする彼らの返事を最後まで聞かず、早々に馬車を降りて店に向かった。
そうして、店主おすすめ、と大きく書いて宣伝しているクリームパンを買って馬車に戻る。他にもおいしそうなパンが多数見られたので、今度時間を見つけて買いに来ようと思った。
「はい。どうぞ」
パンの入った紙袋をセインに渡す。
彼は頬をかすかに紅潮させ、光り輝くような笑みを浮かべてしっかりと袋を持った。
「ありがとう、アナベル。ああ、とてもおいしそうだ」
「…………」
どのようなパンであろうと、自邸の料理人に好きなだけ焼かせられるだろうに……。
この店の主を屋敷に呼んで作らせることであっても可能なはずだ。
それを、皆と同じように出向いて購入し、袋の中を覗いてこの世の春のような顔をして浮かれている。とてもベリル一を誇る名門貴族の当主とは思えない姿だが、アナベルは眺めているとほっこりして嬉しくなる。
【早く食べましょうよ!】
きゅきゅが急かすように要求する。
ところが、セインは袋の口を閉じると首を横に振った。
「目的地に着いてからね。もう少し待っておくれ」
と、返した時にはすでに馬車は進み始めていた。アナベルが戻るより先に、どうやら次の行き先を伝えていたようだ。
「目的地とは? お屋敷に戻られるのではないのですか?」
屋敷に戻るのならば、わざわざ目的地などと断らないと思うので聞いてみる。
「古の王妃の話をしたからかな。久しぶりに行って見たくなってね。付き合っておくれ」
「はい」
どこであろうと付いて行くのに否はないので頷いた。しかし、どこに向かうのか見当はまったくつかなかった。
【なんだか、たくさん入っているように感じるわ。一つだけ、一つくらいなら、ここで食べてもいいんじゃないかしら】
じいっと緑の瞳が、セインを射抜くように見つめておねだりする。
「私が、君にそうして見つめられるとなんで許したくなるのを知っていて、駄目だよ……」
セインが弱り切った様子で袋の口を開けるのを拒む姿に、アナベルはこらえきれずに吹き出してしまった。
【どうしても駄目なの? おなかすいたわ】
きゅきゅは諦めきれないようで、セインの機嫌を取るように、その頬にしな垂れかかるようにすりすりと身を寄せた。
「そんな風に甘えるのは、ずるいよ」
その背を優しく撫でながら苦笑するセインの姿は、可愛い恋人のおねだりをいかにして機嫌を損ねず断り切れるか苦悩している、といったものしか見えず、微笑ましい。
本人たちは真剣な攻防戦。
でも、見ているアナベルには仲良く戯れているようにしか見えない楽しい時間を過ごしているうちに、馬車は中央区の外れまで走り、丘を登って停まった。
馬車を降り、雲一つない青空の下に立つ。
少しだけ風の吹いているそこは、視線の先に、縦にも横にも成人男性の三倍ほどの大きさをした青灰色の巨石が、無造作に五つほど置かれただけの場所だった。
石の周りに雑草が生い茂っているようなことはない。それなりに手入れがされているようには見えるが、それでも殺風景な場所であることは否めなかった。
眼下に王宮をはじめとする中央区の街並みが広がって見えるのは目に楽しいが、それだけである。人気もなく、特別な観光名所というわけでもなさそうだ。
セインは騎士たちに馬車の側で待つようにと命ると、アナベルだけを伴い横倒しになった巨石の元まで歩いた。
「この丘は、王家と七公爵家の者だけが入れる場所だ。中央区の住民であっても手入れの作業を行う者以外は立ち入れない」
「そのような、貴重な場所なのですか……」
人気がないわけである。
重要な何かが石の下にでも眠っているのだろうか。石自体には何も力を感じないアナベルは、取りあえずそう考えた。
「ベリル建国の王と、その妃となった女性が出会った場所とされている。建国という野望を叶えたいのに叶えられずこの場で一人苦悩していた王の前に、女性は月の光を纏って姿を見せたそうだ」
「古の王妃様が魔法使いの自由を守ってくださったことは知っていましたが、建国の王と出会ったのがこの場とは、初めて知りました」
しかも月の光を纏っての登場とは、なかなかに凝った出会いだと思う。
「おそらくその時王は、私が君に初めて出会った時と同じような感動を覚えたのだろうと思うよ」
「私は隊長を癒しただけで、月の光など纏ってはいませんよ。それに、感動したのは私のほうです。偽りなく月の欠片をくださいました。私を救ってくださったセインの優しい気持ちに、生涯感謝をささげます」
大岩に腰かけるセインの右手を、その正面に立つアナベルは両手で取った。
捧げ持つようにすると、自らの額にそっと押し当てた。
「私は何があろうとあなたの側にいます。たとえ王と言えど、仕えることは致しません」
「アナベル」
「え?」
突然大きく動いたセインに抱きしめられる。驚いて目を丸くすると同時に、きゅきゅの悲鳴と怒声が響き渡った。
【きゃああああああああああ! パンが、パンが地面に転がってしまうわ!】
この世の終わりのような叫びに、アナベルは急いで魔法を使う。間一髪で袋から零れたパンが地面に触れるのを阻止した。
【よ、良かったわ! 副隊長、あなたはえらい!】
「おほめに預かり光栄です」
もう目的地に着いている。そして、袋から出てアナベルの手にあるので、そのままきゅきゅの口元まで運んだ。
【美味しいわ~。このクリームが最高ね。甘すぎず、しつこくなくて……でも、程よく口に残る癖になる味だわ!】
アナベルの手のひらほどの大きさのパンだったが、見る間にきゅきゅは食べきってしまった。
その早業と、しっかりした感想も面白い。
「もう一つ、食べる?」
【食べるわ!】
袋から出して問うと、瞬時に答えが返りその時にはパンはすでにしっかり齧られていた。
「うまく行かないものだな……」
「セイン?」
小さくぼやき、首の後ろの辺りを掻きながら岩に座り直したセインに、アナベルは首を傾げる。
「なんでもないよ。きゅきゅにあげるだけでなく、アナベルも食べるといい」
何がうまく行かないのか問うより先に、そう言われてしまってはしつこく訊ねるわけには行かない。
勧めに従って、頷くにとどめた。
「外で食べるとおいしさが増すように感じないかい、きゅきゅ?」
セインは驚くような速さでパンを食べているきゅきゅにそう問うた。なるほど、青空の下で楽しみたかったから、馬車で食べるのを禁じていたのだ。
【美味しい物は、どこで食べても美味しいと思うわ!】
「……、まあ、そうだろうけどね。……アナベル。私にも渡しておくれ」
すっぱりと返ってきた返答に、ちょっぴり気落ちして寂し気に苦笑しているセインのほうがロマンティストで、きゅきゅの方が現実的なのかしら。
アナベルはこそりとそう思いながら、セインにパンを差し出した。
「ありがとう。……なるほど。これは書記官たちが評判になっていると褒めるわけだ」
頬を綻ばせて幸せそうな顔で食べている姿を見ているだけで、こちらもなんだか幸せな心地になる。
顔が自然と緩んでにこにこしかけたところで、アナベルはちりっとこめかみが痛んだ。
「!」
周囲の気配に異常を感じて全身に緊張が走る。
同時に、穏やかに吹いていた風が性質を変えた。
暴風となり、唸りをあげて襲いかかってくる。




