052.銀の薔薇と黒の薔薇
二人で店に入ると、プリシラはテーブルの上に抱えてきた物を置いた。
「転ばないようにゆっくり歩いて来ました。これが、昨日話した薔薇です。喜んでもらえるといいのですが……」
不安げなプリシラの言葉を聞きながら、アナベルは包みを解いた。
ふわ、と部屋中に爽やかな香りが広がる。
薄桃色の小ぶりで可憐なその薔薇は、プリシラの心がそのまま咲いているように思えるものだった。
愛らしい姿にアナベルの目は輝く。
「こんなに素晴らしい品を、本当に私がいただいてもいいの? お金持ちの貴族に売り込みに行ったほうが……」
「いいんです。アナベルに気に入ってもらえるのが、一番うれしいです!」
上気した満面の笑顔で言い切られては、これ以上遠慮するのは逆に失礼だと思った。
「では、大事にするわね。馨しくかわいらしい薔薇をありがとう」
お礼を言うとプリシラの表情が、この上なく幸せそうなものとなった。こちらまで幸せな心地にしてくれるその顔に、アナベルは目を細めて微笑んだ。
「表通りにチョコレートを食べに行かない?」
他にも用事があるならこの場で聞くが、そうでないなら外に行こうと誘ったアナベルに、プリシラは躊躇う素振りを一切見せずに頷いた。
「行きます。行きます~! このリボンを付けて表通りを歩けるなんて、幸せすぎます!」
アナベルは祖母に出かける旨を伝えると、浮かれきっているプリシラを伴い表通りに向かった。
セインに紹介したチョコレート店で、今度はプリシラに薔薇のお礼として購入する。そうして、噴水広場に移動した。石造りのベンチに並んで腰かける。
広場の中央にある白大理石で造られた噴水は、女神像が持つ壺より水が流れる仕組みとなっている。住民たちの憩いの場であり、様々な祭りがおこなわれる場所でもある。
その際はこの広場に、ベリル国内のみならず他国からも商人が露天に店を出す。大道芸や劇団もやってくるなど、大盛況となる。
本日は祭りの期間でなく賑わいは左程ないのだが、天気が良いので近隣住民が集まって各々楽しげに語らっていた。
「おいしいです~! 私、ここのチョコレート大好きなんです!」
お礼なんてとんでもない、と固辞するプリシラに、アナベルはいいからと半ば強引にチョコレートの袋を渡して食べさせた。
すると、一度食べ始めると遠慮するよりもその美味しさに、プリシラの魂は奪われたようだ。
アナベルが紹介するまでもなくプリシラはあのチョコレート店を知っており、店員の様子から察するに常連客のようだった。
ぱくぱくと調子よく、見ていて気持ちのいい食べっぷりに、アナベルは大満足で目を細めた。
「本当に、美味しいわね」
アナベルも一つ口に入れ、陽光を反射して煌めく噴水の流れを見ながら頬をほころばせた。
いくつ食べても飽きがこない、心を蕩かせる品だとうっとりする。
「父が、アナベルも助手の一人として、第一王妃様の許へ連れて行ってくれることになりました。ただ……お言葉を賜るのは薔薇を育てた父なので、助手の私が言葉を交わせる機会などほとんどないのです。第一王妃様が、気まぐれにお言葉をかけてくださった時くらいで……それでも、本当にいいですか?」
チョコレートに魅了されて蕩けていたプリシラの顔が、真率なものとなっていた。第一王妃に目通りが叶ったとしても、言葉を交わすのはそう容易く叶うことではない、と眉を下げてこちらを見ている。
アナベルが怒らないか心配しているように見えるその顔に、にっこり笑って力強く頷いた。
「連れて行ってくれるだけで充分よ。粗相をしてあなたたち親子に迷惑をかけるような真似は絶対にしないと誓うわ。でもその時私は変装して、アナベルという名前も使わないから、そこのところはよろしくね」
「え?」
不思議そうに首を傾げたプリシラに、苦笑する。
「マーヴェリット公爵様の婚約者の顔は、きっと第一王妃様には伝わっていると思うの。そこにのこのここの顔と名前で登場しても、警戒されるだけでまともに話をして下さるとは思えないから……」
「……そういうことですか」
納得した様子で、プリシラは小さく頷いた。
第一王妃には、ほんの少しこちらを見てもらえればいいのだ。それで必ず自分に興味を抱くようにして見せる。アナベルにはその自信があった。が、セインの婚約者と最初から知られていては、興味を引くどころか、顔を見るのも嫌だと追い払われる可能性のほうが高い。それでは最初の一歩すら踏み出せずに終わってしまう。
「王家とマーヴェリット公爵様が争うようなことにならないといいですね。ベリルは、今のまま平和がいいです。その為に、私にできることがあるならうれしいです」
噴水周りをちょこちょこ歩いている鳩たちに目を和ませながら、しみじみとした口調で語ったプリシラに、アナベルもまったく同感だった。
ベリルはここ百年ほど外国からの侵略もなく、王位簒奪といった国内が大きく揺れるような内紛もない。
自身の利益ばかり考え、国の繁栄を阻害する悪徳貴族や商人の取り潰し。貴族同士の争いや一般市民による諍いといったものがなくなることはないが、全国民がベリルの存亡を危惧するようなものは起きていないのである。
ゆえに、ベリルは自国民のみならず、周辺国の民からも平和で豊かな国と認識されていた。
その大事な平和が、王太后がセインを嫌う気持ちが高じれば崩されてしまう危険性がある。
どうか、お誕生日にはいつも通りセインの薔薇を選んで、波風が立たないようにしてほしいものだ。
だが、ラッセル侯爵の用意する薔薇とやらが、どうにも気になる……。
「そういえば、王太后様のお誕生日のお祝いに、ラッセル侯爵が見ようによっては銀色に光って見える薔薇を贈ると耳にしたのだけど、そのような不思議な色の薔薇とは育てられるものなの?」
訊ねてみようと思っていた疑問を口にすると、プリシラの表情は途端に真剣そのものとなった。
「見ようによっては、と言うことでしたら出来ないことはないかと……。光の当たり具合で銀色っぽく見えると言い張るのでしたら、私の知る品評会の場においてはよくあることですから……」
最後は苦笑したプリシラの言葉に、アナベルはきょとんとして目を丸くした。
「言い張るの?」
「色の捉え方は人それぞれですから……言うのは本人の自由です。ただ、銀色などは……言い張ったからとそう容易く認められることはありません」
「なるほど。主張するのは自由でも、公に認められる薔薇として育てるのはほぼ不可能ということね」
それならば納得である。育てた人間が思い込みで言い張るくらいは、好きにしてもいいと思う。
ラッセル侯爵の抱える育種家も、そうやって言い張っているだけなのだろうか。
しかし、そんな物を薔薇好きの王太后に贈っても喜ばれないのは確実だ。政の中枢にて力を握っているような人物が、その程度のことがわからないとは思えない。
「実は、私も銀色ではないのですが、輝いているように見える薔薇の開発に取り組んでいます。父にもたくさん応援してもらっているので、うまく咲いてくれるといいのですが……それでも、公に認めてもらうのは難しいと思います」
小さく微笑んだプリシラは、再び袋からチョコレートを一つ取って口に入れた。
肩が少し落ちているその姿は、咲く前から諦めているように見える。アナベルはプリシラの肩をポンと優しく叩いた。
「私は育種家でないから役に立つ助言はしてあげられないけど……あなたは、見る者の心に残る美しい薔薇を育てられる人だと思うわ」
薔薇の精霊たちが、いつもその周囲で励ましているように感じるのだ。彼らのその励ましは、きっとプリシラの才能を大きく開花させると思う。
「それは、褒めすぎです。でも、とてもうれしいです~! 頑張って、いつかマーヴェリット公爵様の育種家たちが咲かせるような薔薇を咲かせたいです!」
アナベルの心を込めた言葉に、プリシラは真っ赤になって感激していた。下がっていた気持ちが上向いている。彼女にはいつも元気でいてほしいので、アナベルもうれしくなった。
「他人など気にせず、プリシラはプリシラの薔薇を咲かせたのでいいと思うけど……」
「そうは思うのですが、公爵様のお抱えの方たちが毎年発表される新作がすごいのです! その中の最高傑作が王太后様に贈られる薔薇となるのですが、今年は漆黒と言っても良い奇跡の薔薇であると噂に聞いています」
「漆黒?」
物凄く熱の入ったプリシラの言葉に、アナベルは目を瞬いた。
銀色に見える、と言うのも驚きだったが、黒とはさらにとんでもない。薔薇に限らず黒い花など見たことがないので、首を傾げるばかりである。
「巷ではラッセル侯爵様の薔薇ばかりが取り上げられています。開発費にとんでもないお金をかけているそうですから、その薔薇は銀色であると認定される可能性が高いと思います。ですが、私が育種家仲間の集まりで耳にした噂が真実であれば、今年も公爵様が選ばれると思います」
「…………」
セインに助言しようなど、少しも思わなくて本当によかった。
たとえ、ラッセル侯爵の銀の薔薇が公に認定される物だとしても、セインが漆黒を贈るのであればそちらが選ばれるとアナベルも思う。
誕生日の贈り物一つのことなのだが……まったく、想像を絶する戦いである。
武術で戦わないからこそ、余計に恐ろしく感じて背筋がぞわぞわした。
雲一つない空を見上げ、セインは大変な世界に生きる人なのだ、と改めて思うアナベルだった。
◆◆◆
「民を疲弊させることしか知らぬ、我がベリルの害悪としかならぬ者達から返還させしものを、弱き民の幸福のために役立てると決めたのは、ベリルの王たるこの私だ。それが気に入らぬとあらば、この場で私に言うが良い」
久々に王の臨席する重臣会議の最後。
終わりが目前となったことで気を抜いていた重臣たちに向けて低く響いたその声は、一瞬で彼らに緊張を取り戻させた。
重臣たちの席よりも一段高い場に設けられた玉座より、紫の瞳が冷たい光を放って彼らを見下ろす。
王のその冷徹な眼差しに対抗できるような者はなく、反駁の声が上がることはなかった。
王が、誰が耳にしても成し遂げるのは不可能であり、国民に過度の負担を負わせるばかりの荒唐無稽な夢物語を語っているなら、反駁の声は上げるべきである。
考えを改めて頂けるよう懸命に説得にあたるのはベリルを支える重臣の正しい役目だからだ。
しかしこの場で王が口にしているのは、民が歓迎し、長い目で見れば必ずベリルの発展に繋がることである。
このような、王に落ち度のまったくない良策に正面から逆らうとなると、よほどの理由を示してみせねばならない。
そうでなければ、国民の暮らしを思いやる心を失った慮外者として、厳しく罰せられる。職を解かれるのみでなく、最悪、所領を削られる可能性も大いに出てくるだろう。
その程度のことが計算できないような者が、この会議に出席できる力を持つのはまず不可能である。
もちろんラッセル侯爵一派もそれは同様であり、本心では反対の立場であってもここは大人しく王の言葉に従う姿勢を見せていた。
王の隣に立つセインが、表情を消してそんな彼らを眺めていると、重臣たちに向いていた王の視線がこちらを見ていた。
「宰相。見たか、重臣たちに反対意見はないようだぞ。これで、早急に進められぬとのそなたの泣き言は、今後一切聞かぬからな」
王の白皙の面は微笑み、声音も柔らかいものだった。泣き言は聞かぬと厳しいことを言いつつも、どこか面白がっているようなそれに、セインは神妙な面持ちで頷いた。
「心得ましてございます。陛下」
セインの返答を変わらぬ笑みを浮かべたまま聞いた王は、再び重臣たちに目を向けた。
「そなたらも、賛同した限りは宰相の邪魔をするような真似はせぬことだ。もし、これでも弱き民のために使われぬのであれば、そなたらが宰相の邪魔をしていると見做す。宰相が名を挙げた者は、役職も爵位も私に返して貰うとするかな」
最後に王は楽しげに笑った。が、重臣たちには笑顔はなく、硬い表情でその言葉に聞き入っていた。
王が今の言葉を冗談で言ったのではない、ということは、即位してから何家も容赦なく貴族を潰していることで、すでに実証されているのだ。
中にははっきりと、ぞっとしたように身を震わせる者もいた。
王はそれ以上何か言うようなことはなく、玉座から立つ。
ゆっくりとした足取りで議場から去る姿を、セインは礼をして見送った。重臣たちも席を立ち、セインと同じようにしていた。
これにて重臣会議は終わりである。しかし、本日はこの後、王の臨席しない会議がおこなわれることがすでに決まっていた。
そちらには、この会議には出席できない下位の者も参加する。人数は倍以上となるため、別の議場が用いられる。
その為、王の姿が完全に見えなくなると重臣たちも移動を始めた。会議が続くのは面倒だ、とぼやきを零している幾名かを冷めた目で眺め、セインは最後に議場を出た。
廊下にはラッセル侯爵が立っていた。
珍しく取り巻きを侍らせず一人きりである。
はっきりと視線が交わったことで、それは偶然ではなく自分を待っていたのだとセインは察した。




