005.決断できずにぼやきが出る
祖母の家から一時間ほど歩いたところに流れる、ペルヴィ川。
王都に水を供給している河川の一つであり、幅の広い、透明度の高い清流である。
アナベルはその土手の斜面にうまい具合に凹んでいる場所を見つけ、そこに座って川面を眺めていた。
陽光が水面に反射して煌めく清々しい光景とは対照的な、重苦しい溜息を零しながら……。
「私が邪魔で婚約破棄したいからと、ここまでしなくてもいいじゃない……」
右手首に填められた黄金の腕輪を見つめながら、暗鬱な気持ちでぼやく。
アナベルの白く細い手首には、血のように赤い深紅の石が三つ填められた黄金の腕輪が光っている。
何も知らない者が見たなら美しい装身具にしか見えないだろうが、そのような良い物ではない。
上級白魔法でも解呪できない、強力な呪いのかかった腕輪である。
ならば、と腕を傷つけないよう気をつけながら上級黒の攻撃魔法をかけてみたが、アナベルが使える最強のものを使用してもヒビ一つ入らなかった。
刃物も一切駄目である。
「解呪方法は月の欠片のみ……」
祖母の蔵書の中にも、この腕輪について書かれた物があった。
ブルーノの言った通り、古の大魔法使いが偶然得た月の欠片を使って製作したと記されていた。大魔法使いは富と権力を得るよりも、月の欠片を使って強力な呪いの腕輪を作るほうを選んだということだ。どういう意図があってそのような真似をしたかについての記載はなかったが、まったく迷惑な話である。
しかも、即死の呪いでないところにアナベルは意地の悪いものを感じる。
もちろん、即死が良かったなどそんなことは言わない。
だが、腕輪を付けられた者が半年間、解けない呪いにもだえ苦しむ姿を楽しんでいるようにしか思えないのだ。
呪いが発動して付けられた者が亡くなると、次の者へ使用できるように、腕輪の留め金は開く。
そんな気分の悪い腕輪が時の流れにより様々な場所を流転し、ついには魔獣の腹に収まっていたというわけだ。
確かに、こうしてじっくり眺めていると呪いの腕輪というのに、微かに神聖な気配を感じる。
おそらく、黄金の部分に月の欠片を砕いて溶け込ませているのだ。それが、呪いを強力なものとしているのだろう。
もし、このような物に使用していなければ、月の欠片は誰が見ても分かるほどの清らかで神聖な気配を纏っているはずだ。
手に入れた者が創造神からの贈り物であると信じるのは、欠片に神の気配を感じるからだとアナベルは聞いたことがある。
大魔法使いは、腕輪の呪いを強めるためだけでなく、解呪方法にも月の欠片を設定した。
深紅の石に月の欠片を触れさせると腕輪は消滅すると記載されている。
解呪する為には素直に、大魔法使いの決めた設定に従い月の欠片を手に入れるしかない。
現在、ベリルで月の欠片を所有しているのは二家のみ。
祖母と魔法力を合わせて三日がかりで占った結果である。
案の定というべきなのだろうか、繁栄している家が所有していた。
フィラム王家と、現王の叔母君が降嫁している国一番の名門貴族マーヴェリット公爵家だ。
アナベルの魔法力を駆使すれば盗み出すのは可能だろうと思う。
祖母は、早く盗みに行こうと気合を入れている。
いくら富と権力を約束する神からの贈り物とはいえ、フィラム王家とマーヴェリット公爵家がそれに頼り切って家を繁栄させているとは思えない、というのが祖母の見解だ。
アナベルも、それには同意する。家の当主が優秀でなければ、国一番の名門貴族とは呼ばれ続けないと思うのだ。
ただ、いくらそうであっても、くださいと正攻法で掛け合ってもおそらく取り合ってもらえないだろう。下手すれば、牢獄行きである。
だから、盗みは良くない事であるが、命がかかっているのだから見逃してもらおう、と……。
祖母が、アナベルの為に必死になってくれているのはわかる。
『一緒に盗みに行くから、もし見つかった際には、自分を囮にして逃げればいい』 とまで言う祖母に、盗みに行くなら一人で行くとアナベルは心に誓った。
だが、踏ん切りがつかない。
月の欠片を使って腕輪の呪いを解いた後、欠片がそのまま残るのであれば、アナベルはすぐにでも公爵家に忍び込んでいる。
使用させてもらい、そのまま返しておけばいいからだ。
しかし、解呪に使用した後、欠片が無事に残るとはどこにも書いていないのだ。
強力な呪いを解呪する、その代償として消滅すると考えた方が良いのではないだろうか……。
そうなれば、アナベルが月の欠片を盗んだ後、それが原因で公爵家が没落の憂き目を見るかもしれない。
大丈夫だと思うのだが、その可能性はゼロではないのだ。
国と民の為に尽力している宰相公爵が、それで地位を追われるようなことになれば目も当てられない。
マーヴェリット公爵は切れ者として名高い人なのだから大丈夫。月の欠片が消えても何も悪影響など出ない、と何度言い聞かせても、もしも……を、考えてしまうのだ。
他人の人生よりも自分の命の方が大事だろう! と感情はアナベルに訴えてくる。
が、他人の人生を滅茶苦茶にして命が助かっても、素直に喜べない。
アナベルに腕輪をつけたブルーノが悪いのだ、と開き直れるような強さは自分の内にはないのだ。
そんな真似をして生き延びれば、最低な人間だと蔑むブルーノと同じ人種に落ちてしまう。それを厭う気持ちの方が大きいのだ。
「はあ。正直に話してくれたら婚約破棄などいくらでも同意したと言うのに……まったく……」
それだと父を亡くした傷心の伯爵令嬢を見捨てたとみなされ、自分が悪者とされる。出世に響くから話せなかった、とブルーノは考えているのだろうが、話してさえくれればそのような事にはしないよう、いくらでも協力した。
そのブルーノに対する最大の報復は、自分が生きて彼よりも幸せになることだと思う。
だが、そうするためには、わが国の大事な柱である二家のどちらかに災いを撒く覚悟で、月の欠片を盗まねばならない訳で……。
考えていると、どうしても悶々として頭が痛くなりため息が出てしまう。
もし、呪いを解けずにタイムリミットを迎えた場合、全力でブルーノに何をやってもうまくいかない呪いをかけてから人生を終える。
それだけは、しっかりと決まっていた。
はあ、と再び大きなため息を吐いた時、右隣から影が差した。
周囲に背の高い樹木はない。空は晴天、雲一つない。
「?……っ!」
不審に思って俯けていた顔を上げ、アナベルはぎょっとして目を瞠った。
すぐそばに、肉の塊としか言いようのない丸々と肥え太った、黒髪の男性が立っていた。
顔はぱんぱんに丸く、腕も脚もむっちりと、おなか周りはぽってり……。
こんなに太った人を見るのは初めてで驚くばかりだが、見ているとその瞳の色のほうにも驚かされた。
男性は、目蓋のお肉でかなり隠れてしまっているが黄金の瞳の持ち主だった。
ベリルで黄金の瞳というのはとても珍しい色合いなのだ。
男性から少し離れた場所に、二頭立ての立派な大型馬車が停まっている。
間違いなく巨大なお肉さん……ではなく、身に纏う上質な装いから見ても上級貴族であろうこの男性を乗せてきた物だろう。
その傍らには馬から降りた騎士が四名いて、こちらを窺っている。
しかし、これほど傍に来るまで、男性のことにも馬車の音にも気配にも気づかないとは迂闊だった。
思考が行ったり来たりを繰り返すばかりで決断できず、そればかり考えていた物だから、周囲に気を配るのを忘れていたようだ。
男性貴族は他にも幾らでも憩う場所はあると思うのに、無言でじいっとアナベルの座る場所を見ていた。