046.心に咲く白い花
「アナベルが王宮魔法使いとなり陛下を健康体とすることができれば、長官はその地位を追われる。だから嫌うというのは理解できた。だが、長官がラッセル侯爵から金を受け取ったのは今日のことではないと思う。以前から繋がりが出来ているから、この機会にその金を使っておまえと手を切ると宣言したのではないだろうか?」
「確かに、すぐさま用意して叩き返すには大きな額だ。ラッセル侯爵といえど、あれだけの額を長官に一度に渡しているとは考えにくいしな」
長官の領地の復旧状態はあまり良くないようであるし、本人も家族も浪費家だ。
領地の税収のみならず、国からも高給が支給されているとしても潤沢な蓄えなど皆無だろうと見ていた人間が、セインの申し出に反対して半日も経たないうちに返金してきた。
侯爵から受けた援助をこちらと手を切るための資金にしたと考えて間違いないだろう。
とはいえ、浪費家がそれを使わずセインに返すために取っておくとは意外だ。
「おまえ、長官が手を切りたくなるようなことを、アナベル以外で何かしているのではないか?」
大好きな金を返してまで手を切りたい。長官にそんな風に思われるほど憎まれる真似をした覚えはないのだが……と考えるところに投げかけられた問いに、セインは視線を天井に向けた。
「よくわからないな。私は長官と悪い関係にあると思ったことは一度もないのだ。それが違っていたなど……見抜けずにいた己が正直情けない」
ペンを持たない方の人差し指で、黒檀の机をトントンと叩きながら一つため息を吐く。
長官は、医官長よりも陛下の体調の変化を見逃さない人間である。魔法使いの特別な能力なのだろうが、ほんのわずかな体調不良でさえ見通すのだ。
王は少々具合が悪い程度であれば隠そうとする。無理して倒れられるほうがセインとしては困るので、ゆっくりお休みいただくためにもそうした人間がどうしても側に必要だった。
そして、王の体調に関することはどんな些細なものであろうと包み隠さず自分に教える人間も……。
ゆえにセインは、己に都合の良い働きをしてくれる長官の我が儘を、可能な限り聞いてきた。
その内容は浪費家に相応しく金のことばかりだった。
国と王の守りと褒めそやされ、敬意を集める王宮魔法使いの長ともあろう人間が拝金主義者。
金のことしか考えない欲まみれであると知れたら、国民はさぞかしがっかりして失望するだろう。そうと呆れつつも、セインは長官が浪費を楽しめるように結構な額を流した。
長官はそれに満足し、セインの要請を忠実に守っていた。
【女じゃないかしら?】
唐突にきゅきゅの声が意識に響き、セインもジャンもその姿を凝視した。
「女とは……きゅきゅ、いきなりどうしたのだい?」
思いも寄らない問いかけに、セインはきょとんとして首を傾げた。
【セインは、長官とかいう人間の娘と正確な日にちは忘れたけれどお見合いをしたじゃない。私は覚えているわよ】
机におなかをくっつけるようにして丸くなったきゅきゅが、首だけ上げてセインをじいっと見ている。
その目を見返して、脳裏に記憶を掘り起こしたセインは苦笑した。
「次女殿だったかな。長官が是非にと言うので確かにしたよ。だがね、あれは向こうから断ってきたのだ。太った醜い男と結婚するなどいやだと言ってね。だから見合いの不成立を理由に、長官が私を憎むというのはないと思うよ」
『お父様がどうしてもと言うので私はここに座っております。公爵様。私をお望みでしたら、私は痩身の男性が好きですので痩せて頂きたいのです。今のお姿ではどうしても醜いとしか……』
と、二人きりになった席で、長官の娘は目蓋を伏せるようにしてぼそぼそ言った。
自分と結婚したければ痩せろ。太った醜い男などお断りとしか聞こえない内容に、セインは安堵して微笑んだ。
『あなたを強引に娶るような真似などしません。お父上がなんと言ったか知らないが、見合いが上手くいかないからとあなたを叱るような真似はしないようにときちんと言っておきますので、ご安心を。醜い男はすぐに目の前から消えますとも』
そう返すと、席を立ってその場を離れたのだ。
長官が公爵家と縁戚になりたいと、嫌がる娘をセインのほうが望んでいるからと嘘を吐き、無理やり見合いの場に引っ張り出したのだろうとしか思わなかった。
長官の娘となれば断りにくいので暗鬱な思いで見合いに臨んでいたセインからすると、娘の態度はこちらに大変都合の良い助かるものだった。
擦り寄って来られるよりも醜い男は嫌いと言われるほうが何倍もありがたい。その為に呪いにかかっている身としては、笑みも零れるというものだ。
娘もこれで気に食わない男との結婚を免れ安堵したはずである。
だから、長官には不本意な結果であったかもしれないが、娘の意思を無視して泣かせるよりはと納得してくれたとばかり思っていた。
【貴女のために痩せます! そう叫び、足元に跪いて愛を乞うてほしいと娘の気配はセインに向かって訴えていたわよ】
「まさか……私をほとんど見ようともせず、嫌そうな声でぼそぼそ言っていた娘がそんなことを思うなど……」
きゅきゅの声に嘘を吐いているようにはまったく感じないものの、俄かには信じ難くてぎょっとしてしまう。
【私たち竜は、好きな相手には好きと素直に伝えるからおかしな感じにしか思わないのだけど……人間の女の中には、嫌なのだけどあなたの方がそこまで言うなら結婚してあげてもいいわよ。なんて心積もりで、自分からは一切動かず気のない振りをしながらも、チラチラ目当ての男を見て告白を待つというのが、いるのではないかしら?】
「それが、長官の娘であったと……」
きゅきゅの言葉は、下を向いてか細い声で喋っていた姿しか思い出せないセインにとっては驚きの連続だった。
【そこの女好きに聞いてみれば、そんな女が存在するかどうか教えてくれるのではないかしら? 女のことをよく知ってそうだし】
「女好きではなくたまには名前で呼んでほしいものだが、きゅきゅの言う通り存在するよ。……で、長官の娘がそういう女であれば、己の思うように動かなかったおまえのことを、これでもかと悪しざまに長官に語っただろうな。確か……次女と言えば、おまえに最も纏わりついているオリヴィア嬢ほどとは言わぬが、結構な美女ではなかったか。己に自信があった分、あっさり見合いを蹴ったおまえに対する怒りは深いのだろうな」
きゅきゅに目を向けられて指名されたジャンは、苦笑しつつも一つ頷いて語った。
「わが家と縁戚になるという野望が崩れた挙句、娘が私の態度を不満に思い嘆く。それが合わさったところに、ラッセル家から美味しい話が来た、と……」
太った醜い人間は嫌いと言っておきながら、追いかけて愛を乞うて欲しいなど、なんと図々しい。そんなふざけた考えに気付くはずがなかろうが……。
セインが脱力しながらぼやくように口にすると、ジャンは面白そうな笑みを返してきた。
「まあ、そんなところだろうな。長官はおまえにお義父様と呼ばれることを期待し、その娘はベリル一の貴族が自身の足下に跪いて求婚する姿が見たかったに違いない」
「まったくもって馬鹿馬鹿しいが、これで長官が私を嫌う理由ははっきりしたな」
行儀が悪いとわかっていても、なんだか途轍もなくうんざりして頬杖をついてしまっていた。
長官は、セインが娘との結婚に乗り気でないとわかった後も、態度を変えることはなかった。
娘も納得していないようですので、と苦笑していたそれを、娘にまったく興味のなかったセインは鵜呑みにして終わりにした。
だが、長官のほうは終わりにしなかったわけだ。
「オリヴィア嬢も同類だな。おまえを支配する結婚がしたいといった感じだ。他にも、おまえと結婚したいと望む女性にはその系統が多いよな。おまえは、傍から見ると良いものを持ちすぎた人間だ。だから、それをすべて奪ってやろうとギラギラした肉食系ばかり集まる。お~怖い怖い」
わざとらしく肩を竦めて身震いまでしてみせたジャンに、セインはいやそうに眉を顰めた。
インクをその顔に飛ばしてやろうかと考えながら無言で書類にサインを入れる。
すると、ジャンが楽しげに笑っているのが横目に見て取れた。
「その点アナベルはいいよなあ。おまえを支配しようなんて考えず、とにかく守りたいとそればかり考えている。しっかり者で健気で善良……彼女はきっと、お前の心の闇に咲く、白い花になるんだろうな」
【それに関しては、私もあなたの言葉に賛成よ】
セインが言葉を返す前に、きゅきゅが珍しくジャンに同意して機嫌よく目を細めた。
ジャンがそれを見て嬉しそうに目元を和ませるのを見ながら、セインはぽつりと言った。
「善人として生きて来たとは言わぬが、心に闇など持った覚えはないぞ。……だが、彼女が白い花のような人であることは認める」
嫌な話にうんざりしても、アナベルの姿を心に描くと不思議と晴れやかな心地となる。
気持ちがすっきりと上向き、書類の内容も素早く頭に入ってくるように感じるほどだ。
事業はどれも順調で、領地の方にも大きな問題は起きていない。詳細な報告は、セインが知りたいと思う点をきちんと押さえている。
忠誠心が篤く信頼できる者達をそれぞれの場所に配して作成させており、ジャンが特別説明を入れてこないということは、報告漏れなどはない証だ。
「白い花に守られたおまえが負けるようなことはないだろうが……ラッセル侯爵は、長官だけではなく当然王太后様も味方に引き入れているだろうな」
「長官よりも王太后様のほうが簡単にラッセル侯爵側になったと思うよ」
それでセインが排除できるならば、と王太后とラッセル侯爵が手を携える姿が目に見えるようだ。
長官やラッセル侯爵に関しては、不正を探り出して言い逃れできぬ証拠を積み上げて排除すればそれで片が付く。
しかし、王太后にまで手を伸ばすとなると、王家のみならず国全体にまで波風が立つ可能性が非常に高い。王族とは、そうした厄介な存在なのだ。
そんな事態は巻き起こしたくないセインとしては、王太后の存在は正直扱いに困るので頭が痛い。
「王太后様が、フィラム王家と並び立つ権勢とまで言われるマーヴェリット公爵家が目障りという気持ちはわからないでもない。だが、簒奪の意思などないのはおまえを見ていればすぐにわかると思うのだがなあ……。邪険にして呪うなど一日でも早くやめにして、国を守る便利な道具として使い倒してやろうというくらいの大きな気持ちを是非とも持って頂きたいものだ」
ジャンもセインと同じ気持ちでいるのだろう。真率な目をして語るもその内容に、セインは複雑な顔となった。
「便利な道具として使い倒し……呪いをかけられるよりもお断りだ。それに、もう少しすれば私を邪険にしない楽しい日が来る」
最後の言葉は朗らかに口に乗せたセインに、ジャンが訝しげに眉を寄せた。




