045.書類仕事
「陛下の魔法使いになるよりも、おまえを守りたいとはね。彼女は恋愛関係には鈍そうだったから時間がかかるかと思っていたのだが、そうでもなさそうだ。よかったな」
執務室にてふたりとなると、ジャンがしみじみとした様子で言った。
羨ましそうな響きを纏うその声音に、セインは機嫌よく頷きながら席に着く。
ところが、机上には浮かれた気分を一気に下げる物があった。
ドンと積まれたこれでもかと存在を主張する書類に、思わず目を背けたくなる。
公爵家の所領は数が多くそのどれもが広大だ。しかも行う事業も多岐に渡る。ゆえに、毎日それらの報告書類はセインの前に山と積まれるのだ。
だが、面倒だからと目を背けたところで消え失せる物ではない。心の内で溜息を吐きつつ上から取って見始めると、肩にいたきゅきゅが飛んだ。
執務机の端まで移動してちょこちょこ動く。
可愛いその動きは、面倒な書類仕事の良い癒しである。
「長官よりも力の強い魔法使いがお前を守る。なあ、彼女に頼めばお前の敵の弱みなど簡単に掴めるのではないか? 排除も容易いかも……」
側に立つジャンから期待の篭った言葉を聞いた途端、セインは書類にサインを入れていた手を止めた。
使用していた羽根ペンの羽根部分でその胸元を突くようにする。
「その考えは忘れろ。彼女に一言でも言ったなら、冗談であろうと許さぬよ」
「……」
瞳を見据えて低い声音で宣告すると、ジャンは息を飲みぎこちなく頷いた。
「私は、月の欠片の礼はきゅきゅを癒してくれたので充分だと思っているが、彼女はそれだけでは足りないと本気で考えているのだ。そこにそんなことを言ってみろ。お任せ下さいと言うに違いない。それほど生真面目で義理堅い人なのだ」
アナベルの手を闇に染めるなどできるものか。
顔をしかめながらセインは再び書類に目を落とす。
「公爵家のためなら利用できるものはなんであろうと利用する。眉一つ動かさず、平然とそれを実行してきたおまえの口からまさかそんな言葉が聞けるとはな」
「そうだな。相手が彼女でなければ、上級魔法使いの忠誠が得られたとなれば都合の良い道具が手に入ったと満足し、あらゆる面で使えるだけ使っただろうな」
面白そうな目でこちらを見ているジャンに、苦笑を返す。
情報収集や暗殺などに、上級魔法の内にはきっと役に立つものがあるはずだ。
それを使ってもらえれば、政敵の排除に割く労力がかなり軽減される。肩の荷が下りるだろうとわかっていても、セインはアナベルにそうしたことを頼みたいとは思わない。
彼女は、それを頼んだセインに嫌とは言わないだろう。
だが見せてくれる笑顔には、きっと陰りが生じる……。
公爵家を守るため、宰相として政をおこなうため、数など忘れるほど汚い手を使ってきた。
清廉など程遠い自分であるのに、彼女にだけは嫌悪の目を向けられたくないのだ。
今のまま、呪いにかかっても誰も憎まず頑張っている人だと思っていてほしい。
「本気の純愛。愛する女性には良いところばかりを見せたいというわけだな。聞いているほうが照れる。やはり、彼女はおまえの夢を叶えてくれる人間だったようだ」
満足そうにうなずいているジャンの一言に、セインの眉がピクリと跳ねる。
「夢。おまえ、彼女になんでもぺらぺら喋るんじゃない!」
「お! そのことでさっそく何か話したようだな。さぞ、楽しい会話が交わせたのだろう?」
少し険しい声で釘を刺すも、ジャンはどこ吹く風といった様子でにやりと笑って返してきた。
「……それに関しては、話すつもりはない」
ぼそりと切って新たな書類にかかる。
会話はとても楽しかった。あんなに嬉しいと思った言葉は生まれて初めて聞いた。
地位も財産もすべてを失っても、アナベルの側にはいられる。
彼女だけは何も持たないセインを見捨てず、一緒に生きていきましょうと無条件で手を差し伸べてくれるのだ。
そんな彼女を好きにならず、他の誰を好きになれと言うのだ。
セインはあの遣り取りを思い出すだけで、自然と頬が緩みそうになる。が、書類の記載に見過ごせないものを見てしまい、口元を引き締めた。
「そんなことを言われたら、余計に知りたく……」
「ジャン。こんなものを私に見せるな。どんな詫びをしてこようと、私はこの男を許さないと言ったはずだ」
軽口を遮りその側に見ていた書類を滑らせるようにする。
それを少し見ただけで、ジャンも眉間に皺を寄せ渋面となった。
「それな……公爵様は絶対に目を通さないと、私も何度も言ったのだがな……」
「わが家との取引をやめて他家と契約を結ぶのに関しては許しても良い。条件が折り合わない場合に商人が鞍替えするのは良くある話だ。だが、他家の粗悪な品をわが領で採れた品だと偽り売りさばいていたのは許せるものではない。おまえもわかっていることだろうに……」
思い出すと気分が悪くなるばかりの商会会長の顔が脳裏に浮かび、セインは口元を歪めた。
「何度追い払っても屋敷の前から離れず騒ぐから、使用人たちが弱っていたのでな。『詫びはいかようにもする。どんな条件を付けても構わないから、公爵様が貴族たちに回した文書を取り消してほしい』と、顔を見せた私の足元にしがみついて喚くのが鬱陶しいのなんの……」
辟易して語るジャンに、セインは素っ気なく言い放った。
「わが家から乗り換えた貴族に守ってもらえと返しておけ。煩わしいからと受け取る奴があるか」
現在は潰れて存在しないが、取引相手を他家に乗り換えた挙句に公爵家の名に傷を付けようとしたこの商会は、そこそこの規模と歴史を誇るものだった。
だから、ベリル一を謳う名門貴族であろうと、そう容易く己の商いに干渉できるとは思わず驕っていたのだろう。
罪が明るみになりこちらが動いた途端、商会会長はすべてを下の者の独断とし、彼らを平然と司法の場に突き出すと、それでことを収めて終わりにしようとした。
マーヴェリット公爵家に対して悪事を働いたのはすべて下の人間であり、商会会長である自分は知らなかった。
自身はそのような恐ろしい企てには絶対に関与していない。潔白である、と堂々と主張した。
商会会長の関わる決定的な証拠が出なかったため、司法の場においては商会会長の言い分が通った。
商会会長も貴族なのだが、セインよりも位は下である。
司法の場にて裁判に携わる者達はもちろんそれを知っていたが、貴族の位よりも証拠を優先するという姿勢を国民に見せたのだ。
その判決に対し、セインは裏から手を回すような真似はせず、商会会長の勝利に一切不満を述べることもしなかった。
部下の独断だと言い張る商会会長との裁判に勝利したところで判決は、商会会長がセインに部下の監督不行き届きを謝罪し、いくらかの賠償金を払う程度となるだけだ。
そんな心の篭らぬ謝罪もはした金も、セインにはまったくいらない物だった。
【マーヴェリット公爵家を愚弄した商会と今後も取引を続けるならば、公爵家に対し同様の気持ちを抱いていると見做す。それでもよろしいか】
セインはその内容が記された文書をすべての貴族、商家に向けて送った。
結果としてベリルでこの商会と取引を継続しようとするものは皆無となった。
裁判に勝利したことでしたり顔であった商会会長は、そこで初めて己が踏んではならぬ虎の尾を踏んだと気づいたようだった。
慌てふためいて謝罪に訪れたが、追い返した。
その際も、今日と同じく強引に嘆願書を置いて帰ったのだが、マーヴェリット公爵家との関係が破綻しても、公爵家を良く思っていない貴族が助けてくれると高をくくっていたのがよくわかるそれを、セインは鼻で嗤った。
王太后がどれほどセインを嫌おうとも、ラッセル侯爵家が銀鉱脈で莫大な財を築いて貴族内で勢力を増していようとも、ベリルの特権階級である貴族の頂点に立つのはセインが統率するマーヴェリット公爵家だ。
セインのことを気に入らず、隙あらば取って代わりたいと狙っているラッセル侯爵であろうと、この事でマーヴェリット家と正面切って戦いとなることは避けた。
それが、ベリル一の財産家であり七公爵のうち六家までを従えているマーヴェリット家の力である。
「会長が公爵家から乗り換えた貴族ねえ……会長の悪事に加担して甘い蜜を吸おうとしていたその家の当主は突然引退。跡を継いだ息子は社交界からつま弾きにされぬよう、お前の機嫌を取って領地を三分の一ほど差し出してきたよな。あの家の内情は現在火の車だ。庇う力などないことはわかっていて、よく言う」
ジャンが楽しげに笑いながらセインの肩をポンと叩く。
「わが家に傷を付けようとした者の末路など知るものか。命を取らぬだけありがたいと思え」
店が潰れても会長の命は残っている。他国で真面目に働いて再び商いをする機会はあるのだ。
悪辣な真似をした者に対し、それ以上の恩情などセインは知らない。
もっとも、他国にも影響力を持つマーヴェリット公爵家の当主が疎んじている者と、進んでよしみを結ぼうとする者がいるかどうかは知らないが……。
「ま、そうだよな。今日のことで長官もこの会長と同じく、地位も権勢もすべて奪って陛下の側から追放で決定だな」
うんうん、と一人納得して頷いているジャンに、セインは長官と聞いてふと思い出した。
「これは彼女が教えてくれたことなのだが、上級魔法には自然に干渉できるものがあるそうだ。だから、長官が上級魔法使いであるなら領地で大規模自然災害が起こるというのおかしな話なのだと……」
「自然に干渉とは?」
怪訝そうに少し首を傾げて見せたジャンに、セインはにやりと笑ってみせる。
「草地を一瞬にして花園としたり、自然災害の被害を小さくおさめることができるのだそうだ」
「な! そんなことは神の領域ではないのか……」
自分と同じように驚いて目を丸くするジャンに、セインの笑みは深まった。
「驚いただろう。力の強い上級魔法使いとなれば、そのような神のごとき技も可能なのだ」
「それでは本当に長官など相手にならないな。長官にそんな真似ができるなど聞いたこともないぞ。上級魔法使いがそこまですごい存在だったとは……」
腕を組み、ほう、と感嘆のため息を吐くジャンにセインも同意だ。
「だから、地位に固執する長官は彼女を絶対に認めない。それを知らずにのこのこ話を持っていくなど、馬鹿な真似をしたと思うよ」
「なあ……まだ調べていないからはっきりとは言えないが、長官に金を流しているのはラッセル侯爵ではないかと思う」
「おそらくそうだろうな。あの男が己の権勢を強めるのに役立つであろう者達に手当たり次第金をばら撒いているのは有名な話だ。銀鉱脈のおかげで懐にかなりの余裕があるようだからな」
アナベルに語ったように、己にとって有益な者に恩を売って味方に取り込むというのは、特別珍しいおこないではない。
だから、財の潤沢なラッセル侯爵がそれをしていると知っていても、セインは当然のことだろうと考えるくらいである。
長官がその金に目が眩み今後はラッセル侯爵と懇意にするとわかっても、怒りなど湧かない。
王の快癒よりも自身の地位を優先した長官になどもう用はないのだ。
王に追放されるその日まで、せいぜい楽しく生きていればいい。




