033.柔らかくてあったかくて、好き。
「セイン。お言葉通り、マーヴェリット家に月の欠片が消失したことによる悪影響はないようです。存在した時と失われた後の気配に特別な変化が感じられませんので。本当によかったです」
腕輪の呪いが解けた後、マーヴェリット家に没落を促すような人知を超えた不穏な気配が押し寄せてくるようなことはなく、アナベルの不安は杞憂に終わった。
もちろん、そのようなものが襲い来るなら全力で弾き飛ばして守るつもりでいた。
だが、やはり人間の才覚で繁栄している家は、月の欠片の力にその繁栄が左右されることはないのだ。
セインに対する恨みや呪い攻撃といったものに変化はないのだが、それらにはセインの命を奪うことも不可能で、マーヴェリット家を崩壊させる力もない。
「気にしてくれていたのかい。ありがとう」
「当然のことです……あ!」
礼の言葉に返答しかけて、アナベルははっとした。
真っ先に思い至るべきことを、今の今まで忘れていた。
「なんだい?」
「私との婚約を発表してしまった今……女性避けと結婚しない意思を示すためにわざとかかった呪いは、もう何の意味もなさないかと……。解いてもよろしいのではないでしょうか?」
「そうだねぇ。結局、あの方々には私が何をしようと信じてはもらえないわけだしね」
どこか寂しげな目をしてセインは苦笑した。
あの方々……おそらく王太后と第一妃殿下の元にもセインが結婚するとの報告は行くはずだ。
偽装であるのを知っているのはセインとアナベルだけなのだから、王太后はその報告を受けてますますセインを敵視するだろう。
自身の子である王より先にセインに子が出来る。それはマーヴェリット家のさらなる安泰を意味し、国民感情がますます病弱な王から離れていくことに繋がりかねない。
王家の血も引く有能な宰相であるセインが王位に就くことへの期待が高まる。そんなことを王太后が歓迎するはずがない。
しかし、その気持ちを考慮していつまでも結婚せずにいれば、ラッセル侯爵令嬢のような女性が現れてセインは煩わしい思いをするわけで……どちらにしても息苦しい。
地位と権力を持つ人とは幸せだろうと思っていたが、セインを見ているとそれは間違いであったとしみじみ感じる。
「この場で私が解きましょうか?」
セインが本気で願えばそれで解けると思うも、アナベルはそう提案してみる。
だが、セインは笑みを浮かべながらも首は横に振った。
「構わない。結婚を決めた上にいきなり痩せれば、何を企んでいるのだと痛くもない腹を探られるだけだからね。痩せるのは陛下がお元気になられてからにするよ」
「……そうですね。そのほうがよろしいですね」
王が快癒すれば、王太后のセインに対する気持ちにも多少なりと余裕が生じるだろう。そうなれば、怪しい腕輪を使っての呪い攻撃も控えてくれるかもしれない。
もちろん、奪って処分することに変わりはないが、王太后の心の闇が少しでも晴れることをアナベルとしては是非とも期待する。
だから、できれば王をただ癒すだけでなく、普通の人よりも健康体としたい。
そうなれば、お妃様のどなかたにすぐにでも御子が宿る可能性もでてくる。その御子が王子であれば、王太后の鬱屈も晴れ、セインに対する憎しみの感情は消えるかもしれない。
悪いところばかりの自分を呆れもせず、それどころか甘やかしてくれるセインの平穏な暮らしを守る為、アナベルにできるのはそれだけだ。
心の内で気合を入れていると、セインが楽しげに笑ってこちらを見ていた。
「私が痩せないと言っても君は残念そうな顔をしないのだね」
「痩せた姿を見たくないと言えば嘘になりますが、そのお姿は嫌いではありません。どちらかと言えば柔らかくてあったかくて好きです」
だから無意識下のことではあるが、遠慮もなく擦り寄って抱きついていたのだ。
大恩ある人を湯たんぽ扱いとは、まったく自分という人間はどうしようもない。
苦笑していると、セインが心持ち目を見張るようにして呆然としていた。
じいっと凝視されて首を傾げる。
なぜ、頬まで染めてそんなに熱心にこちらを見るのだろう。
怪訝に思ったところでアナベルはドキッとした。
まさか、口の周りに肉料理のソースがついているという大失態でも犯しているのだろうか。
慌てて口許に手をやるも、そういった様子はない。
安堵するも、ならばセインがアナベルの顔に穴でも開きそうな勢いで見ている理由に、思い当たるものはなかった。
「柔らかくてあったかくて……好き……」
小さく零れ落ちたセインの言葉が耳に届く。
アナベルはそこで初めて、自分の物言いではセインを人間扱いしていないも同然なのだと気が付いた。
「そ、それはっ! あの、そのですね……け、けしてぬいぐるみ扱いして貶めているといったことではなくてですね。純粋に、御身はあったかくて心地良くて最高だと褒めているのです。言葉が下手で申し訳ございません!」
大慌てで、湯たんぽでもぬいぐるみ扱いでもないことを必死に言い募る。だが、言えば言うほど殿方を褒めているようには感じなくて、顔面に汗が滴った。
「では君は、私が抱きしめてもあったかいとは思えど、いやとは思わないのだね」
「もちろんです。いやなど思いません」
そんな失礼なこと思うわけがない。
アナベルの下手な説明に怒っている様子がないセインに安心し、笑みを浮かべて大きく頷いた。
「それは嬉しいね」
ゆっくりとセインが立ち上がる。
テーブルの上は綺麗に片づけられ、いつの間にか給仕の者たちは全員部屋を出ていた。
二人きりの食事室でセインが席を立ったとなれば、食事の時間は終わりである。
アナベルも席を立つ。
すると、傍に来たセインにそっと抱き寄せられた。
「え?」
「いやでないなら許してほしい。君は私に、夢の中にいるかのような幸せを与えてくれる人だ」
この場であっためてもらう必要はないのだが、恍惚とした様子で喜んでいるように感じるセインに水を差すのもはばかられる。
相変わらずの過剰な褒め言葉に照れ笑いが浮かぶも、アナベルは自分のほうからもそっとその背に手を伸ばした。
抱きしめて貰うばかりでは自分だけが心地良い思いをすることになる。それでは悪いので、少しでも何か返せないものかと抱き返してみた。
すると、アナベルの顔を見たセインが瞳を輝かせ、その面に至福の笑みを浮かべた。
「アナベル」
「はい。なんでしょうか?」
セインに比べて柔らかさがまったく足りないことには目を瞑って下さい。そう願いながらその目を見つめるアナベルに、セインがそっと唇を寄せてくる。
何か重要な話でもあるのだろうかと少し首を傾げたところで、扉が叩かれた。
「公爵様。よろしいでしょうか?」
「……ダニエル。何用だ?」
セインは苦虫を噛み潰したような顔をし、渋々といった様子でアナベルから手を離した。少し不機嫌そうに、先程の席に戻ると座った。
それを見てアナベルも席に座り直す。
あっためてもらう必要はないと思ったが、セインが側から離れるとなんだか不思議な寂しさを覚えた。
この感情は何かしら、と自分のことなのにはっきりしなくて考えているとダニエルが入室した。
セインには当然のこととして、アナベルにも同じように丁寧に挨拶したダニエルは、思いも寄らないことを言った。
「私にお客様ですか?」
ダニエルが語ったのは、アナベルに面会したいと十人以上の貴族がこの城を訪れているといった内容だった。
驚いて目を丸くするアナベルとは対照的に、セインはその報告に面白そうに笑っていた。
「さっそく来たか。是非とも自分の家を君に選んでほしいと贈り物でも持ってきたのだろう。もしくは、君という人間の品定めといったところか……」
「品定め……」
気持ちのいい言葉ではないが、つばを飲み込んで居住まいを正した。
昨夜は何事もなく済んだが、皆が皆、突然現れたマーヴェリット公爵の婚約者など認めるわけがない。しかも、その女が身分も財もない一般市民であるなら尚のこと、反感を覚える者は出るに決まっている。
いよいよ戦いが始まるのだ。
アナベルは膝の上でぐっと拳を握りしめたが、セインは変わらぬ笑顔のままダニエルにあっさりと命じた。
「養女狙いの者達には、こちらから話を持って行くからと言って帰せ。その他の者達には、私の婚約者は夜会の疲れが抜けず休んでいるとでもして、これも帰しておけ」
「かしこまりました。では、そのようにいたします」
ダニエルは特に反論するようなことはなく、優雅な所作で一礼すると食事室から出て行った。
アナベルは拍子抜けする以上に、予想外の展開に訳がわからなくなった。
「セイン。私は、いま訪ねて来られたような人たちの相手をするために、昨夜婚約発表したのではないでしょうか?」
それが誰にも会わないでは、何の役にも立たない偽装婚約となるのではないだろうか。
「そのためだけというわけではないが……確かにそうだね。だが、陛下の快癒が先だ。それまでは君に、極力煩わしいことはさせたくない」
「……お気遣いいただきありがとうございます」
本当に、どうしてこんなに気配りできるのだろう。
自分には縁遠いものであるその繊細さは、是非とも見習わねばならない。
「今日はこの城を見物して回るといい。そして、自分の住まいとして慣れてほしい」
「……すみません。祖母の家に帰ってきてもよろしいですか? やはり直接会って報告しておきたいのです」
昨夜は引き止められてその通りとしたが、アナベルとしては一度帰っておきたかった。
「外に出るのは危険が……」
「空間移動魔法で跳んでいきますので、外を歩くことはしません。祖母に報告を済ませたらすぐに戻ってまいります」
止めようとするセインの言葉に被せるようにして、危険はないと主張する。
「空間移動魔法?」
「地方から王都、といった長距離の移動は不可能なのですが、王都内くらいでしたら、一度行った場所であれば移動できる風魔法の一つです」
不思議そうな顔をしたセインに説明すると、感心した面持ちとなった。
「そんな魔法も使えるのだね。すごいな……」
「ですから、夕刻にはこちらに戻っていると思います」
笑顔で約束すると、今度はセインも否とは言わなかった。
「わかった。では、私はこれから王宮に行かねばならぬから、夕刻に会おう」
「王宮……」
宰相であるからセインに王宮で政務があるのは当然だ。そして、アナベルが王に魔法をかけることに関しての手配もせねばならないのだろう。
だが、王宮と聞いてアナベルは少し背筋が震えた。
現在のベリルでは、王太后よりもマーヴェリット公爵の権勢が強い。だから、王太后はどんなにセインが目障りでも排除することは叶わない。
アナベルとてそのことは知っている。
それでも、セインを誰より憎む呪い攻撃の元凶がいる場所に行くのだと思うと、とても心配になった。
アナベルは無意識の内に席を立つと、その傍に向かって歩んでいた。




