031.安売りはいけません
アナベルはどことははっきりしないが、あたたかくてふかふかした場所で横になっていた。
とても居心地がよくうっとりと浸りきって微笑むもしかし、一つだけ不満があった。
おなかがすいたわ……。
寝床は快くともそれが不満で、口がへの字になる。
すると、とてもいい匂いが鼻腔を擽った。
匂いに釣られてそちらに目を向けると、大きなお皿に盛られた肉料理が出現していた。
ほかほかの湯気。艶やかなあめ色に輝くお肉は、アナベルの心を一瞬で虜にした。
これまた都合よく手許に現れたカトラリーを手にすると、突き刺してほおばった。
ところが、満足を覚える前に頭上から声が降ってきた。
「アナベル。私は食べてもおいしくないと思うよ」
「?!」
苦笑交じりの聞き覚えのある声に、なんだろうと思った時には肉料理が消えていた。
ああ私のお肉……と思うも、自分は夢を見ていたのかと気付いて目を開く。
アナベルはそこで目の当たりにした光景に、頭から冷水を浴びせかけられた心地となり、一気に覚醒した。
セインに抱きつくようにして、その肩口に噛みついていた。
先程まで浸っていたふかふかのあったかい物に、おいしいお肉……。
「抱きつかれるのは嬉しいが、さすがにこれは理性が持ちそうにないのでね……」
「も、もももももも申し訳ございませんっ!」
飛び跳ねるようにして大慌てでその傍を離れると、寝台に額ずくようにして頭を下げた。
歯は立てていないとはいえ、襟元をはだけてはむはむと味わっているなど……寝ぼけるにしても酷すぎる。
己の無礼が恥ずかしくてアナベルは身を震わせた。
「そんなに端に寄ってしまうと落ちてしまうよ。私もぬくもりが減って寂しい。こちらにおいで」
「え?」
怒りの感情をまったく感じないセインの声に、伏せていた顔があがる。
目の合った彼は柔和な笑みを浮かべていた。
「魔法を使った疲れは癒えたかい?」
「は、はい。おかげさまで……」
カウリー家では体験したことのないとても気持ちの良い寝具に包まれたおかげか、それはもうスッキリと癒えている。
床やソファで眠ったのでは、きっとこうはいかなかったはずだ。
この寝台に寝かせてくれたセインには感謝するばかりである。
が、自分のほうは最低である。これを恩を仇で返すと言うのだ。
広い寝台だというのにセインに擦り寄り抱きついていた。あったかくて柔らかいから心地良くて、無意識の自分はどんどん寄って行ってしまったのだろう。そう思うも、それは淑女たる者のすることではない。
どうして端っこで丸くなってないのよ! と遠慮を知らぬ己を心の内で罵るも、やってしまったことは無しにはできない。
礼儀知らずなおこないを猛省するばかりである。
「そんなに小さくなる必要はないよ。私達は結婚するのだから、寄り添って眠るなど当然のことではないか。一人で眠るより二人のほうがあったかくていいものだ」
冷や汗を掻いて肩をすぼめるアナベルに、セインは機嫌のよい声で言ってにこにこ笑っている。
噛むまでしてしまったアナベルの無茶苦茶な寝相に怒っていないというのはわかる。が、結婚するとはどういうことだろうと首を傾げたところで、眠る間際の会話を思い出した。
「偽装はやめて、私と本当に結婚するとおっしゃった……」
アナベルはそこまで言うと全身がかあっと熱くなった。気が動転して挙動が怪しくなり後ろにひっくり返りそうになる。
「危ないっ!」
セインが素早くアナベルの腕を掴み、自身の胸元に抱き寄せた。
「頭から床に落ちるようなことになれば、ただでは済まないよ」
端っこではなく真ん中にいなさい、と移動させられる。
寝台からは降りた方が良いと思うも、助けて貰っておいて逆らうのもどうかと思い、アナベルはセインの正面にちょこんと座った。
「あ、ありがとうございます……私と結婚するというあれ、冗談ではないのですよね?」
はきはきと問うべきだと思うも緊張してしまい、とてもそうはできなくてぼそぼそとその顔を窺いながら問うた。
「もちろんだ。私はあのような冗談は言わぬよ」
「…………」
ということは、アナベルも本気で返さねばならない。
ごくりとつばを飲み込んだ。
「誰よりも大事にする。私の妻となったことを後悔させたりなどしない。だから、前向きに考えてほしい」
真剣な眼差しにてまっすぐに見つめられて囁かれる。
偽りをまったく感じない情熱的なその言葉に、脳がうっとりした。
だが素直にはいとは言えなかった。
「……治癒魔法が必要な折にはどのような高度なものであっても、他にお客が何人いても、いつでもセインを最優先しますよ? もちろんお代など頂きません」
結婚などしなくとも、アナベルはこの先ずっとマーヴェリット家を守り続ける。
それに関しては、無料でどんな高度な魔法であろうと使うつもりでいる。
すると、セインは首を横に振りアナベルの頭を優しく撫でた。
「君が魔法使いであるから妻にと望んでいるのではないよ。私は君の持つ心が好きだ」
「こころ……ですが、私には魔法以外にセインにしてあげられることがありません。ですから、申し訳なくて無理です」
「え?」
怪訝な顔をするセインに、アナベルは残念だなあと思いながら口にした。
「私たちが結婚すればきっと、私のほうがセインにして貰うばかりになると思うのです。そんな、セインがたくさん損をするとわかっていて、お話を受けることはできません。あまりご自身を安売りしない方がよろしいかと……」
「損とは……いったい何を言っているのだ?」
セインがきょとんとし、何度も瞬きしながらアナベルを見る。
何を言われているの心の底からわからない、といった様子でいるのに苦笑した。
「私は両親から授かった容姿にとても満足しておりますし、病気知らずの健康な身体に産んでくれたことにも感謝しています。そして、魔法使いであることも幸運であると思っています。ですから、自分のことをつまらない人間とは考えておりません」
ブルーノの好みからはかけ離れていたので何度か罵られているが、アナベルもブルーノのきつくて冷たい容貌が嫌いだったので、落ち込むようなことはなかった。
だからアナベルは己を卑下したことなどない。
「もちろんだとも、君はとても魅力的な人間……」
アナベルが語るのに、セインが笑みを浮かべて相槌を打つが、その唇に人差し指と中指を添えて最後まで言わせないようにした。
「魅力的なのはセインのほうです。話せば話すほど、いいなと思うところが際限なく増えていくのです。何がいい、とはっきり言葉にできるものばかりではないのですが……側にいると不思議とあったかい気持ちになって嬉しくなるのです」
頭を撫でて貰うのも大好きで、ずっと撫でていてほしいとさえ思う。
「…………」
はにかむように笑ったアナベルを、セインは無言で見つめていた。
「セインは私の親や兄弟ではないのだから、そんな風に思うのはおかしい。そう思っても、なんだか無性に甘えたくなって困るのです。ですからお嫁さんにして頂ければ、私としては良いことばかりなのですが……」
「良いことばかりと言うのなら、それが一番ではないのかい?」
心持ち頬が赤く染まっているように見えるセインに、アナベルは首を横に振った。
「あなたは私には上等すぎて申し訳ないのです。私は自分のことをつまらない人間とは思いたくありません。ですが、あなたを見ているとつまらない人間なのだなと思います。どんな上級魔法が使えたところで……セインが与えてくれるあったいものには到底かないません。私はあなたにたくさん幸せな気持ちにして貰うばかりで、返せるものがないのです。あなたに何か駄目な所でもあれば、私でも役に立てるからいいのにと残念に思いますが……こればかりは仕方がありませんね」
名門公爵家を守る当主であり、政の要でもある宰相閣下に、駄目な男になって下さいとは言えないわけで……。
アナベルは夫となる人を幸せな気持ちにしてあげたいと思っている。自分と結婚してよかった、と笑顔で頼ってほしいのだ。
でも、セインは家柄財力に加えて心根まで立派という非の打ちどころのない人であり、アナベルの助けを必要とするところなどまったく見当たらない。
王が快癒すれば、魔法使いを必要とするような弱みなどないだろう。
そのような人と結婚すれば、きっとこちらが助けてもらうばかりになる。アナベルはそれは嫌なのだ。
本当に、地位も財もなくしてきゅきゅだけ抱えてアナベルのところに転がり込んできてくれたなら、すぐにでもお嫁さんになるのに……。
うまくいかないものだ。
「私は君が思うような完璧な人間ではない。父には家を守ることだけを叩き込まれて育ち、王家に忠誠を尽くしてほしい願いながらこの世を去った母の言葉を守っているだけだ。公爵家を守る道具として生きているだけのつまらない人間だよ」
「つまらない人間を隊長は命がけで守ったりなどしません」
それにアナベルも心惹かれたりなどしない。
言葉を否定したアナベルに、セインはとても幸せそうに笑った。
「私は自分のことをつまらない人間だと思うが、君は違うと言ってくれる。君は自身のことをつまらない人間だと言うが、私はそれを間違いだと否定する。……というふうに、己のことと言うのはその本人こそが最もわかっていないのだと私は思うよ」
「そうかもしれませんが……」
違う、とは言い難くて小さく頷くとセインの笑みが深まった。
「だからね、君が私に返せるものがあるかないか、損をするもしないも、決めるのは君ではない。君を望む私だ。私は君に求婚することを、自分を安売りするなどとは思わない。むしろ、我が家の財産などすべてはたいても到底追いつかないほどの高い買いものをしていると思うよ」
「それは言いすぎ……」
今度はセインがアナベルの唇の人差し指を当て言葉を遮った。
「言いすぎではない。私にとって君という人間にはそれだけの価値がある。前向きに考えてほしいとは言ったが、急いで答えを求めたりはしないよ。私たちは昨日出逢ったばかりなのだしね……ゆっくりでいい。だが、私の身分や持ち物など余計なことを考えて後ろ向きにだけはならないでほしい」
「では、損をしないと思うくらい私にたくさん頼っていただけますか?」
アナベルはそんな事は無理だろうと思いながら、眉を下げて問うた。
人生経験にも乏しく地位も身分もないに等しい女に、最高の貴族が何を頼るというのだ。呆れたことを言うなと返るのを覚悟しての言葉だった。
「そんな嬉しいことを言われると……図に乗って君が悲鳴をあげるまで頼ってしまうよ。私は弱くて甘えたがりの人間だからね」
アナベルに返ったのは、罵声ではなく朗らかな笑みだった。
「セイン……」
セインが弱いとはとても思えない。
でもそう言ってくれるのは、アナベルがその言葉を望む気持ちが伝わっているからだ。
セインにしてあげられることがたくさんあるなら、花嫁となってずっと傍にいられると夢見るアナベルの心に、応えてくれたのだ。
そういう優しくて心の大きな人だから、どんどん惹かれていく。
感激して瞳が潤みそうになったその時、おなかが空腹であることをものすごい勢いで主張した。
「…………」
「……も、申し訳ございません。魔法を使った翌日は、とてもおなかがすくのです!」
驚いて固まっているように見えるセインに、アナベルは全身真っ赤に染めてその場にうずくまった。
あったかい雰囲気を無神経にぶち壊すような女と結婚すれば、やはりセインは損をするばかりだ。つくづくと思った。
小説書籍二巻。ここから……。
 




