003.アナベル領地を去る
『アナベルの腕にあるのは、不貞を犯したか否かを判断する腕輪だ!』
『婚約者に対して誠実であれば、簡単にはずれる問題のない物だ!』
『だが、はずれなければ罪に相応しい罰が与えられるのだ!』
と、いくらブルーノが声高に主張したところで、アナベルの腕にある物が真実、不貞を犯していなければはずれる物であるかどうかを判断できる人間は、この領地にはいない。
それどころか、王都で腕輪を検分したという王宮魔法使いに問い合わせれば、ブルーノの嘘など一発で明るみに出る。
だから腕輪がはずれない事だけを不貞の証とするのは、本来であれば不充分だ。
しかし王家に仕える王宮魔法使いというのはとても高位の役職であり、一般の民がおいそれと会話を交わすなど不可能な存在である。
ブルーノの主張を聞いた領民は、王宮魔法使いに問い合わせようなどとは考えなかった。
ブルーノは人当たりの良い品行方正な好青年であり、魔獣を退治した功労者でもある。
しかも、現伯爵の継嗣だ。
将来、この地の領主となる人間なのだ。逆らっても良いことは何もない。
そちらに重きを置き、そのような立派な人間が嘘を吐くはずがない! と、ブルーノの言葉を信用したのだ。
猫かぶりと身分が十二分に効力を発揮したのである。
叔父は領地の者達に支持されるブルーノの言葉を受け容れ、アナベルとの婚約破棄を認めた。
「その腕輪がはずれないからと、私としては、息子の言いぶんだけが正しいとは思っていない。アナベル……生真面目なお前は、婚約者を裏切るような娘ではない。だが……」
腕輪を填められてから一週間が経過した。
この地を離れる準備の整ったアナベルが、別れを告げにその許を訪れると、叔父は心苦しそうにぼそぼそと言った。
叔父は、ブルーノの主張を完全に鵜呑みにしたわけではないのだろうが、文武両道に秀でて快活で美丈夫の息子を溺愛している人だ。
それはもう大甘である。
結局はなんだかんだ言いつつもブルーノの味方だ。
アナベルを一方的に悪者として婚約の破棄を主張するブルーノに、思いとどまれ、と説得することはしなかった。
アナベルとの最後の会話をすっかり忘れているブルーノは、知らぬ間に起きた部屋の惨状と全身の打ち身に吃驚したそうだが、原因究明にこだわるようなことはなかった。
それよりも、自身に落ち度がないことを強調する為、アナベルのことを不貞を働いた悪女として盛大に吹聴している。
アナベルに現在寄せられる目は父親を亡くした気の毒な伯爵令嬢から一転 『結婚を待ち望んでいた婚約者を裏切り、貞節を守らない男好きの悪女』 である。
一見優しげで権高いところのないブルーノは、領内で高い人気を誇る青年だ。
対してアナベルは、屋敷の内で刺繍や裁縫をしているほうが好きで、あまり外に出ない娘だった。
貴重な魔法使いであるが、下手に目立ちたくないのでその事は隠している。
しかも、王都の高等学院に通うため三年領地を離れていた。
領民たちはそんなアナベルの人となりを正確に知ることがない上に、人気者のブルーノが完全に被害者となって哀れみを誘う姿を披露するものだから、アナベルに付く悪評はうなぎ登りとなった。
前伯爵の娘であるので暴力的な目に遭うようなことはなかったが、どこにいようと人の目が付いて回り、ひそひそと陰口をたたかれた。
『あのような立派な婚約者を裏切るとは、なんと最低な人間なのでしょう!』 と。
この上なくむっとするも、しかしアナベルは婚約破棄に関しては大歓迎なので、それを正そうと尽力することはしなかった。
そう。
アナベルが何も言わないことで、余計に、ブルーノの言葉に信ぴょう性が出ているのである。
「ブルーノが私と結婚したくないように、私も彼と結婚したいとは微塵も思っておりません。ですから、婚約破棄に関しては歓迎しています」
不貞を働いていないことは自分が知っていればいい。
二度と戻らぬ地の者達になど、どう思われようと構わない。
この地の者達が、この地を愛しているとはとても思えないブルーノを上質な次代の領主として持て囃すなら、そうしていればいいのだ。
アナベルは叔父に向かって右手を差し出した。
「なんだい?」
「もう二度とこの地には戻りません。これよりは母の姓であるグローシアを名乗り、一般の民として生きていきます」
「アナベル……すまない」
アナベルの決断に、叔父が申し訳なさそうに眉を下げた。
「婚約者を裏切った罪の意識に耐え切れず死んだとしてくださったので結構です。こちらの伯爵家とは何のかかわりもない人間となると誓いを立てますので、当座の暮らしに困らぬ資金をください。名誉を傷付けられた分を付けて、たっぷりと!」
「ぅっ!」
碧の瞳に力を込めて睨みつけるアナベルの眼差しに気圧され、怯えたように肩を震わせながらも、叔父はこくこくと何度も頭を振って頷いた。
◆◆◆
アナベルは両親の墓前に別れの挨拶を告げると、その日の内に領地を離れた。
祖母を頼って王都セレストに旅立つ。
セレストは、アナベルの生家のあった領地より汽車で二日かかる。
二年前に即位したばかりの、ベリル王国の統治者たるアルフレッド・フィラムの住まう宮殿のある、王国で最も栄える都市だった。
その西区の外れにて、祖母は裏通りに小さな店を構えて商いをしていた。