021.婚約発表
「見覚えのある顔だと思ったら……どうして、君がここにいるんだ?」
「それは……」
こちらの言う言葉、と口にしかけて喉の奥に飲み込んだ。
ベリル中の貴族が招かれていると囁かれる夜会だ。ブルーノが出席していても何らおかしなことではない。アナベルの視界の内には見当たらないが、叔父夫妻もいるのかもしれない。
特に、ブルーノは地方領主として生きるのではなく、王都で中央政治に携わっての出世を目論んでいる。そのような人間が宰相閣下の祝いの席を利用しない筈がない。親しくなる絶好の機会として嬉々として訪れているはずだ。
「父上は君の行き先は知らないと言っていたが、王都に出たのだな。公爵家で給仕として働いているのか?」
「は?」
とんでもない勘違いに呆れた声しか出なかった。
「それにしては、ずいぶんといい物を着ているような……」
アナベルのあげた声など完全無視で、ブルーノは自身の考えに没頭していた。
「もしや、どこぞの貴族をたぶらかして愛人にでも収まっているのか? いや、地味顔の特別秀でた物も持たない女を愛人にするような物好きはいないだろうし……」
「…………」
失礼な!
また思い切り足を踏んでやろうかしらとアナベルは目を据わらせた。
「まさか、カウリーの名を使ってここに来ているのではないだろうな!」
人目を考慮してかそれほど大きな声ではなかったが、厳しく問い質される。
こちらを睨む陰険な目を、アナベルは毅然と顔を上げて睨み返した。
「そんなもの使ってないわ。叔父様に誓ったもの。今の私は一般市民のアナベル・グローシアよ」
返事に、ブルーノは満足そうに目元を細めた。
「それならいい。アナベル・カウリー伯爵令嬢は不貞を悔いて病を得、その果ての病死として葬儀をおこなっている。正式にこの世にいないものとなっているのだ。いまさら出てきたところで、誰も君を伯爵令嬢とは認めない」
「…………」
堂々と言い放ったブルーノに、アナベルはうんざりした。
彼は自分勝手な理屈を振りかざしてアナベルに呪いの腕輪を填めたことも、死者として戸籍を抹消したことにも罪悪感をまったく抱いていないのだ。
それどころか、この再会を不愉快なものとして苛立っている。
どうしてそんな風に、自分のおこないはすべて正当なことだと思いながら生きられるのだろう。不思議すぎて理解できない。
「もっとも、君が伯爵令嬢と認められたところで、不貞を犯して婚約者を裏切った女と蔑まれ、誰も相手にしないだろうがね」
ブルーノはにやりとそれはそれは陰湿な笑みを浮かべた。
心底嫌いだと思う。
こんな男と結婚せずにすんで本当に良かった。この世のすべてに感謝である。
「あなたと関係のあるカウリー家の人間だなんて誰にも言わないわ。これでいいんでしょ、じゃあね」
これ以上話していても腹が立つばかりで何も得るものなどない。
アナベルはブルーノに背を向け、場所を移動することにした。
ところが、ブルーノはアナベルの左腕を掴んで引き止めた。
「一般市民として生きていると言うなら、一体何の目的があって貴族の集まりであるこの場にいるのだ?」
「お世話になっている方に恩を返すためよ」
探りを入れてくるブルーノの手を振り払うと、訝しげな顔が返ってきた。
「恩を返す? 訳の分からないことを……」
「私のことを、いちいちあなたに説明する義理はないわ。私たちは、見ず知らずの他人なのですからね」
少し強い口調で言うと、ブルーノはアナベル以上に強い口調で居丈高に命じてきた。
「その言葉、くれぐれも忘れるんじゃないぞ! 私と関わりがあるなどと一言でも他人に洩らしたら許さないからな!」
「許さない? よくもまあそんな言葉が言えるわね。こちらが大人しくしていれば言いたい放題……自分が私にしたおこないがどれほど悪辣なものか、本当に微塵も理解していないのね。どこまで最低な人間なのかしら」
一言謝罪が欲しいなどと、そんな言葉は言っても無駄なので言うつもりはまったくなかった。
が、まさかのこちらを許さない発言が飛び出してくるとは。
まったく、ブルーノという男はアナベルを怒らせる天才なのかもしれない。
「なんだと……今の私は伯爵家の継嗣なのだぞ。一般市民となった身が何を偉そうに。身の程を弁えろ!」
アナベルの非難に激高し、ブルーノが再び腕を掴んでくる。
今度は力任せに握られ、びりっと走った痛みにアナベルは顔を顰めた。
「目障りだ。さっさと出て行け!」
ブルーノはゴミでも見るような目でアナベルを見て吐き捨てると、そのまま歩き始めた。
庭を楽しむ為に開け放たれているガラス扉のほうへ、アナベルを引っ張っていく。
ブルーノはそこからアナベルを会場の外へ放り出すつもりなのだ。
アナベルはブルーノの使用人ではないし、たとえ一般市民であっても、この場に入ることを許されたなら、退場を命じる権限は主催者のマーヴェリット公爵しか持たない。
その事をブルーノはまったく考えもせず、自分にとってアナベルが邪魔だから追い出しても良いと単純に考えて行動しているのだ。
自分の都合でアナベルをどうにでも扱えると考えている。相変わらずの傲慢さにますます嫌悪が募る。
そんな人間に腕を掴まれているのが、気持ち悪くて堪らない。
しかし、その場に踏ん張って抵抗しようにも、体格も力も敵わないアナベルにそれは儘ならず、だからと大声をあげれば、いらぬ注目を浴びてしまう。
とりあえず、今のところは男女が手を繋いで歩いているようにしか見えないのだろう。誰も特別こちらを注視してはいない。
体力では敵わなくとも、アナベルには魔法がある。
素直に放り出されるなど冗談ではない。ブルーノの方を放り出してやろうと魔法力を高めたその時、ひゅん、と風が頬を吹き抜けた。
【副隊長に、なにしてるのよ!】
怒声と共に、きゅきゅの後ろ脚がブルーノの後頭部に見事な蹴りを入れていた。
「なっ! ひ、飛竜……」
突然の衝撃に驚き少し前につんのめったブルーノは、その拍子にアナベルの腕を離した。
そして、目の前を飛ぶきゅきゅの存在に、呆然として目を瞠った。
「どうしてここに……」
「私のきゅきゅが、どうかしたかい?」
ブルーノの声に応えたのは、人垣の中からゆっくりと姿を見せたセインだった。
大勢の注目を一身に浴び、次々と掛けられる祝いの言葉に応えながらアナベルの傍に立ったその姿に、ブルーノは見入っていた。
「さ、宰相閣下……」
その口から出たのは緊張しているのがよくわかる、掠れて震える弱々しいものだった。
アナベルは初めて会った時セインの顔を知らなかったが、ブルーノは出世を考えているだけあり、きちんとその顔を認識しているようだ。
それでも、このような形で相対するとは思ってもいなかったのだろう。
舌がもつれて上手く言葉が出ないでいる様子に、アナベルは心の内で意地悪く笑った。
「何か、粗相でも?」
「い、いえ……滅相もないことでございます。とてもお可愛らしいですね。さすがは宰相閣下の聖獣です! お初にお目にかかります。私はカウリー伯爵の一子、ブルーノ・カウリーと申します。本日は、お誕生日誠におめでとうございます。ご挨拶できましたこと、光栄に存じます!」
しかし、ブルーノはすぐに平常心を取り戻した。
アナベルの存在など完全に無いものとして見向きもせず、セインに高揚した面持ちで追従を述べ、この機を逃してなるものかとばかりに自身の名を伝えた。
ブルーノはセインの顔は知っていても、こうして直接会話を交わすのは初めてのようだ。
それもそうだろう。いくら魔獣を退治して王宮で褒賞を得たからと言って、その席に宰相が同席するとは限らない。
そして、出世栄達を目論む人間が、想像外の事態に直面したからといつまでも驚いて固まっているようでは話にならない。
そうは思っても、いつまでも固まっていればよかったのにと思わずにはいられないアナベルだった。
「ブルーノ・カウリー……ああ。君のことは聞いている。魔獣退治の指揮をとり、見事に仕留めた強者だそうだね。有望な若い貴族がいると軍の者が褒めていたよ」
「さようでございますか! ありがとうございます!」
セインに柔らかな声音で言葉をかけられたブルーノは、セインが自分のことを知っているという事実に浮かれきっていた。
その姿にアナベルはもやっとする。魔獣退治は確かに功績だが、ブルーノがセインの高評価を得るのは嫌だ。
どうしても目が据わり、苛立ちばかりが募っていく。
そんなアナベルの肩にきゅきゅが留まった。
『きゅう』
可愛らしく鳴くと頬を翼で一撫でしてくれた。
アナベルの鬱屈を労わってくれるかのようなそのしぐさに、口元が綻ぶ。
「さっきはありがとう。今もね……」
二重の感謝を込めてその身体を撫でた。
「ところで、君は先程彼女の腕を掴んでどこかに連れて行こうとしていたように見えたのだが、知り合いなのかい?」
「え、いえ、それは……」
セインが問うた途端、ブルーノの浮かれた顔が一変した。アナベルの存在を思い出して覿面に強張り、返す言葉はしどろもどろの歯切れが悪いものとなった。
「知り合いでないのなら、私の婚約者にみだりに触れないでほしいものだ」
「こんやくしゃ?」
それまでの柔らかさが消え、氷の刃を連想させるほど冷ややかなものを纏うセインの言葉に、ブルーノは呆けたように口を開けた。
「そうだ。彼女は私の大切な婚約者なのだよ」
セインが少し手を伸ばし、アナベルの腰を抱くようにする。
アナベルは、にっこりと微笑んでその傍らに寄り添った。
まさか、こういう手順になるとは思っていなかったが、いよいよ偽装婚約の披露である。堂々と立っていられるよう、気合を入れた。
「今宵集まってくれた皆にも伝える。私は、こちらのアナベル・グローシア嬢と結婚することを決めた。今日は二重の意味で祝いの日だ!」
セインの宣言は瞬く間に大広間中に伝わり、蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。
『おめでとうございます!』 と歓喜の声をあげる者。
『いったいどちらのご令嬢なのだ?』 とアナベルの素性を気にする者。
『ご結婚なんて、そんな……』 と公爵夫人の地位が手に入らなくなったことを嘆く者。
様々だった。
「宰相閣下がアナベルと結婚……そんなことが……」
ブルーノは真っ青になり、顔中に汗を滴らせていた。
天国から地獄に急降下。恐怖に慄いているかのような姿に、溜飲が下がる。
セインの婚約者となったアナベルが自分を悪しざまに罵れば出世の道が断たれると想像しているのだろう。
大きな声をあげて笑ってやりたいが、会場中の注目を集めている現状でそれをやるわけにはいかない。
セインに恥を掻かせないよう大人しく清楚に見えるようにと心がけていると、人垣が割れて女性が一人進み出てきた。
豊かに波打つ黄金の髪に、まるで宝玉のような紅い瞳の持ち主である。
目じりがすっと切れ上がり、鼻も高く形も良い。長い手足に白皙の肌の、素晴らしい姿態。大輪の薔薇を連想させる美しい女性だった。
「オリヴィア嬢」
セインが呟いた名を聞いて、この女性がセインに最も執心している侯爵令嬢なのだと知る。
確かに、噂通りの美女だ。
しかもこの女性……自身が美しいということを充分に熟知している。
オリヴィア・ラッセル侯爵令嬢の、その面に浮かぶ自信溢れる笑みに、アナベルはそれをはっきりと感じた。




